2022年11月12日土曜日

共に生きるためには

 


聖 書:レビ記19910                               

土地の実りを刈り入れる場合、あなたがたは畑の隅まで刈り尽くしてはならない。刈り入れの落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどう畑の実を摘み尽くしてはならない。ぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。貧しい人や寄留者のために残しなさい。私は主、あなたがたの神である。

 


どの社会でも共に生きることの大切さを強調していますが、実際にそれが行われない理由は

共生の大前提となる独り立ち、つまり、自立であることに気づいていないからだと思います。今日の聖書は恵みを施す者の法則について伝えています。しかし今日の聖書に対して次の問いが生まれて来るのです。畑の刈り入れの落ち穂が全収穫量の何パーセントかを把握して、残すことなく、全部刈り入れて倉庫にしまっておき、貧しい人々が訪ねて来た時に倉庫から取り出して渡すのがはるかに衛生の面から見ても、人間的な面から見ても効率の良いのではないか?なぜ神様は貧しい人の分を畑に残すように命じたのか?ということです。けれども

 


もし畑の主人が全部刈り入れて倉庫にしまっておきながら、食料を求めてくる貧しい人々に渡す場合、自分の気前の良さを褒め、まるで自分が善人であるかのようにうぬぼれ、または自分の気に入る人々だけに恵みを施すケースが起こり得るからです。もう一つは、貧しい

人の立場を考えての配慮だと思います。人に食料を乞い求めることは気軽にできることではありません。その意味で気が軽くなるように、そして落ち穂を拾い集める為には労働が必要です。それはある意味、人のところに行ってプライドを傷つけながらもらえるよりはそれは自分の労働の代価であるとも考えられるのです。そのために神様は両方の立場を考えて畑に落ち穂を残すことを命じたのだと思われます。

 

同時に神様はその恵みに与る貧しい人々が守るべき事も命じました。申命記232526節です。隣人のぶどう畑に入ったなら、思うまま満足するまでぶどうを食べてもよい。しかし、それを籠に入れてはならない。隣人の麦畑の中に入ったなら、手で穂を摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない。恵みに与る人は、いつでもぶどう畑に入って満足するまで食べられるのですが、籠に入れたり、麦畑では鎌を使ってはならないと命じました。その目的は、一言でいえば自立させるためでした。人生を生きると、時には自力では克服できないほど困難な状況に出会う場合があります。そういう時を備えて、神様は他人の助けを得てその厳しい状況を乗り越えられるようにさせました。しかしそれはあくまでも自立させる為の配慮であって一生人の助けを得ながら生きるための措置ではないのです。そう意味で神様は助ける人と同じく助けられる人にも規定を定めて下さったのです。イスラエルの民が約40年間の荒れ野での生活を終えてカナンの地に入った時、それまで神様が天から降した食料であるマナは止みました。これからは自ら働いて食べ物を得なければならない状況になりました。神様がイスラエルの民に与えたカナンの地は荒れ野のように何もしなくても食べ物が得られる所ではないのです。これから自立して食べ物を得、生きるために働かなければならない状況になったのです。それまでの奴隷としての生き方が自由人としての生き方へと変わったのが約束の地での一番大きな変化でした。奴隷としての人生に終止符を打ったのが約束の地へ入った出来事でした。これからは自立して生きる事を学び、それによって共に生きることが可能となるのです。自立なしに共に生きることは不可能であるために神様はまず自立する事を促し、その道も開いて下さいました。

 

この日本で大人になってもまだ自立せず親元で暮らしている人々が少なくないと言われています。生き物の中でこれほど親から自立しないのは人間しかいないと言います。これは

生きる為の人生の形態や方法の問題ではなく、本質の問題です。ここで自立の本質を四つに分けて短く見てみたいと思います。まず経済的な自立です。これは特に説明の要らない部分であると思います。当然な事であるし、これなしに共に生きることは不可能であるからです。二つ目は行為の自立です。独り立ちとは行為の自立を意味します。簡単に言えば、他人の手を借りず自力で行う事を言います。これなしに共に生きる事も不可能であります。

 

三つ目は、意識の自立です。この世界には自立に躓きとなる誤った慣習や風潮が蔓延しています。またプロパガンダや私たちの心と関心を盗み取る宣伝文化に漏出されています。しっかり自分の意識を正しい方向へと向けないと、また頑丈な土台の上に立たせないとあらゆる思想や誘惑に負けてそれらに引きずられてしまいます。使徒パウロはローマの信徒への手紙122節で、あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。と言いました。この世に倣うことなく、

神様の御心を弁えて正しく行うためには意識の自立が先行されることが大事であるのです。

 

最後に霊的な自立です。他の獣と違って人間は霊的な存在として神様に創造されました。

霊的な自立とは真の創造主を知り、さらにその御心が何かを知ってその御前で生きる事です。ラテン語でそれをコラムデオと言います。神の御前にあって、歩むことを言います。皆さんは自立して歩んでいますか?物事に、あるいは環境や状況に縛られず本当に自由に生きていますか?人が真の自由を得て生きる方法は自分を創造し、生きるための命を与えて下さった方を覚えて生きることだと聖書は教えています。絶えず神の御前で歩む者である事を覚えて物事を考え、計画し、慎重に行動する時に本当の自立した者として自由な人生を生きることができるのです。

祈祷:主なる神様、どうかあなたの助けと導きによって自立した人生を歩むことが出来ますように、主の御名によって祈ります。

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