「立入禁止」のあふれる世界で、明日のための食卓をととのえる
街を歩いているとき。あるいは、山や川沿いの道を走っているとき。 風景のなかに、ふと黄色や赤の小さな看板が目に留まることがあります。
「立入禁止」
そこにはたいてい、立ち入ってはいけない理由として「危険だから」という警告が添えられています。崖が崩れるかもしれない、川の流れが急であるかもしれない。命を脅かす危険が潜んでいるから、ここから先へは入ってはいけない、という境界線です。
危険に満ちた世界への問い
走りながら、あるいは歩きながら、その看板を通り過ぎるたびに、私の内に一つの静かな問いが波紋のように広がっていくのを感じます。
あちらにも「立入禁止」。こちらにも「危険」。 そうやって見渡してみると、この世界は至る所に危険が口を開けて待ち構えているように思えてきます。物理的な危険だけではありません。病、事故、突然の喪失、理不尽な悪意。一歩踏み外せば足元が崩れ落ちてしまうような危うさの上に、私たちの生活は薄氷のように乗っているに過ぎないのではないか。
- 危険なところがありすぎる。
- 本当は、この世界は安心して住めるような場所ではないのではないか。
ふと、そんな途方もない不安と虚無感に襲われる瞬間があります。 それなのに、人々はこの危険な世界で、今日も息をして、笑い、泣き、生きています。
なぜ、私たちはこの危うい世界で、それでも生き続けることができるのでしょうか。
日常という名の「希望の砦」
その問いを胸の奥に抱えながら、私は家に帰り、いつものように台所に立ちます。 家族のために夕食を作ります。包丁で野菜を刻み、鍋を火にかけ、部屋の掃除をし、そして「明日のゴミ出し」の準備をします。
危険に満ちた広大な世界と、夕食の匂いが漂う小さな台所。 そのあまりにも対照的な二つの風景が重なり合ったとき、私の中で一つの深い気づきが静かに降り積もりました。
私たちがこの危険な世界で生き続けることができる理由。 それは、世界が安全になったからでも、私たちが危険をすべて回避できるほど強くなったからでもありません。
「愛する者のために、今日なすべき小さな営みがあるから」です。
家族の帰りを待って夕食を作ること。床の埃を掃き清めること。明日の朝のために、資源ごみをまとめること。それらの日常の平凡な行為は、実はとても力強い「希望の宣言」です。
明日のゴミ出しを準備するということは、「明日もまた、家族と共に生きていく」という未来への確かな信頼(信仰)の証なのです。
外の世界にどれほど多くの「立入禁止」の看板が立っていようとも、愛する者のために整えられたこの小さな家の中には、温かな命の居場所が確保されています。私たちは、恐怖によって世界から逃げ出すのではなく、愛によって日常という名の「希望の砦」を築き上げているのです。
平安は、危険のない場所ではなく
聖書の中に、イエス・キリストが弟子たちに残した重みのある言葉があります。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書 16:33)
キリストは、「この世からすべての危険や苦難を無くしてあげる」とは言われませんでした。世には苦難がある。危険な場所も、悲しみもある。その厳しい現実を真っ直ぐに見据えた上で、「それでも、勇気を出しなさい」と招いておられます。
本当の平安とは、「立入禁止」の看板が一つもない安全無菌な世界に住むことではありません。 どれほど世界が危うくとも、神の揺るぎない愛に守られながら、今日という日に与えられた「誰かのための小さな働き」を誠実に積み重ねていくこと。その確かな足取りの中にこそ、平安は宿るのです。
今日、何かの不安に足がすくみそうになっている方がいるかもしれません。 世界が少し恐ろしく見えて、前に進めなくなっている人がいるかもしれません。
どうか、遠くの大きな危険を見つめ続けるのをやめて、手元にある小さな愛の営みに目を向けてみてください。 誰かのために温かいお茶を淹れること。部屋の窓を開けて風を入れること。明日の準備をすること。
そのあなたの小さくて誠実な手の動きが、危険な世界に灯る確かな光となり、あなた自身の心を温めてくれるはずです。
明日もまた、私たちは明日のためのゴミ出しの準備をして、新しい一日を歩み始めます。
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