恵みの汗と祈りの静寂――託された命の言葉と、ささやかな祝祭
久しぶりに見上げた空は、清々しいまでに晴れ渡っていました。 光をいっぱいに浴びた今日は、私の身体から幾度も「良い汗」が流れ落ちた、記憶に刻まれる一日となりました。
朝のランニングで流した大量の汗。 昼下がり、妻と二人で汗だくになりながら奮闘したノアのシャンプー。 そして、その後の洗車。
流れる水滴とともに、身体の中に溜まっていた澱のようなものが洗い流され、ノアも私たちも、心の底からすっきりとした心地よさに包まれています。しかし、今日私が流したいくつもの汗の中で、最も重く、そして最も尊い熱を帯びていたのは、説教壇の上で流した汗でした。
祈りという名の、静かな寄り添い
無事に主日礼拝を終えられたことに、深い感謝が込み上げます。 礼拝後のお茶会では、多くの方々と心を通わせ、語り合う恵みの時間を持ちました。その対話の中で改めて私の胸に迫ってきたのは、90歳を過ぎ、お年寄りだけで暮らしておられる方々の、厳しくも切実な日常の風景です。(将監からバスで泉中央駅まで向かい、そこから地下鉄に乗って長町へ。
そして駅から歩いて教会の礼拝にいらっしゃる方です。)
- ヘルパーさんが帰った後、二人きりで過ごさなければならない長い時間。
- 健康であれば乗り越えられることも、持病を抱える身には重くのしかかる現実。
- 老いという、誰もが避けては通れない静かな闘い。
その現実の前に立つとき、私たち人間の手の届く範囲がいかに小さく、無力であるかを思い知らされます。私が直接、彼らの痛みを身代わりとして背負うことはできません。
だからこそ、私にできることは、その方々の存在を心に深く刻み、日々「祈る」ことです。そして時折、手紙をしたためて励ましの言葉を届けること。祈りとは、決して何もしないことではなく、物理的な距離を超えてその人の魂の傍らに座る、最も確かな「寄り添い」の形なのだと信じています。(以前、長町から将監のお宅まで、何度も歩いて訪問したことがあります。
ある日はノアと一緒に歩いて伺ったこともあり、その道のりを思い返すと、今でも懐かしさが胸に広がります。)
説教壇の汗と、聖霊の風
皆さんが帰られた後、最後の手直しと片付けを終え、三人で食卓を囲みました。メニューは、手早く作ったツナとキムチの炒め物。そんないつもの簡単なランチが、今日はやけに美味しく、体に染み渡りました。日常の労働と生活の営み。その中で、私は今日も説教壇に立ちました。
熱く語る言葉とともに流した汗。それは「何とかこのメッセージが、一人ひとりの心に届いてほしい」という、魂の底からの願いの結晶です。しかし、どれほど私が汗を流し、言葉を尽くしたとしても、人の心を打ち、魂を生き返らせるのは私の力ではありません。それはひとえに、聖霊の力です。
私にできるのは、ただその目に見えない風のような聖霊の力を信じ、頼り、命の言葉を真っ直ぐに託すことだけです。高齢の方々のために祈ることしかできないように、説教壇においてもまた、私は自分の限界を知り、神の無限の恩寵にすべてを委ねるのです。私たちの流す汗は、神の恵みが働くための小さな通り道に過ぎないのかもしれません。
ささやかな祝祭の夜へ
心地よい労働の汗を流した日は、不思議と心が満ち足りて、少しだけ特別な時間を過ごしたくなります。 明日は、家族皆が休みの日。そして、私のランニングも休日に定めている日です。半年に1回、あるいは2回あるかないかの、心置きなくお酒を味わう機会。今夜は、妻と娘のために美味しいものを買って、食卓を彩ることにしました。
厳しい現実を生きる方々への祈りを胸の奥に灯しながら、同時に、今自分に与えられている健康と、家族と笑い合える何気ない日常の恵みを、両手でしっかりと受け止めたいと思います。快くグラスを傾け、語り合うささやかな祝祭の夜。この安らぎもまた、神様から与えられた明日のための糧です。
祈るべき人を覚え、流すべき汗を流し、そして恵みに休む。 今日も、共に前進です。
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