【見えない空の向こう側へ】灰に還る命と、魂の向かう確かな場所
昨日のフルマラソンを走り終えた体に鞭を打つわけではなく、今朝もいつものように27キロの道のりを走りました。フルマラソンの翌朝にあえて走ることは、私にとって欠かせない習慣です。立ち止まって休息するよりも、静かに足を動かし続ける方が、かえって体の強張りが解け、不思議と重さが抜けて軽くなっていくのを感じるからです。
見上げた空は、重く垂れ込めた曇り空。今日と明日は、このまま曇りと雨が続く予報です。しかし、このどんよりとした空模様もまた、今日という一日にふさわしい静けさを連れてきてくれているように思えます。
「天に送る」という人間の祈り
本日は、教会で召天者記念礼拝が捧げられ、午後からは墓前での礼拝が予定されています。すべては、主の豊かな恵みと導きの中で、厳かに執り行われることでしょう。
走りながら、私の心は「見送る」という行為の重さについて深く沈潜していました。 自分を育ててくれた親を天に送る。 苦楽を共にしてきた連れあいを天に送る。
愛する我が子を天に送る。 共に育った兄弟姉妹を天に送る。
私たちは皆、別れの悲しみの中で「天に送る」という言葉を使います。しかし、冷厳な事実を見つめれば、肉体は例外なく最後は灰となり、地にまかれて自然へと還っていくだけです。それなのに、私たちは愛する人を「どこへ」送ろうとしているのでしょうか。
- 獣と人間の決定的な違い
それは、人間が「自分たちはただの肉体の塊ではなく、魂を持つ存在である」と心の奥底で知っているからです。だからこそ、灰になった後も向かうべき「天」があると信じ、そこへ愛する人を送ろうと祈るのです。
疑い深い私たちが抱く、曖昧な希望
しかし、多くの人が思い描くその「天」とは、一体どのような場所なのでしょうか。
実は、誰もその問いに確信をもって答えることはできません。天の世界をこの目で見たこともなければ、科学的に証明することもできないからです。
本来、人間という生き物はとても疑い深くできています。自分の目で見て、自分の手で触って確認しない限り、おいそれとは信じようとしない頑なな存在です。それほどまでに現実的で疑い深い私たちが、死を前にした時だけは、なぜか証明もできない「天」の存在を信じ、すがりつこうとします。そこには、人間の抱える深い矛盾と、魂の切実な乾きがあります。
確かな約束の言葉を握りしめて
曖昧で、輪郭のない「天」という概念。 しかし、聖書はこの「死の向こう側にある世界」について、決して曖昧にはせず、極めて明確に語りかけています。
キリスト者とは、特別な神秘体験をした人や、疑いを持たない完璧な人のことではありません。自分の目では見えず、手で触れることができなくても、聖書に記された「神の確かな約束の言葉」をそのまま信じ、その言葉に人生の碇(いかり)を下ろして歩む人のことです。
- 見えないからこそ、信じる
曇り空の向こうに太陽が存在することを私たちが疑わないように。 聖書の言葉は、悲しみの霧を抜け、愛する魂が還っていく「確かな場所」を私たちに指し示してくれます。
マラソンの翌日、痛みを抱えながらも走り続けることで体が軽くなるように。 私たちも、悲しみや喪失という痛みを抱えたまま、神の言葉を信じて今日という日を歩み続ける時、いつしか魂の重荷が少しずつ軽くなっていくのを感じるはずです。
今日も、与えられた命の道のりを進みます。 見えない空の向こうにある、確かな約束を見上げながら。これから礼拝のための最終確認をします。
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