二時間のビーフシチューと、祈りの火
連休の終わりが近づいています。とはいえ、私は普段からカレンダーの休日にあまり左右されない生活をしています。正確に言えば休日はないかも・・・
それでも連休には、どこか心と体をゆるめてくれる不思議な力があります。少しだけ歩調を落とし、呼吸を整えられる恵みの時間です。
今日はビーフシチューを作りました。
私が作る料理の中では、いちばん時間がかかる料理です。約二時間。
長い時間をかけて鍋を見守り、火加減を調整しながら仕上げていきます。しかし実際に食べるのは、ほとんど二人だけです。
しかも私は、ビーフシチューが特別大好きというわけではありません。嫌いではないけれど、どうしても食べたいというほどでもない。
それでも作るのです。
時間は、愛のかたちになる
考えてみれば不思議です。
好きだから作る。 食べたいから作る。
そういう理由だけなら、もっと簡単な料理を選ぶこともできます。
それでも二時間をかけるのは、その料理を待つ人がいるからです。
誰かのために野菜を切り、 誰かのために鍋をかき混ぜ、 誰かのために時間を差し出す。
その積み重ねによって、一皿の料理は単なる食事以上のものになります。
時間は有限です。
だからこそ、自分の時間を差し出す行為には意味があります。
愛とは必ずしも大きな言葉ではなく、「二時間かけてビーフシチューを作る」というような、静かな選択の中に宿るのかもしれません。
休むこともまた、大切な務め
明日は休むことにしました。
先週の土曜日にフルマラソンを走り、その後も走り続け、今日もフルマラソンを走りました。走ることは好きです。
けれど、前へ進むことだけが知恵ではありません。
体の声を聞き、足を止める勇気も必要です。
私たちは時々、「走り続けること」に価値を置きすぎてしまいます。
しかし人生には、立ち止まることでしか見えない景色があります。
階段を一段ずつ上るように歩むためには、ときに踊り場で呼吸を整えなければなりません。休息は怠慢ではなく、次の一歩を健やかにするための備えなのです。
世界の悲しみの中で
ふと目を向ければ、今日も世界では事件や事故が起こっています。
平和に過ごせた日など本当にあったのだろうかと思うほど、人の悲しみは絶えることがありません。
誰かの過ちによって失われてしまう命があります。
残された人々の痛みを思うと、胸が締めつけられます。
私たちは遠くで起きた出来事を変えることはできないかもしれません。
けれど、悲しみを無関心に通り過ぎるか、心を向けて祈るかは選ぶことができます。
小さな祈りは、すぐに世界を変えないかもしれません。
それでも祈りは、人の心を冷たくする流れに抗う、小さな火種です。
火を絶やさないために
聖書には、
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
とあります。
誰かの痛みに心を寄せること。
誰かのために時間を使うこと。
そして、自分自身も休みながら歩み続けること。
それらは別々のことではなく、同じ一本の道につながっているように思います。
二時間かけて煮込んだビーフシチューの火。
疲れた体を休ませる静かな時間。
悲しみの中にある人々のための祈り。
どれも目立つものではありません。しかし、そのような小さな火が消えない限り、世界にはまだ希望があります。
連休の終わりの夕暮れに、そんなことを思いました。
今日という一日が、誰かの心を少しでも温めるものでありますように。私たちの小さな愛と祈りが、明日へ続く道をそっと照らしますように。そして明日からの娘の実習が恵み豊かな時となりますように。
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