2025年4月21日月曜日

朝の光と共に走る—ランナーの祈り

 



週末の達成

イースターの記念すべき週末を駆け抜けました。土曜日はイースター記念マラソンを完走し、日曜日には教会総会を祝うかのようにハーフマラソンを完走。そして月曜日、休むことなく日課の朝ランへ—25キロを走り抜けました。この三日間で積み重ねた距離は、私の心と体に新たな息吹を吹き込んでくれました。

 


朝の恵み

今日も空は澄み渡り、完璧な晴天が広がっています。朝日はまだ優しく肌を撫で、心地よい暖かさを感じさせてくれます。しかしこの季節の移ろいは早く、すぐに暑さを感じる日々が訪れるでしょう。今こそ朝のランニングにとって最も理想的な時期なのです。

 

澄んだ空気、適度な気温、そして静寂の中で聞こえる自分の足音と鼓動—これらが織りなす朝の瞬間は、ランナーにとって何にも代えがたい贈り物です。


 

気持ちよく走るための条件

足を進めながら考えます。気持ちよく走るためには何が必要なのだろうかと。

 

身体の健康状態、走りたいという意欲、天候の良さ—これらはもちろん欠かせません。しかし、より本質的で大切な条件があることに気づかされます。それは、家族を含む周りの人々の平穏な暮らしです。

 

家族の誰かが重い病に苦しんでいたり、深刻な問題を抱えていたりすれば、どれほど素晴らしい朝の風景があろうとも、心から走りを楽しむことはできないでしょう。人間は、周囲の環境に影響を受けやすい存在なのです。

 


繋がりの中で生きる

だからこそ私たちは、互いに助け合い、支え合いながら生きていくべきではないでしょうか。周りの人々が不幸せで、苦しみや悩み、痛みの中にある時に、自分だけが幸せに生きることは本当に可能なのでしょうか。

 

「他者の不幸とは切り離して、自分だけの幸せを築くことができる」と主張する人もいます。一方で「周りの人々の幸福なくして、真の幸せはあり得ない」と考える人もいます。多様な価値観、生き方、考え方があり、それぞれに尊重されるべきでしょう。

 


自分の道を選ぶ

しかし最も重要なのは、他者の意見ではなく、自分自身がどう生きたいのかという問いに向き合うことです。周囲の声に惑わされず、自分の信念と決断に従って歩むこと—それが私にとっての本当の幸せへの道なのかもしれません。

 

朝のランニングは、こうした思索の時間も与えてくれます。足を前に進めながら、人生という長い道のりについても考える—それが私の朝の習慣の何よりも贅沢な恵みなのです。

 

走る足音と共に、新しい一日が始まります。あなたの一歩一歩が、自分と周りの人々に幸せをもたらす道となりますように。

 


今日は朝7時過ぎに一人の教会員が我が家に野菜を届けてくださいました。感謝。

今日も神様の恵みの内に過ごしたいと思います。

2025年4月18日金曜日

よく考えて生きる

 


小さな誘惑がもたらす大きな代償

ニュースで「運賃1000円」の着服によって「退職金1200万円」が全額不支給となり、最高裁がその判断を「適法」としたという記事を読みました。これを知ったとき、原告側の家族がどれほど悔しい思いを胸に抱いているのかを想像せずにはいられませんでした。わずか1000円という目の前の誘惑に負けた結果として、その1200倍もの価値を失う結末になってしまったのです。

 

この問題は、「よく考えなかったこと」が原因ではないでしょうか。もし冷静になって一度立ち止まり、バスに設置されている監視カメラの存在を思い出していれば、その行動をとどまることができたかもしれません。また、1000円を着服して得られる「幸せ」と、その行為がもたらす直後からの「不幸」を天秤にかける時間があれば、きっと別の選択をすることができたでしょう。

 

さらに、行動を決定する前に「家族の喜び」や「倫理的な観点」に目を向ける余裕があれば、起きてしまった結果を防ぐこともできたはずです。こうした「何も考えないまま、本能的な行動をとる」ことが、私たち人間に思いがけない不幸をもたらすことは少なくありません。

 

私たちに必要なのは、「よく考えること」です。よく考えた上で話し、よく考えた上で行動する。これを日々の生活において心がけることが重要です。しかし、それ以上に大切なのは、目に見える人々の視線よりも目に見えない大きな存在――神様の視線を意識することではないでしょうか。

 


これは「コラムデオ(Coram Deo)」と呼ばれる生き方です。つまり、「神様の御前で生きる」という意識をもって、自分の言動を慎むということ。この意識を持つことで、より誠実で意味のある生き方ができるのではないかと思います。今日も神様の御前で誠実に、生きることを忘れずに過ごしたいものです。

 

穏やかな日常に感謝して

さて、今日は明日のランニングに備えて休息の日と決め、朝から少し手間をかけて料理を楽しみました。ほうれん草グラタンを作り、玉子焼きまで添えてプチ豪華な朝食に。身体を動かすために久しぶりに歩いて朝市へ出かける予定も立てたので、小さなワクワク感に包まれています。

 


日々のこうした穏やかな時間が、どれほど貴重であるかを改めて感じます。忙しい日々の中で見失いがちな「感謝」や「喜び」を、今日という日にも忘れずに持ち続けたいと思っています。大きなことがなくても、自分のできることを精一杯楽しみながら、「今」を大切に生きていく。それが幸せな毎日の秘訣かもしれません。

 

今日も感謝の気持ちと喜びを胸に、精一杯に。明日へ続くこの瞬間を楽しみながら過ごしていこうと思います。

2025年4月17日木曜日

洗足木曜日礼拝

 


早朝ランニングと春の風

まだ肌寒さが残る早朝、今日もいつものように4時過ぎにランニングを実施しました。今日は少し冒険心をくすぐられ、新しいルートを試してみることに。この新しい道を走るという体験は、毎回ちょっとしたワクワク感を届けてくれるものです。時には道に迷ったり、期待外れのルートにがっかりすることもありますが、ほとんどの場合、新しい発見があり「また走りたい」と思える道が見つかるものです。

 

今日は快晴。徐々に体が温まり、汗が流れ出す中、春の爽やかな朝風が心地よく体を包み込んでくれました。この風に吹かれる瞬間は走る楽しみをいっそう引き立ててくれます。自然に囲まれながら走れる時間に改めて感謝しました。

 


名取川と心の静けさ

ランニング中、たまに名取川で小舟を使って漁をしている方々を目にすることがあります。その様子を眺めていると、聖書に登場するイエス・キリストの弟子たちが漁をする姿が脳裏をよぎります。それが今日のイースター礼拝説教の準備にリンクし、自然と深く考え込む時間が生まれます。こうした心の静けさや思索のひとときは、日々の忙しさの中で癒しと気づきを与えてくれます。

 


今日という日の感謝

今日のランニングは無事に完走し、距離にして26キロを走破しました。体に負担を感じることもなく、心地よく走り抜けられたこの経験にも感謝です。この後、11時から洗足木曜日礼拝が控えています。天気予報では日中は暑くなるとのこと。それもまたいいものだと思います。この1日も、与えられた命をしっかりと生き抜こう、そんな気持ちでいっぱいです。

 


娘の挑戦を見守りながら

娘は今日から4日間のバイトだそうです。さらに来週は6日間のバイト。少し大変かもしれません。でも、それでも毎日を楽しみ、感謝の気持ちを忘れずに生きてくれたら、それが一番。親としてはそんな娘の姿を見守り、心の中でエールを送りたいと思います。

 

最後に、今日という日がすべての人にとって充実した一日となりますように。頑張りすぎず、でも精一杯、日々を生きていきたいものです。

2025年4月16日水曜日

手紙


 先日、ある教会員の方からお電話をいただきました。その方は、自身の身体の衰えにショックを受けているとのことでした。年齢を重ねるにつれて身体の機能が低下するのは自然なことですが、それを受け入れるのは簡単ではありません。そこには苦しみや葛藤が伴うものです。重要なのは、それを共有し理解し合いながら、現実を穏やかに受け入れて残りの人生をどう生きるかを考えることです。そのためにはイエス・キリストに対する信仰が必要です。この世の人生だけでなく、永遠の命があることを共に確認し、希望を持って生きることが大切です。その電話でのお話を通じて、信仰を持って最後まで共に歩むことを再確認できた貴重なひとときでした。

 その電話の後、以下の手紙を書いて送りました。


〇〇兄姉へ

 主の御名を賛美いたします。

こんにちは。お元気でお過ごしでしょうか?

 

春の訪れとともに、木々が少しずつ青葉を芽吹き始めています。季節の移ろいを感じられる日本に住むことは、大きな祝福ですね。春を楽しめるのはほんの束の間で、すぐに暑い夏がやってきますが、それでも四季のある生活には特別な恵みを感じます。暑さや寒さだけではなく、春と秋がその間に訪れ、次の季節への準備を知らせてくれる姿に心が和みます。こうした小さな自然の変化に感謝を覚えつつ過ごせたら素晴らしいですが、つい当たり前のことと捉えてしまいがちですね。

 

聖書の言葉に「いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。どんな時にも感謝しなさい。」とあります。この教えは、私たちが元気よく生きるための大切な秘訣です。ただ、簡単なことではありませんよね。しかし、この言葉を心に留めて過ごすことで、自分を見つめ直すきっかけとなります。

 

最近、ふと不平不満ばかりを口にしてはいないかと思うことや、神様に祈ることを忘れ、自分の力だけで生きようとしていないかと反省することがあります。また、先のことへの不安からため息ばかりついて笑顔を忘れてしまっては、せっかくの祝福を見失ってしまいます。この聖書の言葉は、そんな時に私たち自身を振り返り、心を整える大切な導きだと感じます。

 

良いことがあれば感謝し、喜ぶのは自然なことですが、悲しみや試練の中で喜び、感謝することは簡単ではありません。それは、神様に生きる希望を置き、イエス・キリストの十字架の出来事を自分のものとして受け入れた人にだけできることです。キリスト者は「信仰によって生きる人」であり、神様から与えられる力を受け取りつつ、今を歩むことができます。この信仰によって歩み続けることで、私たちは希望を持って生きることができるのです。

 

共に祈りながら、信仰によって日々を歩んでまいりましょう。

 

兄姉の上に主の豊かな祝福がありますように。

心よりお祈りしています。

 

どうぞお体を大切にお過ごしください。


2025年4月15日火曜日

生きるための命である

 


新たな道、新たな朝

午前4時、まだ街が眠りについている時間に、私は走り始めました。今日は気分を変えて、

いつもとは違う道を選びました。一直線に伸びる道は、どこか未知への旅を感じさせます。

足音だけが響く静けさの中、少しずつ東の空が明るさを増していきます。雨上がりの朝は、

空気が洗われたように澄んでいて、深呼吸するだけで心が満たされます。このような瞬間

に、自然の恵みを全身で感じられることに感謝せずにはいられません。

 


試みと気づき

新しい道には新しい発見があります。しかし今日は、トラックや車の音が思いのほか多く、

静かに自分と向き合うランニングには向かないことを実感しました。明日からは再び、静寂

に包まれた堤防の道に戻ることにします。時には冒険も必要ですが、自分に合った場所を知

ることも大切な学びです。

 


春の訪れと個人的な解放

周りを見渡すと、木々の枝先に新緑が顔を出し始めています。自然が少しずつ目覚めるこの

季節、私自身も変化の時を迎えています。長く苦しんでいた花粉症の時期がようやく過ぎ去

り、自由に深呼吸できる喜びを感じられるようになりました。帯状疱疹の痛みはまだ残って

いますが、それも今は心を曇らせる理由にはなりません。体の不調があっても、前に進む意

志があれば道は開けるものです。

 


祈りと決意

朝のランニングは、私にとって祈りの時間でもあります。今日一日が、家族や友人、そして

見知らぬ誰かにとっても、恵みと守りのある日となりますようにそんな思いを胸に抱きなが

ら走ります。この世界では、今日も様々な出来事が起こるでしょう。事故、事件、災害...

たちにはコントロールできないことがあまりにも多く存在します。しかし、それでも自分

道を一歩一歩進んでいくことが大切なのではないでしょうか。夜明けの空に広がるオレン

色の光は、どんな暗闇も必ず明けることを教えてくれます。今日も、自分にできることを

一杯やっていこうと思います。今日、与えられた命は、他ではなく今日の人生を生きるた

の命です。

明日は、また堤防の道を走ります。

2025年4月14日月曜日

日課

 


降り続く雨のように、私たちの世界には、なかなか止まない悲しみや不安があります。

遠い国の戦争のニュースが日々流れ、身近なところでも争いごとが絶えません。

誰もが、大なり小なり、苦しみや痛みを抱えながら、この時代を生きています。

 


それでも、私たちは生きていかなければなりません。

いや、こんな時代だからこそ、顔を上げて、生きていく意味を見つけたい。

愛する家族のために、未来を担う子どもたちのために、そして、かけがえのない自分自身の

ために。

 


日々のニュースを見れば、物価は上がり続け、私たちの暮らしは厳しさを増すばかりです。

国と国との対立は、経済にも影を落とし、多くの企業や働く人々が苦しい声を上げていま

す。

 


日本でも、遠い国でも、予期せぬ事故の知らせが心を痛めます。

ヘリコプターや飛行機の墜落事故、突然の自然災害…

ほんの十分先、一瞬先の未来さえ、私たち人間には分からないのだと、改めて思い知らされ

ます。

「まさか自分が…」そんな悪夢のような出来事が、誰の身にも起こりうる。

(雷に打たれた方のニュース、本当に驚きました。一日も早い回復を心から祈っていま

す。)

このように、今の世の中は、どこか落ち着かず、先の見えない不安が漂っているように感じ

られます。

 

一方で、こうした世の中の喧騒とは少し距離を置いて、穏やかに、平和な毎日を送っている

人々もいます。それはそれで尊く、守られるべき時間です。

 

私たちは、つい目の前のことで頭がいっぱいになりがちです。

世界の貧困や飢餓を憂うよりも、今日の夕食の献立に悩む。

遠い国の戦争の行方よりも、我が子の友達との喧嘩を心配する。

地球規模の大きな問題よりも、家庭内の小さな揉め事に心を砕く。

それは、私たちがそれぞれの場所で、懸命に「今」を生きている証拠なのかもしれません。

誰もが、自分の置かれた環境や状況の中で、必死に、ただひたすらに生きようとしていま

す。

 

でも、時に立ち止まって、考えてみませんか。

私たちは、いったい何のために、この命を使い、日々を生きているのでしょうか?

いったい誰のために、喜び、悲しみ、汗を流しているのでしょうか?

 

この、シンプルで、しかしとても大切な問いに、自分なりの「芯」となる答えを持つことが

できたなら、人はどんな困難な状況にあっても、きっと強く、しなやかに立っていられるの

ではないでしょうか。答えはすぐに見つからなくても、問い続けること自体に、大きな意味

があるのだと思います。

 

雨はいつか止み、雲の間から光が差すように。

どんなに苦しい状況も、永遠には続きません。

 

大切なのは、今、こうして「生きている」という、かけがえのない事実。

この胸に温かい鼓動がある限り、私たちは希望の種を蒔き、ささやかな勇気を育てることが

できます。

 

だから、今日という一日を、大切に、精一杯生きていきましょう。

うつむきそうな時も、ほんの少し顔を上げて。

夜明けの来ない夜はないと、信じて。

 


本日の日課。

いつものように2時起床。祈りと仕事、ノアちゃんの散歩。今日はランニング休み。

エッセイを書く。(2年間の作業として進行中)

朝からキャロットパウンドケーキを作った。

雨なので子どもを駅まで送り、お風呂場へ。

帰りにベニマルで買い物。

帰宅して、また仕事。

昼頃、妻をバイト先まで送り、帰りにまた買い物。

帰宅して大根のポリポリ漬け、人参炒め、ほうれん草茹で、たくあんを切ってタッパーに、

それから

最後は夕食のための鶏むね肉の料理を作った。感謝。

6回の朝ランを実施中。走るときには皆のために祈る大切な時である。

11月のサンティアゴ祈りの旅も少しずつ準備中。4月にはいつものように宿泊施設と飛行機は

予約済。

自分は年3週間の祈りの旅のために残りの日々を精一杯に生きているかも・・・これも良し!

今回は救急車には乗らないように・・・

 

 

死を克服する人生を

 


「過越の前に、イエスは自分が世を去り、父のもとに帰る時が近づいていることを知り、世にいる自分の者たちを愛して、最後まで愛された」(ヨハネ 13:1)

 


幸福な人は、最後の姿が美しいものでなければなりません。人間は被造物であり、生まれてから死に至るまで、時と空間に厳しく制約されています。この制約は拒否することのできない宿命でもあります。そして、先に経験することも許されず、他人と分かち合うことのできない絶対的な孤独の道でもあります。そのため、そこには密かに反発し、消え去らない恐れが常に潜んでいます。

 


では、信仰の中での死は何なのでしょうか?何よりも、神が定めたことであるため、堂々と受け入れ、克服しなければならない課題です。もちろん、生物学的には死はこの世の最後であり、終わりです。伝道者の書で繰り返される「虚しい」という告白のように、虚無感をもたらす無情な破壊ともなりえます。予想はできますが、正確な予測が許されないため、確かに人間にとってはかけがえのない衝撃的な出来事です。しかし、無視したり回避したりすることはできず、私たちの生活全体に実際に存在するものなのです。意識していなくても、私たちの行動の一つ一つの背後には、常に死が存在し、つきまとっています。

 


人生の最後の関門としての死は、単に否定的に見るべきではありません。積極的に捉えれば、それは生涯を通じて生きてきた成果であり、有限性に囚われていた命が時空の限界を超えて神の無限の命の中に入っていく厳粛な転換点でもあります。死は最後の終着駅ではなく、永遠の命への新たな出発なのです。

 


避けることのできない死であれば、堂々と受け入れるべきです。これが価値ある美しい終結へと向かう道です。聖書の人物たちは、例外なく最後の「美しさ」を示しています。旧約の代表的な例としては、ネボ山の上でカナンの地を最後に見つめ、歴史の舞台から退場するモーセ(申命記34:1-7)や、弟子エリシャに自らの外衣を残し、竜巻に乗って天に上ったエリヤが挙げられます(列王記下2:11)。パウロもまた、永遠の神の国を見つめながら、自己の生涯の働きを美しく整理しました。「私は良い戦いを戦い、走るべき道を終え、信仰を守りました。今、私のために義の冠が用意されており、主である正しい審判者がその日、私に与えてくださるでしょう。そして私だけでなく、主の現れを待っているすべての人にも与えられるのです」(テモテへの手紙第二4:7-8)

 


すべてのことがそうであるように、最後の「美しさ」も準備が必要です。徹底した準備があってこそ、最後を堂々と美しく締めくくることができるのです。厳密に言えば、事前の練習ではなく、これからの最後を今の現実に引き寄せる知恵が必要です。方向を正さなければ、人生の競走で勝利を収めることはできません(コリント人への手紙第一9:26)。私たちの最終目的地は神の国ですが、死という折り返し地点を必ず通過しなければなりません。今日ここで最後を漠然と待つのではなく、最後の視点から今日を正しく見つめることができなければなりません。そのため、葬式に行くことが祝いの席に行くよりも良い理由があります(伝道者の書7:2, 4)。

 


最後の「美しさ」を最も模範的に示したのはイエスです。効率的な弟子の教育のために、なるべく言及を控えられたイエスは、フィリポカイザリアでペテロの信仰告白を聞いた後、態度を一変させ、エルサレムに上がって多くの苦しみを受け、そこで死ぬことを告げました(マタイ16:21)。その最後は、変容山でモーセとエリヤによって再確認されました。「突然、二人がイエスと話しているのが見えました。それはモーセとエリヤであり、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで死ぬことを話していました」(ルカ9:30-31)。「死」という言葉の代わりに使われているギリシャ語「エクソドス」は、「出発」や「去る」という意味で、死の比喩的表現です。この世を去ることは、最後ではなく新たな出発なのです。

 


イエスは自身の死を前もって予告しただけでなく、行動によって最後に備えられました。それは弟子たちを最後まで愛したことで表現され、彼らの足を自ら洗うという形で示されました(ヨハネ13:1-5)。そして、あなたがたが互いに足を洗い合うことが正しいと教えました(ヨハネ13:14)。

 


イエスが自身の死を事前に予告されたように、私たちも最後を恐れず受け入れ、堂々と告白できるようにならなければなりません。漠然とした予測を持つのではなく、死を人生の中心に据え、それを存在の価値の核心として受け入れるべきです。そして、最後に実際に備えをする必要があります。その方法は、近しい人々から真心で愛することです。そのためには、真の「ハーフタイム」の経験が必要です。成果を求めて駆けてきた前半を締めくくり、意味を求める後半戦を始めるのです。

 


私たちは既に実存的な死を通じて肉体の無益を経験しています。キリストと共に十字架にかけられて死んだ私たちは、その高貴なキリストを知ることで、他のすべてを糞のように扱う新しい命の持ち主なのです(ガラテヤ2:20; ピリピ3:8)。神以外のものを相対化すること、それが最後の「美しさ」を大切に育む方法なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

朝の光と共に走る—ランナーの祈り

  週末の達成 イースターの記念すべき週末を駆け抜けました。土曜日はイースター記念マラソンを完走し、日曜日には教会総会を祝うかのようにハーフマラソンを完走。そして月曜日、休むことなく日課の朝ランへ— 25 キロを走り抜けました。この三日間で積み重ねた距離は、私の心と体に新...