湯けむりの中で手放す「スマートな人生」 ―― さまよう魂が帰る、ただ一つの温もり
素裸の時間と、立ち上る思索
今朝、極楽湯の温かいお湯にゆっくりと身を沈めていた時のことです。 一切の持ち物をロッカーに預け、デジタルの通知音からも完全に解放された素裸の状態で、心地よいお湯の温度に身体を委ねていました。湯けむりが静かに天井へと立ち上っていくのを眺めながら、私の頭の中には、現代の私たちの生き方についての深い問いが静かに広がっていきました。
「スマート」の罠と、人間の本質
今の私たちの周りを見渡すと、スマートキー、スマートフォン、スマートリング、スマートウォッチなど、世界は物理的で便利な「スマート」なモノで満ち溢れています。
無駄がなく、効率的で、摩擦がない。そうした洗練されたテクノロジーに囲まれるうちに、いつしか人間自身もそれに倣い、失敗や遠回りのない「スマートな人生」を目指そうとする風潮があります。
しかし、お湯の中で私は一つの明確な結論に行き着きました。 「人間にとって、スマートな人生など絶対に不可能である」ということです。
なぜなら、人間は計算式通りに動く「モノ」ではないからです。私たちは傷つき、悩み、時に泥臭く足掻きながら生きる、極めて複雑で不器用な存在です。
便利なスマート機器は、私たちの生活の煩わしさを少し減らし、効率よく「便利な人生」を生きる助けにはなります。しかし、利便性がそのまま「幸せな人生」に直結するわけではありません。画面の向こう側の世界とどれほどスマートに繋がれたとしても、魂の底にある孤独や渇きを潤すことはできないのです。
さ迷う私たちが、本当に帰るべき場所
人間のこの根源的な「不器用さ」と「満たされなさ」には、明確な理由があります。 それは、人間がはるか昔に神様から切り離されて以来、常に心のどこかに欠落を抱え、「さ迷う人生」を生きるようになったからです。時代がどれほど進化し、身の回りのモノがどれほどスマートになっても、人間の魂が抱えるこの「さ迷い」の本質は今も何一つ変わっていません。もし、私たちが心の底から、本当に迷いのない整えられた人生を望むのであれば、最新のデバイスを身につけることでも、失敗を避けて器用に生きることでもありません。
「命の源である主なる神様の所へ、立ち帰ること」。ただそれだけです。
創造主という大いなる存在の御手の中に、自らの弱さも不器用さもすべて委ねる。それ以外の方法で、私たちが本当の意味での「スマートな(=本来の目的に美しく合致した)人生」を見出すことはできないのです。
不器用な足取りを愛し、光の中へ
今日、もしあなたが「自分は器用に立ち回れていない」「スマートに生きられていない」と落ち込んでいるなら、どうかその重荷を湯気と共に手放してください。
- 私たちはモノではありません。スマートに生きられなくて当然なのです。
- 遠回りをし、悩み、時に立ち止まるその不器用な足取りこそが、人間らしい美しい命の証明です。
スマートさ(便利さ)を追い求めることよりも、自分の弱さを認めて神様の懐に帰るという、最も深く、最も温かい幸福を選び取っていきましょう。不器用なままでいい。その手を取って導いてくださる方がいるからです。
今日も、共に前進です。
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