2025年7月21日月曜日

朝ランから見えた真の指導力:歴史が教える支配の本質

 


朝ランから見えた真の指導力:歴史が教える支配の本質

 

海の日の山道で

今朝、海の日にも関わらず私の足は山の方向を向いていました。20キロ走った翌日は休息日と決めていたはずなのに、体が自然と外へと押し出してくれる。この感覚は不思議なもので、まるで何かに導かれるようです。

 


坂道2キロを含む11キロを完走。汗と共に、清々しい達成感が心を満たしました。

 

静寂の中で気づいたこと

いつもより少ない朝の散歩者たち。選挙結果を気にして家にいるのでしょうか。この光景が、私たちがいかに政治に影響されているかを物語っています。

 

投票率の上昇は、国民の政治への関心の高まりを示しています。これは希望的な兆候です。なぜなら、一国の運命は確実に指導者の質に左右されるからです。

 

歴史が証明する指導力の重要性

過去を振り返れば、一人の指導者がいかに国民の運命を左右してきたかは明らかです。

 

破壊的な指導者たち

ヒトラーのドイツ

スターリンのソ連

ポル・ポトのカンボジア

これらの例は、権力の濫用がいかに悲惨な結果をもたらすかを教えています。

 

建設的な指導者たち

一方で、国民を真に愛し、自らを犠牲にして国を導いた指導者たちもいました。

リンカーンの奴隷解放

ガンディーの非暴力抵抗

マンデラの和解政策

真の指導力とは何か

 

朝ランで考えながら、真の指導者の条件が見えてきました:

自己犠牲の精神

民への深い愛

道徳的勇気

長期的視野

権力を自分のために使うのではなく、人々の幸福のために献身する。これこそが真の指導力の本質です。

 

現代日本への思い

この国も、今まさに指導者の質が問われています。経済の停滞、少子高齢化、国際情勢の複雑化...これらの課題に立ち向かうには、真の指導力が必要です。

 

選挙への関心の高まりは、国民が「誰の支配の下で生きるか」の重要性を理解し始めた証拠かもしれません。

 

究極の指導者:十字架の愛

しかし、人類史上最も偉大な指導者について考える時、私たちはイエス・キリストを思わずにはいられません。

 

権力を求めず、むしろ最も低い位置に降りてこられた方。

王として生まれながら、馬小屋で誕生し、十字架で死なれた方。

「仕える者になりなさい」と教え、自らその模範を示された方。

 

キリストの指導力は、この世の価値観とは正反対でした:

支配するのではなく仕える

奪うのではなく与える

自分を救うのではなく他者を救う

十字架こそが、真の指導力の究極の表現です。全人類の罪を背負い、自らの命を捧げて私たちを救ってくださった。これほどの愛と犠牲は、人間の指導者には決して真似できません。

 

希望への招き

今朝の11キロの道のりで、私は改めて気づかされました。私たちが真に従うべき指導者は、十字架で示された愛の主です。この方の支配の下でこそ、真の平安と希望を見出すことができるのです。

 

政治的指導者の重要性を認識しつつも、究極的には神の国の王であるキリストにこそ、私たちの希望があることを忘れてはなりません。

『星の旅人たち』(原題: The Way)

 


「私がサンティアゴの祈りの旅を始めるきっかけとなったのは、この映画でした。2014年に初めて旅に出て、昨年までに8回歩きました。最初の旅ではフランス人の道とフィステーラ&ムシアを巡り、その後は北の道、銀の道、プロミティボの道、ポルトガルの道、ル・ピュイ・アン・ヴレ(Le Puy-en-Velay)、ジュネーブからの道、マドリードからの道など、さまざまなルートを歩きました。」


あらすじ

サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の初日に、嵐で亡くなった息子。父である眼科医トムは、息子の遺灰と遺品を受け取りにフランスへやってきます。そして、息子が歩き始めたその道を、彼の代わりに歩き終えることを決意するのです 。  

 

魅力

主演のマーティン・シーンと、監督である実の息子エミリオ・エステベスが紡ぐ、静かで深い親子の物語。スペインの壮大で美しい自然の中、トムが道中で出会う国籍も背景も違う巡礼者たちとの、不器用ながらも温かい交流が心に残ります。

 

観るべきポイント

これは、喪失から再生へと向かう魂の旅路です。息子の死と向き合いながら、一歩一歩、自分自身の人生と信仰を取り戻していく父の姿は、深い悲しみを乗り越える希望を与えてくれます。命、家族、そして自然の中を歩くことで得られる癒やしが、静かに心に染み渡る作品です。

2025年7月20日日曜日

詩編6編

1【指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩。】2主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください。3主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ4わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。5主よ、立ち帰り/わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください。6死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません。・・・・(詩編6編)

 


 詩編6編は、ダビデが神に救いを求める切実な祈りを記録しています。彼は自らの罪や苦しみに直面し、「主よ、憐れんでください」と心を注ぎ出します。その言葉には、痛みと悔い改めの深さ、そして神への絶対的な信頼が込められています。

 

この詩編は、現代を生きる私たちにとっても大きな意味を持っています。ストレスや疲労、孤独や喪失感にさいなまれる私たちの心にも、ダビデのような祈りが必要です。神に弱さをさらけ出し、助けを求める姿勢は、希望と癒しの道を示してくれます。特に、多忙な日常の中で自分の心と向き合う時間を持つことは、信仰者にとっても重要なチャレンジです。

 

詩編6編はまた、悔い改めの重要性を教えてくれます。私たちは完璧ではなく、ときに間違いや罪に陥ることがあります。しかし、神はそのような私たちを決して見捨てることなく、癒しと赦しを与えてくださるお方です。この詩は、神の憐れみに頼ることの大切さを思い起こさせます。

 

ダビデは詩編の最後で、涙の祈りが神に届いた確信を示しています。それは、どんなに深い苦しみの中にあっても、神に祈ることで希望が生まれることを教えてくれます。現代人も、このような信仰と祈りを持つことで、絶望の中から新しい光を見いだすことができるでしょう。 

夜明けのメロディ、走ることの魔法

 


朝のランニング: 心と身体を解き放つ、私の日曜日モーニングルーティン

日曜の朝、世界はまだ静寂に包まれています。私のランニングシューズが、この静けさを破るのです。

 

汗と希望が織りなす物語

今朝も20キロ走破。梅雨明けの日差しが容赦なく照りつけますが、私の足は止まりません。走ることは単なる運動ではなく、人生そのものの metaphor(メタファー)なのです。

 

走る道は、人生の道

坂道、車道、森の中、大学キャンパス。3年間走り続けて分かったことがあります。道は単なる風景ではなく、私の物語を紡ぐキャンバスなのです。

 

今では、距離や時間を計算器なしで予測できます。人生も同じ。地道な経験が、直感的な理解を育んでいくのかもしれません。

 

今を生きる、走ることの哲学

先を見通すことは難しい。でも今を全力で生きること。それが私のランニングが教えてくれた最大の wisdom(叡智)です。

 

今この瞬間の、

 

家族

居場所

すべてに感謝しながら走ります。

 

ちょっとした豆知識

走ることで驚くべきことに、20キロ走ると体重が2キロ近く減ることも。私の「多汗体質」が、さらに後押ししてくれるようです(笑)

 

最後に

朝のランニングは、単なる運動以上のもの。

心を解き放ち、精神を浄化する儀式なのです。

 

あなたも一緒に走りませんか?朝の静寂と、自分の息遣いだけが聞こえる、その特別な時間に。

 

今日も、一歩一歩、全力で走ります。

2025年7月18日金曜日

夏の始まりを告げる、黄金の鎧 ―空っぽの奇跡が教えてくれたこと―


長い梅雨が明け(?)、本格的な夏の太陽がじりじりと地面を焼き始める午後。ふと、そこに小さな戦士の姿を見つけました。

 硬質なコンクリートに、その最後の瞬間までしがみつくように残された、一匹のセミの抜け殻。それは、これから始まる命の大合唱を約束するかのようで、一瞬、胸に畏敬の念がよぎります。長い沈黙の時を経て、ついに地上へと姿を現した小さな命。私たちは、夏が来るたびに、こうした小さな「始まり」の奇跡にいくつも出会います。

 

けれど、足を止め、息をひそめて、もう一度よく見てみてください。

 

これは、ただの抜け殻ではありません。

これは、過去の姿を脱ぎ捨て、命が次のステージへと飛躍した、輝かしい**「記念碑」**なのです。

 

そう、かつてこの中にいた主役は、もうここにはいません。彼は、あるいは彼女は、この黄金の鎧を脱ぎ捨て、新しい翼を広げ、大空へと旅立っていったのです。この空っぽの奇跡は、私たちに声なくして、三つの大切な真実を語りかけているように思えます。

 

1. 長い闇の先には、必ず光があるという「信仰」

この抜け殻の主は、何年もの間、光の届かない暗い土の中で生きてきました。雨の音を聞き、木の根の気配を感じながら、ただひたすらに、地上へと出るその時を待ち続けていたのです。

 

それは、先の見えない不安や、終わりのないように思える試練の中で過ごす、私たちの人生とどこか似てはいないでしょうか。しかし、彼は疑わなかった。自分の中に眠る「時」を、そして、まだ見ぬ太陽の光を。それは、理屈を超えた、いのちそのものに刻まれた**「信仰」**です。この抜け殻は、どんなに長い闇の時間も、必ず夜明けへと繋がっていることの、静かな証明なのです。

 

2. 成長には、過去を脱ぎ捨てる「勇気」がいる

地上へと這い出した彼は、この硬い壁をよじ登り、世界にその身を晒しました。そして、自らの背を割り、古い自分を脱ぎ捨てるという、最も無防備で、最も苦しい変容の時を迎えます。

 

それは、どれほどの勇気がいることだったでしょう。慣れ親しんだ殻、自分を守ってくれた鎧を自ら破り、まだ柔らかく、傷つきやすい新しい体で、未知の世界へと踏み出す。

 

私たちもまた、人生の節目で、古い自分を脱ぎ捨てる痛みを経験します。過去の成功や失敗、古い価値観、慣れ親しんだ人間関係。それらを脱ぎ捨てるのは怖いことです。しかし、この抜け殻は教えてくれます。その勇気ある決断なくして、新しい世界へ飛び立つ翼は与えられないのだと。これは、変化を恐れる私たちの背中を、そっと押してくれる**「勇気のしるし」**です。

 

3. 空っぽになることで、本当の「夢」が始まる

そして今、ここに残されたのは、完璧なまでに美しい「空っぽ」の姿です。主役が去った後のこの静けさこそ、彼が自分の夢を叶えた証です。

 

土の中で夢見た、太陽の下で歌うこと。風に乗って空を飛ぶこと。その夢を叶えるために、彼はすべてをここに置いていきました。この抜け殻は、失われたものではなく、夢の実現のために捧げられた**「栄光のトロフィー」**なのです。

 

空っぽになることを恐れてはいけません。両手が過去でふさがっていては、新しい祝福を受け取ることはできないのですから。

 

もし今、あなたが人生の壁の前で立ち尽くし、自分の非力さや孤独に心を痛めているのなら、どうかこの小さな戦士が残してくれた黄金の鎧を思い出してください。

 

それは、決して敗北の亡骸ではありません。

長い闇を耐え抜いた信仰の証であり、痛みを乗り越えた勇気の記念碑であり、そして、大空へと飛び立っていった、輝かしい夢の抜け殻なのです。

 

夏の始まりは、ただ暑さが厳しいだけではありません。

耳を澄ませば、空高くから、新しい命の歌が聞こえてくるはずです。私たちもまた、自分の歌を歌うために、今日という一日を、力強く生きていこうではありませんか。

苦難は・・・希望を

 


そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、

忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ5:3-5

 

この階段の上り下りは、人生の苦しみがもたらす利点を教えてくれます。

人生の苦しみは、まさに**255段の階段を上る」**という困難な行為に似ています。

それは辛く、息が切れ、足を止めたくなるものです。

 

しかしキリスト教信仰において、その苦しみは無意味ではありません。

 

霊的な筋力を鍛える: 階段を上ることで足腰が強くなるように、苦しみは私たちの**忍耐、信仰、そして謙虚さという「霊的な筋力」**を鍛え上げます。平坦な道だけを歩いていては、決して得られない強さです。

 

より高い視点を与える: 苦しみを乗り越えた先には、平地からは見えなかった神の計画や、より広い視点、そして天にある希望という**「新しい景色」**が見えてきます。

 

苦しみは、神が私たちをより強く、より高い場所へ導くための**「聖なる訓練」**であると捉えられているのです。

眠れない夜に、あなたの「盾」となる歌

 


1【賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子/アブサロムを逃れたとき。】2主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい3多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と。〔セラ4主よ、それでも/あなたはわたしの盾、わたしの栄え/わたしの頭を高くあげてくださる方。5主に向かって声をあげれば/聖なる山から答えてくださいます。〔セラ 6身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。・・・・・(詩編3編)

 

眠れない夜に、あなたの「盾」となる歌

深夜3時、世界が静寂に包まれる中で、あなたの心だけが騒がしい。

スマートフォンの青い光が照らすのは、終わらない仕事のプレッシャー、SNSで目にする誰かの輝かしい人生、未来への漠然とした不安。目には見えないけれど、四方八方から押し寄せる無数の「敵」に囲まれ、心はすり減っていく。眠りたいのに、眠れない。そんな夜を、あなたも経験したことがあるかもしれません。

 

今から三千年も昔、ダビデという一人の王がいました。彼が対峙していたのは、比喩ではない、本物の槍や剣を持った敵でした。最も辛いことに、その敵の中には、彼が心から愛した我が子もいたのです。裏切りと孤独、命の危険。その絶望の淵で、彼は一つの歌を詠みました。それが、詩編3編です。

 

この詩は、単なる嘆きの歌ではありません。それは、嵐の真ん中で穏やかな安らぎを見出すための、奇跡の処方箋です。

 

ダビデは叫びます。「しかし主よ、あなたこそ、わたしの周りを囲む盾」。

 

想像してみてください。降り注ぐ批判の矢、心をえぐる不安の槍。それらが、あなたに届く前に、目には見えないけれど何よりも強固な「盾」によって防がれていく様を。ダビデは、自分の力で戦うことを、ある時点で手放したのです。彼は、自分よりもはるかに大きく、確かな存在に、自分の心の守りをすべて委ねました。

 

これが、神への「信頼」です。

 

現代を生きる私たちにとって、この「信頼」は、自分の無力さを認めることから始まります。一人で全部を背負わなくてもいい、と許可を出すことです。眠れない夜、ベッドの中で、そっと心の中で語りかけてみてください。

 

「神様、もう疲れました。私の周りには、たくさんの不安や批判があります。どうか、私の盾となってください」。

 

その祈りは、あなたの弱さの告白であると同時に、最も力強い信仰の宣言です。重たい鎧を脱いで、神という名の安全な砦に身を寄せる行為だからです。そうして初めて、私たちはダビデが経験した「安心して眠り、また目覚める」という深い安らぎを、自分のものとすることができます。

 

神に守られている。その絶対的な安心感が、私たちに明日へ一歩踏み出す勇気を与えてくれます。周りがどう言おうと、状況がどれほど絶望的に見えようと、「私の盾」が共にある。そう信じられるなら、私たちはもっと自由に、もっと大胆に、自分の人生を生きることができるはずです。

 

もし今、あなたが人生の嵐の中にいるのなら、この古代の王の歌を思い出してください。それは、あなたのための歌です。あなたの心の周りに見えない盾を置き、どんな時も希望は失われないと教えてくれる、力強い応援歌なのです。

 

夜が明けるたびに、新しい力があなたに注がれる。さあ、顔を上げて。あなたの盾は、いつも共にあります。

大年寺255階段トレーニング


久しぶりに顔を見せてくれた、金曜日の青空。

いつもの朝ランもいいけれど、今日は少しだけ気分を変えて、あの長い階段へ向かうことにしました。緑の中に続く、大年寺の255段の石段です。

 

心の中の僕は、過去の栄光にすがるように「さあ、前みたいに20往復だ!」と息巻いていました。目標を立て、それを乗り越えることに、僕たちは喜びを感じますから。

 


けれど、一歩、また一歩と、自分の体の重みを空へ持ち上げるたびに、もう一人の自分がささやきかけてきます。僕の体が、汗を通して、少し震える膝を通して、必死に伝えてくるのです。

「おい、今日は5往復で十分じゃないか? 無理はしなくていい」と。

 


かつての僕なら、この声に耳を貸さず、「根性だ!」と自分を追い込んでいたかもしれません。そして、途中で挫折して、自分を責めていたでしょう。

 


でも、今日の僕は違いました。

体のその正直な叫びに、素直に「わかったよ」と頷いたのです。

 


実は、今日は本格的なトレーニングのつもりがなく、散歩のつもりでラフな普段着のまま。だから、5往復を終える頃には汗でびっしょりです。でも、なんだかそのことが可笑しくて、清々しくて、思わず笑みがこぼれました。

 


汗を拭いながら見上げた空は、どこまでも青く澄み渡っていました。

目標の回数には、まったく届かなかった。

でも、僕の心は不思議なほどの達成感と、静かな喜びに満たされていました。1時間の階段トレーニングは、僕に大切なことを教えてくれました。

 


私たちはつい、頭で考えた「理想」や「目標」という名の鎧を着て、自分をがんじがらめにしてしまいます。「こうあるべきだ」「もっと頑張らなくては」と。でも、本当に大切なのは、過去の自分や誰かと競争することではなく、「今の自分」の声に、そっと耳を澄ますことなのかもしれません。

 

今日の体は、昨日の体とは違う。それでいいのです。

今日のあなたにできる、その一歩を踏み出すこと。

その一歩が、どんなに小さく見えても、未来のあなたへと続く、何よりも尊く、勇気に満ちた一歩なのです。

 

あなたの心と体は、人生で最も信頼できる、正直な友人です。

その声を聞き逃さないでください。

空が晴れたなら、完璧な計画なんてなくても、ふらりと外へ出てみませんか。

きっと、最高の「今日」が、あなたを待っていますよ。

  

2025年7月17日木曜日

美しい存在へと導く

 


神と歩む純粋さの美しさ ~心の清さが開く霊的世界~

私たちの人生において、最も輝く美しさとは何でしょうか。それは、生まれたばかりの赤ちゃんの目に宿る、汚れなき純粋さにあります。ガラスのように透明で、静かな湖のような無垢の瞳は、世界で最も美しいものの一つです。しかし、悲しいことに、成長とともにこの純粋さは色あせていきます。欲望や世俗の影が、かつて透明だった魂に陰を落とすのです。

 

神との同行が回復する純粋さ

キリストによって私たちには、失われた純粋さを取り戻す道が開かれています。それは聖霊によって上から生まれ変わる、新しい生命です。ジョン・ウェスレーが言うように、聖なる生活の本質は「動機の純粋さ」にあるのです。「同行」という言葉には深い意味があります。ヘブライ語の「ヒトハレク」は、単なる歩行ではなく、心と心を分かち合う親密な交わりを意味します。エデンの園で神がアダムと散歩されたように、私たちも神と親密に歩むことができるのです。

 

神の招きに応える純粋な心

聖書は、神と真に歩んだ人々の物語で溢れています。エノクは「神と同行した」ため、神に取られました。ノアは「義人」として、その時代において完全な者とされました。アブラハムは神の前に立ち、「完全であれ」という招きに応えました。イエスは「心の清い者は幸いである」と語られました。これは単なる道徳的な清さではなく、神との親密な関係の中で保たれる霊的な純粋さを意味します。

 

純粋さと真実の力

純粋さと真実は、霊的な美しさを支える二本の柱です。純粋さは素朴さであり、真実は信頼性。この両者が調和するとき、私たちは神の栄光を反映する存在となります。現代の不信と疑念に満ちた世界だからこそ、神の民である私たちは、新しい命から湧き出る純粋さと、揺るぎない信頼性を示す必要があるのです。

 

招きに応える選択

神は今も、エデンの園でアダムを招いたように、あなたを親密な関係へと招いています。隠れたり、恐れたりする必要はありません。神の愛は、あなたの純粋さを回復し、輝かせることを望んでいるのです。

 

あなたは今日、神との歩みを選びますか?心を開き、純粋さを取り戻す旅に踏み出しませんか?

神は、あなたの人生に麗しい新しい物語を書き始めることを待っておられます。

この純粋さの旅は、あなたを本来の姿、神によって創造された美しい存在へと導くでしょう。

真の美しさとは何か ~神が創造された「いのち」の美学~


 私たちは日々、様々な「美しさ」に出会います。街角で見かける美しい人、心を奪われる夕日、感動を呼ぶ芸術作品…。しかし、その美の基準は時代や文化によって大きく異なります。中世の絵画に描かれた女性の美しさと現代の美的感覚は違いますし、東洋と西洋でも理想像は異なります。では、このような相対的な美しさを超えた、本質的な「美しさ」とは一体何なのでしょうか。

 創造主が見て「良し」とされた美しさ

創世記において、神は創造の御業を振り返り、それを「トーブ」(良い)と宣言されました。この「良し」という言葉には、単なる機能的な完璧さを超えた、深い美的価値が込められています。神が見て良しとされた真の美しさの根源は、「いのち」そのものにあります。

 どんなに美しい容姿を持つ人でも、息が止まれば冷たい遺体となり、誰もその美しさを語らなくなります。水中で元気に泳ぐ魚は美しいものですが、死んでしまえば腐敗し悪臭を放ちます。つまり、すべての被造物は生きているときに美しく、命が失われると美しさも失われるのです。

 霊的ないのちの美しさ

しかし、ここで言う「生きている」とは、単なる生物学的な生命を指すのではありません。より根本的ないのちとは、神との関係において得られる霊的ないのち、永遠のいのちです。

 創世記27節に「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」とあります。ここで「生きもの」と訳されているヘブライ語「ネフェシュ・ハヤ」は、神の息によって生かされた存在を意味します。真のいのちとは、創造主である神との生きた関係の中にあります。

 神が創造された本来のいのちを取り戻す道は、私たちの罪の代価を払うために十字架で死に、永遠のいのちのために復活されたイエス・キリストを信じることです。キリストによって新しいいのちを得た私たちは、神の究極の美しさを世界に映し出す、小さな復活の証人なのです。

 いのちの二つの表れ

では、この神的ないのちが私たちの内に宿っていることは、どのように見分けることができるでしょうか。それには二つの明確な証拠があります。

 1. 成長というしるし

「生きていること」の最も確実な証拠は成長です。生きているものは、どのような環境にあっても成長するように造られています。成長の停止は、いのちの停止を意味します。

 イエスは「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ1010節)と語られました。豊かないのちの体験は、成長を通してのみ可能です。真のいのちの成長には限界がありません。外見は年を重ねても、内なる人は日々新しくされていきます(コリント後書416節)。この成長それ自体が喜びであり、幸福なのです。

 2. 愛の香り

いのちのもう一つの証拠は「愛の香り」です。生きているものは、新鮮で心地よい香りを放ちます。しかし死ぬと腐敗し悪臭を放ちます。

 使徒パウロは、救われた私たちが「キリストの香り」として、いのちからいのちに至る香りを放つと述べています(コリント後書215-16節)。これは、兄弟愛を通して周囲に広がる恵みの香りです(ヨハネ第一314節)。この愛の香りは私たち自身から生まれるものではなく、キリストから受けた恵みと祝福を分かち合う自然な流れなのです。

 恵みを記憶する力

愛の香りは、神から受けた赦しの大きさを理解することから始まります。マタイ18章の一万タラントの借金を赦された人の譬え話は、この真理を鮮明に描いています。一万タラント(約330トンの金銀に相当)という天文学的な借金の赦しに比べれば、百デナリオン(約4か月分の給料)の赦しは取るに足らないものです。

 それでも私たちが赦すことができないのは、受けた恵みを忘れてしまうからです。「記憶が救いを永続させる秘訣」と言われる所以です。神の恵みを覚え続けることで、私たちから自然に愛の香りが漂い始めるのです。

 永遠の美しさへの招き

真の美しさとは、神が創造されたいのちの輝きです。それは時代や文化を超越し、成長と愛によって表現される永続的な美しさです。私たちは皆、この神的な美しさを反映する存在として召されています。キリストにあって新しいいのちを得た私たちは、この世界に神の美しさを証しする、生きた芸術作品なのです。

 毎日を成長の機会として受け取り、受けた恵みを覚えて愛の香りを放つとき、私たちは神が「見て良し」とされる真の美しさを生きることになるのです。 

『そして、生きる』に宿る福音の光

東日本大震災の翌年。当時、和歌山県に住んでいた私は、月に一度、一週間のペースで石巻でのボランティア活動を続けていました。

正確には13回。そのたびに、大阪伊丹空港から仙台へ飛び、駅前から高速バスに揺られて石巻へと向かう道のりでした。約1年間続いたその日々の中で、一度だけ気仙沼まで足を延ばして活動した日のことを、ふと思い出しました。また、8年前に仙台に来て気仙沼駅から仙台まで一人でMIDNIGHT WALKINGしたことを思い出します。

あの地で見た光景と人々の姿が、一つの言葉へと繋がります。

「そして、生きる」——。

 

『そして、生きる』に宿る福音の光:絶望の淵から見出す、キリストの希望

 

序論:私たちの魂に響く物語

有村架純と坂口健太郎が主演を務めるAmazonプライムドラマ『そして、生きる』は、多くの視聴者の心に深く、そして静かに響き渡る物語です。東日本大震災という未曾有の悲劇を背景に、この作品は喪失と再生、出会いと別れ、そして人間が生きることの根源的な意味を、繊細な筆致で描き出します。なぜこの物語は、これほどまでに私たちの心を捉え、時に涙を誘い、そして静かな感動を与えるのでしょうか 。  

 

主人公の生田瞳子と清水清隆が背負う運命は、単なる悲劇の記録ではありません。それは、私たちが人生で直面する普遍的な苦難と、その闇の中で見出される希望の光のメタファーです。本稿では、この深く人間的な物語をキリスト教神学というレンズを通して読み解くことで、そこに隠された「福音の光」を明らかにしていきます。それは、絶望の淵でこそ見出される希望、苦難を乗り越えさせる愛、そして再び立ち上がるための勇気の物語です。

 

是枝裕和監督の映画『万引き家族』が、血の繋がりを超えた家族の絆を通して「現代社会の暗部を赤裸々に描き出し」、「社会で見えない人たち」 の存在を問いかけたように、『そして、生きる』もまた、震災という極限状況下で、ともすれば見過ごされがちな個人の魂の軌跡を丁寧に描き出します。この物語は、社会の周縁で静かに痛みを抱える人々の、声なき声に耳を傾ける作品なのです。多くの視聴者が「感動した」と語るその心の揺らぎの源泉を、神学的に探求する旅へと、ここから出発しましょう。なぜなら、彼らの物語の中には、私たち自身の魂の物語が映し出されているからです。  

 

1部:苦難のるつぼと十字架の影「なぜ、私たちが」という問い

物語の序盤、私たちは瞳子と清隆がそれぞれ背負う、あまりにも重い十字架を目の当たりにします。瞳子は交通事故で両親を亡くし、その3年後、育ててくれた伯父夫婦を東日本大震災で失います。一方、清隆は学生ボランティアとして訪れた気仙沼で、共に活動していた友人を津波で亡くし、自分だけが生き残ったという強烈な罪悪感、いわゆる「サバイバーズ・ギルト」に苛まれます。

 

彼らの心からの叫び、「なぜ、私たちがこんな目に遭わなければならないのか」という問いは、聖書の最も深遠な書物の一つである『ヨブ記』における、義人ヨブの問いと痛切に響き合います。ヨブは、何の理由もなく財産、家族、そして健康までをも失い、神に向かってその理不尽を訴えました。この問いは、全能で善なるはずの神が存在するこの世界に、なぜこれほどの悪と苦しみが存在するのかという、神学における根源的な問い、すなわち「神義論」を私たちに突きつけます。

 

このドラマが誠実に描いているのは、この答えのない問いを抱えながら、それでも生きていかなければならない人間の姿です。キリスト教神学は、苦難を必ずしも個人の罪に対する罰とは考えません。むしろ、それは信仰が試され、人間性が精錬される「るつぼ」としての意味を持つことがあると教えます。瞳子と清隆が経験する苦しみは、彼らの心を打ち砕くだけでなく、他者への深い共感を生み出し、彼らを新たな生き方へと駆り立てる試練の場となっていきます。

 

そして、この苦難に対する最大の慰めは、神が私たちの苦しみから遠く離れた傍観者ではないという福音にあります。神は、御子イエス・キリストの十字架において、人間の最も深い苦しみ、孤独、裏切り、そして死の恐怖までも、自ら引き受けられました 。瞳子たちが経験する耐え難い痛みの中に、神ご自身が共におり、その涙を共に流しておられる。これが、キリスト教信仰が提供する、究極の希望の根拠なのです。  

 

この物語が描く苦難は、震災そのものという「一次的苦難」に留まりません。むしろ、その後に続く社会からの孤立や無理解、経済的困窮といった「二次的苦難」の描写に、本作の深い射程があります。震災という天災は個人の責任を超えたものですが、その後の人生の再建においては、映画『万引き家族』が問いかけるような社会のセーフティネットの欠如  や、『ノマドランド』が描く経済システムからこぼれ落ちた人々の現実  が、個人の肩に重くのしかかります。一次的苦難が神の沈黙を問うヨブ記的な問いを喚起するとすれば、二次的苦難は、私たち人間同士の「隣人への愛」が問われる新約聖書的な課題を提示します。  

 

さらに、映画『ドント・ルック・アップ』が風刺したように、現代社会は巨大な危機に直面しても、メディアやSNSの喧騒の中でその本質が見失われ、真剣な訴えが「おもちゃ」にされてしまう病理を抱えています 。震災の記憶が風化し、被災者の痛みが矮小化されていく中で、瞳子たちが抱え続ける静かな痛みは、忘れ去られようとする人間の尊厳をかけた抵抗の物語でもあるのです。  

 

2部:小さな始まりという「復活」そして、生きる

絶望の淵に沈んでいた瞳子と清隆は、しかし、死んだように生きることを選びません。彼らは、ささやかな、しかし具体的な行動を通して、再び「生きる」ことを始めます。瞳子は、自らの故郷である盛岡で、震災孤児のためのカフェを手伝うことを決意します。清隆は、気仙沼でのボランティア活動に身を投じます。この、瓦礫の中から立ち上がり、他者のために自らの手と足を動かし始める姿は、キリスト教における「復活(Resurrection)」の力強いメタファーとして私たちの胸を打ちます。

 

ドラマのタイトル『そして、生きる』は、それ自体が福音的な宣言です。それは、受難と死の物語の後に、必ず希望の続きがあることを示唆しています。聖書において、キリストの十字架の死という絶望的な出来事の後には、必ず「しかし、神は彼を死者の中からよみがえらせた」(使徒言行録 2:24)という復活の知らせが続きます。死で終わらない物語、それが福音の核心です。瞳子と清隆の物語もまた、喪失で終わらず、「そして、生きる」という未来へと開かれているのです。

 

この復活は、一度きりの超自然的な奇跡としてのみ理解されるべきではありません。それは、死んだような絶望の状態から、新しいいのちへと移される、私たちの日々の生活の中で起こりうる回心と再生のプロセスです。瞳子が一杯のコーヒーを淹れることに、清隆が瓦礫を片付けることに見出す生きる意味は、日常の中に宿る「復活のしるし」に他なりません。

 

震災のような強烈なトラウマは、しばしば心と体を切り離し、生きている実感を奪います。この霊的な麻痺状態は、医学的に見れば、心の休まらない「中途覚醒」 や、心身が燃え尽きてしまう「オーバートレーニング症候群」 にも喩えることができるでしょう。彼らがボランティアや仕事を通して他者と関わり、自らの身体を行使することは、この失われた身体性を取り戻し、再び地に足をつけて「生きる」ための不可欠なプロセスです。それは、復活したキリストが弟子たちに自らの体に触れさせ、共に食事をした(ルカによる福音書 24:36-43)という記述が示すように、復活が極めて身体的な出来事であったことと深く響き合います。  

 

興味深いことに、睡眠障害からの回復を目指す「睡眠衛生」の指導原則は、霊的な回復のプロセスと驚くほど重なります。規則正しい生活、朝の光を浴びること、適度な運動、バランスの取れた食事といった生活習慣の改善  は、魂の健康を取り戻すための「霊的衛生」とも言うべき実践です。瞳子たちが、他者との関わりという「光」に触れ、労働という「運動」を通して規則正しい日常を取り戻していく姿は、まさに霊的な健康を回復していく過程そのものなのです。  

 

ここには、プロテスタント、特にマルティン・ルターが提唱した「労働の神学」が色濃く反映されています。ルターは、「万人祭司」の思想  を通して、聖職者だけでなく全ての信徒が、それぞれの「職業(Beruf)」それはドイツ語で「召命」をも意味しますを通して神に仕えることができると説きました 。瞳子や清隆の労働は、単なる生計の手段を超え、他者に奉仕し、共同体を築くという神聖な意味を帯びています。彼らは労働を通して、再び世界と、そして神と結びつき直しているのです。この視点は、私たちの日常の仕事や営みの中に、聖なる意味と尊厳を見出すための力強いメッセージを与えてくれます。  

 

3部:思わぬ場所に現れる「教会」人と人との絆が紡ぐ救い

瞳子と清隆は、ボランティア活動やカフェでの出会いを通して、血縁や地縁を超えた新しい共同体を形成していきます。盛岡のカフェのマスター夫妻、気仙沼で出会った仲間たち、そして韓国から来た友人ハン・ユリ。彼らは、互いの傷を舐め合うのではなく、静かに寄り添い、共に食事をし、時には笑い合うことで、かけがえのない魂の避難所を築き上げていきます。

 

この姿は、聖書が語る本来の「教会(エクレシア)」の姿を映し出しています。教会とは、壮麗な建物のことではなく、キリストを頭として集められた人々の共同体を指す言葉です 。互いの重荷を担い合い、共に食卓を囲む場所に、キリストご自身が臨在されるのです。  

 

この点で、『そして、生きる』は、『万引き家族』が提示した問いに、一つの福音的な応答を与えていると見ることができます。『万引き家族』では、社会から疎外された人々が形成した疑似家族の絆が、最終的には社会システムによって無慈悲に解体されてしまいます 。一方、『そして、生きる』で描かれる共同体は、同じく社会の周縁にありながら、互いを癒やし、再生させる力を持ちます。その根底には、キリスト教的な「赦し」と「受け入れ」の精神が流れているからではないでしょうか。  

 

この共同体の姿は、映画『ノマドランド』で描かれる、資本主義社会からこぼれ落ちた人々が形成する支え合いのコミュニティとも深く共鳴します 。食事を分け合い、情報を共有し、互いの面倒を見る彼らの姿は、初期キリスト教の共同体(コイノニア)を彷彿とさせます。現代社会は、SNSなどを通して無数の人々と表面的につながりながらも、実際には深い孤独感を抱える人々を多く生み出しています 。このドラマは、真のつながりとは、共に痛み、共に喜び、互いの存在を無条件に肯定し合う関係性の中にこそ生まれるのだと、静かに、しかし力強く教えてくれます。  

 

この共同体の中心には、常に「食事」があります。特に、瞳子と清隆の関係が育まれていくカフェで、コーヒーを分かち合うシーンは象徴的です。この行為は、単なる日常描写を超えて、キリスト教における最も重要な礼典の一つである「聖餐(Eucharist)」のメタファーとして機能しています。聖餐が、キリストの苦しみを覚え、パンとぶどう酒を分かち合うことで信徒同士の一致を確かめ、新しいいのちへと招かれる礼典であるように 、ドラマにおける食事のシーンもまた、登場人物たちが互いの痛みを分かち合い、孤独な個人が共同体(キリストの体)へと結び合わされ、新しい関係性(新しいいのち)へと歩み出す、聖なる交わりの場として描かれているのです。この視点は、私たちの日常の食事や、誰かと一杯のコーヒーを飲むというささやかな行為の中に、神聖な意味を見出すことを可能にしてくれます。  

 

4部:瓦礫の中に見出す「召命」あなたの人生の目的

物語の終盤、瞳子と清隆は、それぞれの「生きる」道を見出します。瞳子は、自らの経験を活かし、フィリピンで貧しい人々への医療支援活動に参加することを決意します。一方、清隆は日本に残り、人々が集い、心を休めることのできる場所として、カフェを守り続けることを選びます。これは、自らが負った傷を、他者を癒やすための賜物へと変えるプロセスであり、キリスト教が語る「召命(Vocatio)」の美しい具現化です。

 

宗教改革者マルティン・ルターは、「万人祭司」という思想を通して、召命(Beruf)を聖職者だけの特権から解放しました 。どのような仕事であっても、それが神から与えられた賜物を用いて隣人に仕えるためのものであるならば、等しく尊い聖なる務めとなりうるのです。瞳子と清隆は、まさにこの思想を体現しています。  

 

特に瞳子の姿は、「傷ついた癒やし手(Wounded Healer)」という概念を思い起こさせます。自らが被災者として深い痛みを経験したからこそ、彼女は同じように苦しむ人々の痛みを真に理解し、寄り添うことができるのです。彼女の弱さは、皮肉にも他者を癒やすための最大の強さへと変えられます。これは、自らの弱さの中にこそ神の力が完全に現れると語った、使徒パウロの逆説的な信仰告白(コリントの信徒への手紙二 12:9-10)と重なります。

 

また、瞳子が海外へ向かう一方で、清隆が地元に留まるという選択は、召命の多様性を示しています。神は私たち一人ひとりを、その人にしか果たせない独自の場所へと召されるのです。それは、海外での宣教活動かもしれないし、地域社会に根ざした地道な奉仕かもしれません。重要なのは、自分の置かれた場所で、自分にできる方法で神と人に仕えることの尊さを見出すことです。瞳子の活動は、日本におけるキリスト教系NPOの災害支援やコミュニティ形成の働きとも響き合います 。  

 

この物語のもう一つの重要な登場人物は、東北の自然風景そのものです。『ノマドランド』においてアメリカの雄大な自然が、社会から疎外された人々の孤独と自由を映し出す装置として機能したように 、『そして、生きる』においても、震災によって破壊された風景と、それでもなお美しい東北の自然が対照的に描かれます。これは神学的に見れば、「創造(Creation)」の美しさと、人間の世界の「堕落(Fall)」の悲劇を視覚的に表現しています。しかし、その破壊された風景の中にさえ、神の創造の秩序と美しさは厳然として存在し、登場人物たちの心を癒やしていきます。自然との触れ合いの中に、私たちは創造主である神の臨在を感じ、慰めを見出すことができるのです。  

 

結論:あなたの物語と、「生きる」という約束

『そして、生きる』は、苦難、復活、共同体、そして召命という、キリスト教信仰の核心的なテーマを、現代日本の物語として見事に描き切りました。しかし、これらのテーマは、ドラマの中だけの特別な物語ではありません。それは、程度の差こそあれ、私たちの誰もが人生で経験しうる普遍的な旅路です。

 

この物語が私たちに与えてくれる最も大きな希望は、「あなたは一人ではない」というメッセージです。どんなに深い孤独と絶望の中にいると感じる時でも、あなたと同じように痛み、それでも生きようともがいている人々がいます。そして何よりも、あなたの苦しみを共に担い、あなたの涙をぬぐってくださるキリストがおられるのです。

 

人生における喪失や失敗は、決して終わりではありません。それは、新しい始まりの可能性を秘めています。キリストにあって、私たちは何度でも「そして、生きる」ことができる。これが、福音の約束であり、復活の希望です 。  

 

あなたが今いる場所、あなたがしていること、そのすべてに、神からの聖なる召命が宿っています。あなたのささやかな奉仕が、誰かにとってのかけがえのない希望となりえます。あなたの存在そのものが、この世界を照らす光となりうるのです。

 

この物語を通して、様々な映画レビューが語るような「人間性の探求」や「希望の模索」 の旅に、私たちもまた招かれています。『そして、生きる』は、私たち自身の物語です。そして、そこにこそ、明日を生きるための希望と勇気、そして夢が、静かに、しかし確かに灯されているのです。  

  

バランスを維持する方法

 


今朝のランニングは11キロ――

 

グレーがかった朝、肌に触れる空気はどこか優しく、ちょっぴり小雨も期待しながらスタート。けれど、本格的な「シャワーラン」にはならず、雲間から時折差し込むほのかな光とともに走り抜けました。

 

坂を登るたび、ふと湧き上がる小さな歓びを覚えます。

それは苦しみの中にこそ見える特別な喜び――限界を押し広げて、汗とともに「今」を生きている実感。以前は週100キロ以上を走る日常でしたが、最近はぐっと距離を減らしています。体は「楽になった」と静かに安堵しているのに、心はどこか物足りなさを訴えている。そんな不思議な自分に苦笑してしまう朝です。

 

考えてみれば、人の心はいつまでも青春のまま。年を重ねても、「昨日できたことは今日もできる」と信じてしまいがちです。けれど身体は正直です。体力や回復力は、徐々に変化していくもの。無理に心のペースだけに合わせて走ってしまえば、転倒や怪我のリスクが高まるのも当然です。

 

大切なのは、今の自分の身体ときちんと向き合い、その「年齢」に寄り添いながら走り続けること。「今日はこれで十分」と自分を肯定することです。それが、続けるコツであり、人生を楽しむ知恵かもしれません。

 

少し晴れ間がのぞくと、心も自然と明るくなるのが不思議ですね。

雨や曇りが続くと、人はつい気分が沈みがち。でもそれは、自然と私たちが深くつながっている証。爽快な青空の日も、どんよりとした灰色の日も、どちらも等しく私たちの日常です。

 

だからこそ、自然を大切に、今日も自分のペースで走り続けたい。共に生き、共に感じ合える「今」というこの一日を。

たとえ空が曇っていても、心の中のライトを100%点けて。

自分らしい一歩を積み重ねて過ごしていきたいものです。

 

さあ、今日も喜びと共に―― Let’s run for life!

朝の小さな習慣が教えてくれる、人生の大きな真実

 


朝の小さな習慣が教えてくれる、人生の大きな真実

 

目覚めと共に始まる、私たちの物語

朝、目を開けた瞬間から、私たちはさまざまな行動を始めます。

 

お水をいっぱい飲む人、ラジオをつける人、テレビのニュースを確認する人。新聞を取りに行き、スマホでメールをチェックし、トイレに向かう。すぐに着替えて散歩に出かける人もいれば、ストレッチで体をほぐし、歯を磨き、顔を洗って一日をスタートさせる人もいます。

 

朝ごはんの支度をしながら、ランニングやヨガの準備をする人。静かに黙想し、祈りを捧げ、読書や聖書を読む時間を大切にする人。そして、歌声と共に新しい一日を迎える人もいるでしょう。

 

これらすべての行動には、共通する美しい意味があります。今日という一日を生きるための準備なのです。

 


生きることの意味を見つける日々

私たちは常に、生きるために何かを行っています。それは単なる習慣ではなく、生命への讃美であり、希望への投資です。朝の一杯の水は体を潤し、ストレッチは筋肉を目覚めさせ、祈りは心を整えます。

 

これらの小さな行動一つひとつが、実は私たちの生きる意志の表れなのです。

 


突然の変化が訪れる時

しかし、人生には予期せぬ瞬間が訪れます。これまで当たり前に行っていた習慣が、ある日突然、意味を失ったように感じる時があります。

 

病気になったとき、大切な人を失ったとき、退職したときやリストラされたとき、人生の大きな変化に直面したとき。朝のコーヒーも、いつものジョギングも、何もかもが色あせて見える瞬間があります。

 


でも、それでも朝は来る

そんな時こそ、私たちは大切なことを思い出す必要があります。

 

朝は必ず来るということ。

そして、朝が来る限り、新しい始まりがあるということ。

 

たとえ昨日までの習慣が意味を失ったように感じても、新しい意味を見つけることができます。お水を飲むことは、新しい一日への感謝になり、祈りは心の平安への道筋となり、読書は新しい視点への扉となります。

 


希望は習慣の中に宿る

人生で最も美しいことの一つは、小さな習慣の中に希望が宿るということです。

 

歯を磨くという単純な行為も、「今日も生きている」という証拠です。朝ごはんを作ることは、「今日という日を大切にしよう」という意志の表れです。ストレッチをすることは、「体を大切にしよう」という自分への愛です。

 


新しい朝、新しい可能性

もしあなたが今、人生の意味を見失っているように感じているなら、明日の朝を待ってみてください。そして、どんなに小さなことでもいいから、一つの行動を選んでみてください。

 

それは深呼吸かもしれません。窓を開けることかもしれません。「今日もありがとう」と心の中でつぶやくことかもしれません。

 


今日という贈り物

朝の習慣は私たちに教えてくれます。人生は毎日新しく始まるということを。

 

どんなに困難な昨日があっても、どんなに不安な明日が待っていても、今日という日は新しい贈り物です。そして、私たちには必ず、その贈り物を開く小さな鍵があります。

 

それは、朝起きて行う、たった一つの小さな行動かもしれません。

 

あなたの明日の朝は、どんな小さな希望から始まりますか?

 

その小さな一歩が、必ずあなたを新しい光の方向へと導いてくれるでしょう。なぜなら、生きることそのものが、最も美しい習慣だからです。

2025年7月16日水曜日

「量」から「質」へ。朝のランニング計画を見直した話


 今朝のランニングは10キロ。いつもより短い距離でしたが、走り終えた後の爽快感は格別でした。そして、この10キロという距離が、私のランニングとの向き合い方を大きく変えるきっかけをくれました。

 


これまでの私は、週に525キロのロングランを行っていました。しかし、距離が長くなればなるほど、その後の体のケアは大変になります。栄養の補充、入念なストレッチ、そして何より、まとわりつくような疲労感。走る喜びと同じくらい、正直「しんどさ」も感じていました。

 

「本当にこのままで良いのだろうか?」

 

そんな疑問を抱えながら今週、試しに10キロのランニングを2回取り入れてみたのです。すると、体は驚くほど軽く、ケアも楽で、心にも余裕が生まれました。その時、ふと気づいたのです。「もしかしたら、体に無理をさせていたのは自分自身だったのかもしれない」と。

 

この「気づき」を大切にしたくて、私は朝のトレーニング計画を刷新することに決めました。

 


【新しい朝のルーティン】

 

4日は、15キロの坂道ラン。 距離は短くとも、負荷をかけて質の高いトレーニングを目指します。

他の日は、大年寺山公園の255段の階段を駆け上がる。 全身を使ったトレーニングで、別の刺激を体に与えます。

これからは、時間に追われることなく、体の声に耳を澄ませながら、朝の貴重なひとときを過ごせそうです。無理なく、賢く、そして何より楽しく。新しいチャレンジに、今からワクワクしています。 

2025年7月14日月曜日

古い知恵の言葉

 


詩篇2編が語る永遠の教訓

詩篇2編は、人間の権力者たちが神に反抗し、自らの支配を確立しようとする姿を鮮やかに描いています。しかし神は、その様子を天から見下ろし、笑いながらご自身の王を立てられます。この古代の詩は、現代社会に生きる私たちにも深い教訓を与えてくれます。

 


現代人への警告

私たちはしばしば自分の力や知恵を過信し、神の導きを軽視してしまいがちです。真の安全と幸福は、神の道に従うことによってのみ得られるものなのです。

 

混乱と対立が続く今だからこそ、神を畏敬し、謙虚に生きる知恵が求められています。世の権力や成功という幻想に惑わされることなく、永遠の価値に目を向けること――これこそが私たちに課せられた挑戦なのです。

 


空虚な追求の末路

人生の最後まで欲望に縛られ、富や権力、名誉を追い求める人々の姿を見れば、その生き方がいかに愚かで空虚なものであるかが分かります。それでも多くの人々はその道を歩み続け、その先に待っている空しい墓場に気づくことはありません。本当の幸福を知らないまま、幻想にとらわれて生きているのです。

 


真の成功と幸福への道

神を愛し、人々を自分のように愛し合いながら生きること。

 

わずかな富でも分け合いながら暮らすこと。

 

そして、そのような生き方に報いがあることを信じ、み言葉に従って生きること。

 

このような人こそが、真に成功し、幸せな人なのです。

 

詩篇2編の古い知恵は、今もなお私たちの心に響き続けています。本当の王は誰なのか、真の幸福とは何なのか――その答えは、神の御前にひざまずく謙虚な心の中にあるのかもしれません。

一日の奇跡は自分の生き方から

 🌅 今日という贈り物 ~ある父親の美しい一日~


🏃‍♂️ 朝の奇跡:予定外の10キロ

娘への愛情弁当作りのため、今朝はランニングシューズを休ませる予定でした。しかし、時の神様が1時間という贈り物をくださいました。

坂道を選んで駆け上がる10キロ。汗と共に流れ落ちたのは、日々の疲れと心配事。代わりに胸に宿ったのは、満たされた充実感という名の宝物でした。

👨‍👧 父の愛、弁当という名の手紙

帰宅後、キッチンで娘への想いを込めて弁当を仕上げ、車の中で駅までの道のりで交わす親子の会話。これもまた、日常という名の小さな奇跡です。

チャペルに響く希望の調べ


10時半、大学チャペルに足を踏み入れると、200人を超える学生たちの若々しいエネルギーが空気を震わせていました。彼らの瞳に宿る輝きを見つめながら、心の中で静かに祈りました:「この美しい若さを存分に味わい、全力で生きてほしい。今この瞬間の輝きを、決して忘れないでほしい」そして希望のメッセージ力強く語りました。

🥕 愛という名のキャロットケーキ

午後の会議に向けて、キッチンで小さな魔法を唱えました。人参、小麦粉、そして思いやりを混ぜ合わせて作る、キャロットパウンドケーキ。

窓を叩く雨音が、まるでオーケストラの伴奏のように響く中で。

🌈 人生という名の錬金術

雨の日も、湿気の多い日も、すべてが私たちの手の中にあります。

環境を嘆くのではなく、自分らしく彩り直す。
嫌なことを楽しいことに変身させる。

これこそが、人生という名の美しい錬金術なのです。

なぜなら、この工夫と努力は:

  •  自分自身のため
  • 💝 家族の幸せのため
  • 🌟 今日を生きるため

今日もまた、生きることの美しさを教えてくれる一日でした。

 

2025年7月13日日曜日

ゆだねる心

 

日曜日の朝はランニングを休み、久しぶりに大年寺の階段から愛宕神社へ、そして広瀬川の川沿いを散歩してまいりました。約1年にも及んだ大年寺階段入り口の修繕が終わり、清々しい気持ちで石段を上りました。朝4時過ぎでしたので、まだ辺りは静寂に包まれており、鳥のさえずりと風の音だけが聞こえる中、その景色を独り占めする、なんとも贅沢なひとときでした。

 


山から目覚めゆく仙台の街並みを見下ろしながら、そして広瀬川のほとりで元気に泳ぐ白鳥や、朝の散歩やランニングを楽しむ人々の姿を見ながら、ふと思いました。こうして体を動かし、今日という一日を始めようとする人々も、その胸の内には、それぞれ異なる悩みや痛み、苦しみを抱えて生きているのだろう、と。

 


人生は、自分の思い通りにはならないことばかりです。その事実を知った時、私たちの前には二つの道があるように思います。一つは「諦める」道。そしてもう一つは、人知を超えた大いなる存在に「ゆだねる」道です。

 

もちろん、その「ゆだねる」相手こそが、私たちの信じる神様です。

ただ、その場合にも忘れてはならない大切なことがあると、改めて思うのです。それは、自分の期待や願いが叶うこと以上に、「神様の御心がなりますように」と祈り、お任せすること。未来のすべてをご存知である神様が導かれる道こそが、私たちにとって最善で、最高の道であると信じる信仰です。



2025年7月12日土曜日

大年寺階段

 


私の住んでいる近くには「大年寺山」と呼ばれる場所があります。山といっても、皆さんが想像するような高い山ではなく、少し小高い場所といった感じです。その山へ登る道はいくつかありますが、中でも255段の階段を上っていくのが一般的です。この階段は、多くの人が体力づくりのために利用しています。私も以前は毎日欠かさずこの階段を上っていました。時にはトレーニングの一環として、往復20回も上ったり、駆け下りたりしたこともあります。しかし、現在は朝のランニングで十分トレーニングできているので、階段を上ることはなくなりました。

 


この階段を登り切ると、大きな石に「前進」という文字が刻まれています。その「前進」という言葉が好きで、以前は毎日「今日も前進だ!」と自分に言い聞かせながら階段を上っていました。今日もまた「前進」です。たしかに前に進むことは大切ですが、ただやみくもに進むだけでは何となく良さそうに聞こえるものの、「何のために」「誰のために」進むのかが分からなくなり、途中で迷ってしまうこともあります。前進すること自体も大切ですが、はっきりとした目的を持って進むことがより大切だと思います。自分のために、家族のために、そして周りの人々のために前進できるなら、本当に素晴らしいことだと思います。できれば、みんなと一緒に前進できるのが一番良いですね。



【家族のための十戒】〜より平和で、豊かな関係を築くために〜

 

家族とは、神様が私たちに与えてくださった、最も小さく、そして最も尊い共同体です。しかし、身近な存在だからこそ、私たちは時に甘え、言葉を尽くすことを忘れ、すれ違ってしまうことがあります。

 

それは、ルールがないからではなく、互いを思いやる「心の指針」が、日々の忙しさの中で見えにくくなってしまうからかもしれません。

 

ここでは、私たちが家庭という港で、より穏やかに、そして豊かに過ごすための「十の戒め」を、私自身の経験も交えながら分かち合いたいと思います。これは厳しい規則ではなく、愛を育むための、知恵の分かち合いです。

 


家族のための十戒

第一条:憶測で判断せず、言葉で伝えなさい。

「きっとこう思っているに違いない」「なぜ分かってくれないんだ」という勝手な想像は、すれ違いの始まりです。頭の中で考え込まず、自分の気持ちや考えを、正直に、そして優しい言葉で伝えましょう。

 

例: 相手の帰りが遅い時に、「私のことなどどうでもいいんだ!」と怒るのではなく、「何かあったのかと、とても心配だったよ」と、自分の感情(心配)を伝えましょう。

 

第二条:まず、相手の話を最後まで聴きなさい。

自分の意見を言いたい気持ちを少しだけ抑えて、まずは相手の言い分に、心と耳を傾けましょう。「聞く」のではなく「聴く」姿勢が、相手の心を開き、信頼を育みます。

 

第三条:「ありがとう」という感謝を、惜しみなく表しなさい。

家族の間では、「やってもらって当たり前」という空気が生まれがちです。しかし、どんな些細なことにも「ありがとう」と口に出して伝える習慣が、家庭を温かい感謝の心で満たします。

 

第四条:過ちを赦し、昨日のことを今日まで持ち越さないようにしなさい。

誰にでも過ちはあります。相手の失敗をいつまでも責め続けるのではなく、赦し、水に流す勇気を持ちましょう。朝が来るたびに、新しい気持ちで関係をスタートさせるのです。

 

第五条:相手を変えようと願う前に、まず自分が変わる努力をしなさい。

「相手がこう変わってくれれば…」と期待するよりも、まず自分が変わる方が、はるかに早く、そして確実に平和が訪れます。

 

例: 私は食器をすぐに洗うタイプですが、妻は後でまとめて洗うタイプです。以前はそれが不満でしたが、考え方を変え、「彼女はやらないのではなく、後でやるだけだ」と、その習慣を受け入れることにしました。私が変わったことで、この件でのぶつかり合いは無くなりました。

 

第六条:感情が高ぶっている時には、重要な話し合いを避けなさい。

怒りや悲しみに心が支配されている時に発した言葉は、ナイフのように相手を傷つけます。まず「今は話したくない」と伝え、お互いが冷静になれる時を待つ知恵を持ちましょう。

 

第七条:共に笑い、楽しい時間を分かち合うことを、怠らないようにしなさい。

家族は、問題解決のためだけのチームではありません。一緒にテレビを見て笑ったり、散歩をしたり、美味しいものを食べたり。何気ない楽しい時間の積み重ねが、困難な時を乗り越えるための強い絆となります。

 

第八条:譲れない一線については、その理由と共に、誠実に伝えなさい。

何でも我慢すれば良いわけではありません。どうしても譲れない大切な価値観や境界線については、「なぜなら、私はこう考えているからです」と、その理由を添えて、誠実に話し合いましょう。

 

第九条:家族であっても、一人の人間として、その人格と価値を尊重しなさい。

親子であれ、夫婦であれ、相手は自分の所有物ではありません。一人の独立した人間として、その意見、感情、そして価値観を尊重する。その基本的な姿勢が、すべての土台となります。

 

第十条:そして、これらすべてを、愛をもって行いなさい。

結局のところ、これら九つの戒めも、根底に「愛」がなければ、ただの冷たいルールになってしまいます。相手を大切に想う心、幸せを願う心。その愛をもって、日々の関係を築いていきましょう。

 

完璧にできる人など、どこにもいません。

まずはこの中から一つでも、今日意識して過ごしてみませんか。皆様の家庭に、神様からの豊かな愛と平和が、さらに満ち溢れますように。

朝ランから見えた真の指導力:歴史が教える支配の本質

  朝ランから見えた真の指導力:歴史が教える支配の本質   海の日の山道で 今朝、海の日にも関わらず私の足は山の方向を向いていました。 20 キロ走った翌日は休息日と決めていたはずなのに、体が自然と外へと押し出してくれる。この感覚は不思議なもので、まるで何かに導かれる...