5時のランニングと朝の光
最近は5時ごろになると、ライトなしのランニングができる時間帯になる。もちろん、ライトなしでも走れないことはないが、安全のために5時前の暗い時間帯では腕にライトをつけて走っている。徐々に空が明るくなり、そのころにはライトを外して自然への感謝を込めながら走ることができる。
今日は正直、少し休もうかとも考えた。しかし、いつものように体が勝手に動き出してしまう。「今日は走らなくてもいいのでは?」という心の声を感じる一方で、体のほうが先に反応して、
今日もしっかりとランニングをしてきた。21キロという絶妙な距離を走り終えたときの達成感は
やはり格別だ。冷たい空気を肺いっぱいに吸い込みながら、足を一歩一歩進める感覚は新鮮で、
生命そのものを感じさせる。
やがて太陽が昇り、地平線を赤く染めながら今日を照らす光が広がる。この光はただ大地を照らすだけでなく、人々の心まで包み込み、温かさを届けているように感じる。そんなふうに太陽の恵みに感謝しながら、広瀬川沿いを走った。そこで出会う白鳥たちは、いつ旅立ちの時を迎えるのだろうか。彼らの姿を見ながら「今を共に生きている」という言葉が自然と胸に浮かぶ。人生もこれと同じで、どんな時も今を大切にしたいと感じるランニングのひとときだった。
保育園卒園礼拝と未来への祈り
今日はYMCA長町保育園の卒園礼拝が教会で行われた。神様への感謝と共に、旅立ちを迎える園児たちをみ言葉で励まし、応援する時間はとても温かなものだった。子どもたちは間違いなく国の未来を担う存在である。そのため、大切に育てることは親たちにとって最大の使命であり責任だ。とはいえ、残念ながら時に家庭の中で子どもの未来が芽を出す前に、親自身の問題によって壊されることもある。それは何とも悲しい現実だ。
この現実に向き合うことが必要であり、今度の説教ではこの問題にも触れることになるだろう。聖書の「聞く耳のある者は聞きなさい」という教えにあるように、心を開き、それぞれの家庭が愛の中で未来を育むことの重要性を伝えたいと思う。卒園する子どもたちの笑顔を見ながら、未来が彼らにどのような形で訪れるのか祈りを込めて考えさせられる日となった。
不条理な世界での生き方
私たちは不条理な世界を生きている。その中で、自分の正義や信念を崩さずに歩むことがいかに難しいかを、日々感じている。それでも、この世界を生き抜くためには、時によりシンプルな生き方を選ぶことが求められる瞬間もある。余計なことを考えず、目の前の課題に集中して生きるということだ。
とはいえ、「面倒なこと」は確かに人生に多く存在する。そうした問題に向き合うことを避けて生きることは難しい。むしろ、この世そのものが、問題を避けずに歩み続けることを私たちに課しているように感じる。それがまた、厄介でありながらも、同時に生きる意味を与えてくれているのかもしれない。
それでも結論はただ一つ。「生きることだ。」生き抜くというその単純で奥深い使命に向き合いながら、この不条理な世界で自分自身を見つめ続けたい。