できないことの向こうに、ほめる言葉を
暑かった昨日
昨日は、久しぶりにノアのシャンプーをしました。妻は仕事だったので、一人で行いました。昨日は暑かったので、前からシャンプーの日にしていました。ノアは、シャンプーがあまり好きではありません。それなのに、海や池で泳ぐのは上手です。水そのものが嫌いなわけではないのです。犬には、生まれつき泳ぐ本能があるのかもしれません。
自分から飛び込む水は楽しいのに、誰かに洗われる水は落ち着かない。
同じ「水」なのに、不思議なものです。それでも、無事に洗い終えました。
これで、大きな仕事がひとつ片づきました。感謝です。
猫にはできて、犬にはできないこと
シャンプーをしながら、ふと思いました。
猫は、自分で顔を洗い、身なりを整えることができます。けれども、犬にはそれができません。もし「できないこと」ばかりを数えるなら、犬は手のかかる存在に見えるかもしれません。でも、それは違うのだと思います。ノアは泳ぐのが上手です。猫は身づくろいが上手です。それぞれに、上手なことがあります。大切なのは、できないことに目を留めるのではなく、できることをほめてあげることです。これは、犬の話にとどまりません。
私たちが数えているもの
私たちは、自分や身近な人の「できないこと」を、つい数えてしまいます。
- あの人のように、うまく話せない。
- 若い頃のように、体が動かない。
- 家族なのに、どうしてこれができないのだろう。
できないことは目につきやすく、できることは「当たり前」として通り過ぎてしまう。
そうして、ほめる言葉より、ため息のほうが多くなっていきます。
けれども、聖書はこう語ります。
「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから」
(ローマの信徒への手紙12章6節)
「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」(コリントの信徒への手紙一12章21節)
違うということは、欠けているということではありません。
神は、一人ひとりにそれぞれの「上手」を与えておられます。
それを見つけ、言葉にしてほめることは、その人を造られた神への感謝でもあるのです。
自分では洗えないということ
もう一つ、心に残ったことがあります。
ノアは自分では体を洗えません。だから、誰かが洗ってあげるのです。
本人はあまり好きではなくても。この姿に、ある聖書の場面が重なりました。
最後の晩餐の夜、主イエスが弟子たちの足を洗おうとされたとき、ペトロはそれを拒みました。「わたしの足など、決して洗わないでください」(ヨハネによる福音書13章8節)
すると、主イエスはこう答えられました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」(同)
私たちもまた、自分の心を自分できれいにすることはできません。
後悔も、怒りも、誰かを傷つけた言葉も、自分の力で洗い流すことはできないのです。
だからこそ、主イエスが洗ってくださいます。
私たちが少し抵抗しても、居心地が悪くても、あきらめずに、ていねいに。
できないことは、恥ではありません。
それは、愛されるための場所なのかもしれません。
昨日の暑さとは違い、今日は強い風が吹き、肌寒く感じる一日です。
こうして、新しい季節は訪れるのです。
「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉3章1節)季節は、私たちが準備できたかどうかに関係なく、ある日、風と共にやって来ます。人生の季節も同じです。できていたことが、できなくなる時もあるでしょう。
けれども、そのたびに、まだできることを見つけ、ほめ合い、できないことは誰かに委ねながら歩んでいけばよいのです。
この新しい季節の始まりに、一つだけ試してみませんか。
- 身近な誰かの「できること」を、一つ言葉にしてほめてみる。
- 自分の「できること」にも、一つ「ありがとう」と言ってみる。
ため息を一つ、感謝の言葉に変えるだけで、今日の風は少しやわらかく感じられるかもしれません。できないことの向こうに、ほめる言葉を。そして、自分では洗えない私たちを洗ってくださる方に、感謝を。今日も、新しい季節の中を、一歩ずつ。
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