デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年10月12日月曜日

無事に帰宅

 


手放す勇気と、63キロの軌跡——肩の痛みの中に刻まれた恵み

午前2時24分。まだ夜明けには遠い、深い闇と静寂の中、私は原町教会を目指してウルトラマラソンのスタートを切りました。

少し冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みながら、一定のリズムでアスファルトを踏みしめる。心拍数は平均139bpm、ペースはキロ6分34秒。自分の内側にある命の鼓動と対話するような、静かで熱い時間でした。

しかし、現実は思い描いた計画通りには進みませんでした。

背中に背負ったバックパックの重みは、距離を重ねるごとに想像以上の負担となって体にのしかかってきました。次第に肩の皮膚が擦れ、ヒリヒリとした痛みが走ります。その痛みを文字通り「背負いながら」走り続けましたが、目的地の原町を目前にして、私は鹿島駅で立ち止まりました。走行距離、約63キロ。合計タイムは6時間53分35秒、消費カロリーは4,027kcalに達していました。

なぜ、あと少しの距離を残して走ることをやめたのか。 それは、このまま走り続ければ、今回の最大の目的である「全体研修会」の時間に間に合わなくなってしまうからです。

ランナーとしての自我や誇りは、「最後まで自分の足で走り切りたい」と叫んでいたかもしれません。痛みに耐えてでも、当初の71キロという目標を完遂したいという誘惑がありました。しかし、私は鹿島駅で足を止め、電車に乗るという選択をしました。

私たちは人生において、時に「自分が立てた完璧な計画」に固執してしまうことがあります。目標を達成すること自体が目的化し、本来一番大切だったはずの「礼拝」や「神様との出会い」、「人との交わり」を後回しにしてしまう。そんな本末転倒な歩みをしてしまうことが、どれほど多いでしょうか。

聖書には、次のような言葉があります。

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言 16:9)

71キロを自分の足だけで走り切ること。それは私が思い巡らした「自分の道」でした。しかし、神様が今日、私に備えられた「確かな歩み」とは、63キロ地点で自分の限界とタイムリミットを受け入れ、潔く自我を手放して電車に揺られ、時間通りに礼拝の席に着くことだったのです。

帰りの電車の中、座席に深く腰を下ろすと、肩の擦り傷がじんわりと熱を持ち、心地よい疲労感が全身を包み込みました。完璧な完走という勲章は得られなかったかもしれません。しかし、自分の弱さを認め、他なる力(電車)に身を委ねて目的地へ着いたこの経験は、私にとって何よりも尊い「祈りの道のり」となりました。

計画通りにいかないこと。途中で諦めざるを得ないこと。痛みとともに歩まなければならないこと。 それらは決して失敗ではなく、私たちが本来向かうべき場所へ、一番正しいタイミングでたどり着くための「軌道修正の恵み」なのです。

肩の痛みが癒える頃、この63キロの軌跡は、私の心にさらに深い確信を与えてくれるはずです。今日という不完全で、しかしこの上なく満たされた一日に、心からの感謝を捧げます。

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