2025年1月17日金曜日

一緒に走る仲間

 


白く染まった道が、どこまでも続いている。冷たい空気が頬を刺すけれど、空は澄み渡り、遠くの橋が朝陽を浴びて輝いている。僕は今日も走る。この道を、そして自分自身の人生を。

 


僕にはいつも一緒に走る仲間がいる。それは僕の影だ。時には右側で、時には前を走り、まるで「頑張れ」と励ましてくれるように寄り添ってくれる。影は僕の分身のような存在だ。たとえ姿が見えなくても、そこにいることを僕は知っている。決して一人ではない。影がいる限り、僕は走り続けることができる。

 


今日のランニングは26キロ完走。少し疲れを感じるが心は満たされている。影とともに走るこの時間は、ただの運動ではない。自分と向き合い、そして自分を超えていくための旅だ。影は僕に教えてくれる。「君は一人じゃない」と。そして、「君はもっと強く(?)なれる」と。

 


昨夜、ノアちゃんと散歩をした。ノアちゃんは片方の目が見えなくなっているようだ。それでも彼は歩く。迷うことなく、まっすぐに。犬の本能の力だろうか。彼の姿を見ていると、僕は思う。どんな状況でも、前に進む力を持っているのは、僕たち人間も同じだと。ノアちゃんが教えてくれる。「大丈夫だよ」と。僕がしっかりしていれば、彼もまた安心して生きていけるのだ。

 


今日という日は、昨日とは違う。すべてが新しい。道も、空も、そして出会う人々も。僕たちは毎日、新しい命を与えられている。昨日の自分ではなく、今日の自分として生きることができる。それはとても尊いことだ。だからこそ、僕は今日も走る。影とともに、ノアちゃんとともに、そして新しい自分とともに。

 


この雪道を走りながら、僕は思う。人生もまた、こんな風に続いていくのだと。時には滑りやすく、時には冷たく、でもその先には必ず光がある。影が僕を支えてくれるように、僕もまた誰かの影になれるだろうか。誰かの背中を押し、「頑張れ」と声をかけられる存在になれるだろうか。

 


今日も生きる。それぞれの居場所で、それぞれの命を抱えて。僕たちは一人ではない。影が教えてくれる。ノアちゃんが教えてくれる。白鳥たちも教えてくれる。そして、この新しい一日が教えてくれる。

 


白い道の先に広がる未来を信じて、僕はまた走り出す。影とともに、今日という新しい命を抱きしめながら。主に感謝して。

 

身代金0円

 


"The Priceless Gospel - Missionaries and the True Value of Faith"

『計り知れない福音の価値 - 宣教師たちが示す信仰の真価』

 

銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。(創世記37:28)/ 「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。(マタイ26:15)

 

世界の危険地域で活動する救援要員や宣教師たちの身代金が「0円」という事実は、深い象徴的な意味を持っています。この一見矛盾する状況命を危険にさらしながら、その命に世俗的な価値を置かないという姿勢は、キリストの福音の本質を鮮やかに表しています。

 

主イエスの大宣教命令「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」は、

今日も世界中の宣教師たちを動かし続けています。彼らは見知らぬ土地で、言葉も文化も異なる人々に福音を伝えるという困難な使命に身を投じています。その働きの成果は、言葉による説得ではなく、日々の献身的な愛の実践を通して実を結びます。

 

多くの宣教地で、人々の心が開かれるのは、宣教師たちの語る言葉よりも、その生き方を通して示されるキリストの愛を目撃した時です。この過程には、計り知れない祈りと忍耐が必要とされます。時には命を捧げる覚悟さえ求められ、実際に多くの殉教者を生んできました。

 

しかし、歴史は彼らの犠牲が決して無駄ではなかったことを証明しています。日本を含む世界各地で流された殉教者の血は、福音の種となって、後の世代に実を結んでいます。この世では「価値なし」と見なされる彼らの働きは、神の国においては最も尊い奉仕として認められ、「命の冠」が約束されているのです。

 

詩編の言葉「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる」は、この働きの本質を美しく表現しています。福音の種を蒔くことは、確かに涙と苦労を伴います。しかし、それは永遠の価値を持つ働きであり、必ず喜びの収穫へとつながるのです。

 

真のキリスト者の姿勢は、自分の救いに満足することではありません。他者の救いのために自らを捧げ、福音を伝え続けることこそが、キリストの弟子としての本質的な使命なのです。今日も世界中で続けられている命がけの宣教の業は、この永遠の真理を力強く証ししているのです。

 

2025年1月16日木曜日

気にしない

 


気にしない。

嫌なことを言われたけど、気にしない。

あなたの価値は、誰かの言葉で決まるものじゃないから。

 

仕事がうまく行かなかったけど、気にしない。

失敗は次への学びのチャンス、それだけのこと。

 

ちょっと勉強のことで失敗したけど、気にしない。

一歩一歩の積み重ねが、いつか大きな力になるから。

 

物を間違って買っちゃったけど、気にしない。

完璧な人なんていない、それが人間らしさ。

 

プレゼンテーションに失敗したけど、気にしない。

挑戦する勇気があなたにはある、それだけで誇らしい。

 

発表会でミスをしたけど、気にしない。

次は必ずうまくいく、その経験が財産になる。

 

それで地球が滅びることはないから、気にしない。

小さな失敗は、人生という大きな物語の中の、ほんの一ページ。

 

今日は終わるからだ。

そう、今日の涙は明日の虹になる。

 

明日は、また明日の太陽が昇る。

そして、あなたの中の光も、また輝きを取り戻す。

 

生きよう!!!

あなたには無限の可能性がある。

一歩ずつでいい、

自分のペースで、

自分の道を、

ゆっくりと歩いていこう。

 

だって、あなたは一人じゃない。

同じように頑張っている人がたくさんいる。

同じように悩んでいる人がたくさんいる。

だから、肩の力を抜いて、

深呼吸して、

また前を向こう。

 

あなたの人生は、まだまだ始まったばかり。

今日の終わりは、新しい始まりの予告編。

 

さあ、明日も一緒に、

笑顔で生きていこう!!!

 


希望の日の出

  この温かな朝日のように、新しい一日はいつも、新たな希望とともに始まります。どんな時も、あなたには前に進む力があることを忘れないでください。

今日も頑張って生きました。

 


今日はノアちゃんを病院に連れて行きました。耳の出血が心配でしたが、ひとまず薬と家族の介護で様子を見ることになりました。それでも、歩き方も食欲も、そして表情も少しずつ良くなってきていて、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。出血している耳をタオルで巻いてあげたら、まるで負傷兵のような姿になってしまいましたが、ノアちゃんはじっと辛抱してくれています。その頑張る姿に、私たちも励まされる思いです。しばらくは一緒に辛抱の日々を過ごそうと思います。

 


夕食にはチキン料理を作りました。実習で頑張っている娘が「美味しいものを作って!」とリクエストしてくれたので、少し気合を入れてみました。家族が美味しそうに食べてくれる姿を見ると、それだけで心が満たされます。(普通こういう言葉は母親の言葉だと思いますが、いつの間にか我が家はこういう状況に・・・・でも感謝。)こうして何気ない日常を過ごせることに、改めて感謝の思いが湧いてきます。

 

特別なことは何もいりません。ただ、与えられた一日を愛する家族や大切な人たちと笑顔で過ごせること。それが何よりの幸せだと感じます。そして、何よりもイエス・キリストによる救いが与えられていること。この恵みを思うと、これ以上に求めるものはないはずなのに、自分も含めて人間というのは知らず知らずのうちに欲が出てしまうものです。その欲をどうコントロールするか。それが私たちにとって大きな課題であり、日々の心の訓練が必要だと感じます。

 

こうして、ノアちゃんと過ごした今日も終わろうとしています。耳の痛みを抱えながらも健気に頑張るノアちゃんの姿に、家族も励まされ、学ぶことがたくさんありました。平凡な一日かもしれませんが、感謝に満ちた一日でした。明日もまた、与えられた命を大切に、笑顔で過ごしていきたいと思います。

神様の計画を知って生きる

 


ノアちゃんは元気を取り戻し、再び活発に過ごせるようになりました。今日は久しぶりに普通に散歩に出かけることができました。この4日間、何があったのかは分かりませんが、こうして元気になってくれたことに感謝です。耳血腫の治療のため、今日は久々に動物病院にも行きます。

 

一方、昨日から病院での実習が始まった娘は、帰宅するなり「学校の方が楽だわ!」と叫んでいました。

 

学生時代は、勉強やテスト、さまざまな課題に追われて大変だと感じるものですが、いざ学校を卒業して社会に出ると、厳しい競争の中で生き抜くことの難しさを実感するようになります。そして、時が経つにつれ、新たな課題が次々と目の前に現れます。子どもの結婚や巣立ちを支えたり、退職後には健康を維持しながら充実した老後をどう過ごすかを考えたりするようになります。その後はお墓のことや最期の迎え方についても思いを巡らせるようになるでしょう。

 

このように、人生には次々と扉が現れ、それを一つひとつ開いて進んでいかなければなりません。それが人生というものです。こうした一連のことを考えると、時に人生が虚しく感じられることもあるかもしれません。しかし、人生は決して虚しいものではありません。なぜなら、天地を創造された神様が、私たち一人ひとりに素晴らしい計画を用意してくださっているからです。

 

人が迷い、虚しさを感じるのは、創造主である神様の計画を知らずに生きているからです。もし神様が私たちに用意してくださった素晴らしい計画を知ることができれば、人生がどれほど楽しく、生き甲斐に満ちたものかを実感できるでしょう。だからこそ、神様が与えてくださった「今日」という命を大切にし、楽しみながら過ごすことが大切です。

 

そのためには、神様の計画を知るための人生のマニュアルである聖書の言葉をよく読み、心に刻むことが重要です。今日も感謝の気持ちを忘れず、笑顔で、愛し合い、許し合いながら、精一杯生きていきましょう。

待ち望む

 


"The Red Cord of Promise - Rahab's Faith and Our Waiting"

『約束の赤い紐 - ラハブの信仰と私たちの待望』

 

主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る。(哀歌3:24-26) 

 

エリコの城壁に結ばれた一本の赤い紐は、信仰と希望の象徴として今日も私たちに語りかけています。異邦人の女性ラハブは、周囲の人々が恐れと不安に支配されている中で、驚くべき信仰の告白をしました。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられる」という彼女の言葉は、真実の神への確信に満ちていました。

 

イスラエルの偵察者たちとの約束は、単なる命の保証以上のものでした。窓辺に結ばれた赤い紐は、救いを待ち望む希望のしるしとなりました。しかし、その待機の期間は決して容易なものではなかったはずです。日々色あせていく紐を見つめながら、約束の確かさを疑う思いと、信じ続けようとする決意との間で揺れ動いたことでしょう。

 

特に困難だったのは、イスラエル軍が7日間もの間、城の周りを行進するだけで実際の攻撃を開始しなかった時期だったはずです。自分の選択が正しかったのか、民族への裏切りは許されることなのか、深い葛藤があったに違いありません。しかし、色褪せた赤い紐は、なお神の約束を思い起こさせる確かなしるしとして、彼女の信仰を支え続けました。

 

最後まで信仰を保ち続けたラハブの報いは、想像をはるかに超えるものでした。彼女は単に命を救われただけでなく、メシアの系図に連なる栄誉ある存在となったのです。これは、神の計画の驚くべき深さを示しています。異邦人である彼女がこのような栄誉に与ったのは、約束を信じて最後まで待ち続けた信仰のゆえでした。

 

この物語は、現代を生きる私たちにも深い示唆を与えます。キリストの再臨と最後の審判を待ち望む私たちにとって、ラハブの信仰は模範となります。私たちの待望は、裁きへの恐れではなく、義への希望に基づくものです。それは、神の約束を信じて最後まで忠実に生きることへの招きなのです。

 

時には疑いや不安が私たちを襲うかもしれません。しかし、ラハブの赤い紐のように、私たちには信仰を支える確かなしるしが与えられています。それは、十字架という永遠の約束のしるしです。この約束に信頼して、私たちも最後まで忠実に待ち望む群れとなることが求められているのです。

 

2025年1月15日水曜日

神の計画を知って生きる

 


"Through Light and Darkness - God's Purpose in Life's Seasons"

『昼と夜を通して - 人生の季節における神の目的』

 炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。(申命記8:15-16)

 

昼と夜を創造された神は、私たちの人生にも明暗両面の季節を与えられました。人生には、純粋な幸福という永遠の昼も、絶え間ない苦難という永続的な夜も存在しません。この両方の経験が人生という織物を紡ぎ出すのです。しかし、人間の性質として、私たちは往々にして自分の人生を「永遠の夜」として捉えがちです。それは、私たちが持っているものよりも欠けているものに、喜びよりも苦しみに目を向けやすい傾向があるためです。

 

聖書に登場する信仰者たちの生涯を見ると、彼らもまた様々な苦難を経験しています。しかし、私たちと彼らとの決定的な違いは、その苦難に明確な目的が存在したことです。使徒ヤコブは、この真理について次のように述べています。「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じ...完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」

 

このように、神が私たちの人生における様々な苦難を許されるのは、究極的には私たちの益となるためです。それは私たちを真の幸福へと導き、救いの道から逸れることなく、本物の信仰をもって人生を全うできるようにするためなのです。苦難そのものが目的なのではなく、より深い喜びと信仰を育むための手段として許されているのです。

 

ヨセフの物語は、この真理を見事に例証しています。彼の受けた苦難は、最終的にイスラエルの民の救済という大きな目的のために用いられました。同様に、私たちの経験する試練にも神の深い目的が込められているのです。イエスは「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と約束されました。

 

人生における最も本質的な問いは、救いに関するものです。永遠の命を持っているか、天の御国に導かれるのか―これらが最も重要な課題です。イエス・キリストの十字架の死と復活は、まさにこれらの問いに対する神の決定的な答えとなりました。

 

主は「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」と約束されています。この約束に信頼して、昼も夜も、喜びも試練も、すべてを神の計画の一部として受け止め、歩んでいくことが求められているのです。

 

 

一緒に走る仲間

  白く染まった道が、どこまでも続いている。冷たい空気が頬を刺すけれど、空は澄み渡り、遠くの橋が朝陽を浴びて輝いている。僕は今日も走る。この道を、そして自分自身の人生を。   僕にはいつも一緒に走る仲間がいる。それは僕の影だ。時には右側で、時には前を走り、まるで「頑張れ」...