打ち上がる花火と雨の24キロ:自分の「静かなリズム」を生きる恵み
今朝もまた、雨のシャワーを浴びながらのランニングとなりました。 仙台市内を通り抜け、卸町から東高校のそばを過ぎ、広瀬橋を渡って帰宅する道のり。距離にして24キロの完走です。昨日の朝、43キロというフルマラソン以上の距離を走ったばかりでしたから、身体がどれほど重く感じるだろうかと思っていました。しかし、拍子抜けするほど「しんどい」という感覚はなく、雨音のリズムと自分の足音が心地よく調和していました。
今日も無事に走ることができた。そのことへの静かな感謝が、雨の冷たさの中で温かく胸に広がっていきました。
45万人の熱気と、眠りにつく私
今週、仙台では西公園を舞台にした大きな花火大会が予定されています。 昨年は45万人もの人々が集まったという、街が一年で最も熱気を帯びる夜です。娘も、友だちと一緒に浴衣を着て見に行くのだと嬉しそうに話していました。色鮮やかな浴衣に身を包み、夜空に咲く大輪の光を見上げる。それは間違いなく、美しい青春の1ページでしょう。
一方で、私自身はその花火大会とは全く「無関係」です。 花火が打ち上がり、歓声が響き渡るその時間は、私がすでに深い眠りにつく時間だからです。世間がどれほど盛り上がり、45万人が光に魅了されていようとも、私は自分の静かなリズムを崩すことなく、ただ目を閉じて休息の時を過ごします。
- 光と歓声の真ん中にいる娘。
- 静寂と暗闇の中で眠る私。
この鮮やかな対比の中に、私は「生きるペース」ということの深い意味を教えられる気がします。
「祭りの後」の静けさに響く声
私たちは往々にして、人生の「花火」のような華やかな出来事、熱狂、大勢の人が集まる中心にこそ、本当の喜びや価値があると思い込んでしまいます。そこから外れること、取り残されることに恐れを感じ、無理をしてでも世間のリズムに自分を合わせようとして息切れてしまうことがあります。
しかし、神様が私たちに語りかけるのは、必ずしも熱狂の渦中ではないのです。
旧約聖書に、預言者エリヤが神様と出会う場面があります。 強烈な風、大地を揺るがす地震、そして燃え盛る火。エリヤは次々と起こる劇的な現象の中に神様を探しますが、そこに神様はおられませんでした。それらの激しい現象がすべて通り過ぎた後、最後に聞こえてきた「静かにささやく声」(列王記上 19:12)の中にこそ、神様の真の臨在があったのです。花火大会の前日、そして大勢の人々が去った翌朝の早朝。私は誰もいない西公園の前を走ることになるでしょう。
祭りの後の静まり返った公園、散乱した熱狂の跡を横目に、ただ一定のペースで呼吸を繰り返し、アスファルトを踏みしめる。そこにある「静けさ」の中にこそ、私が聞き取るべき神様の声があり、命の確かな手応えがあるのです。
自分の歩幅で、今日を生きる
43キロを走った翌日でも、雨の中で24キロを走り抜くことができる。 それは、派手な花火のような瞬発力ではなく、誰に見られなくても、雨の日でも晴れの日でも、ただ淡々と「自分のリズム」を守り続けてきたからこそ得られる静かなる力です。
あなたは今、世間の騒がしさや、誰かの華やかな人生と自分を比べて、焦りや疲れを感じてはいないでしょうか。 無理に45万人の熱狂の中に身を置く必要はありません。あなたにはあなたの、神様から与えられた美しいリズムと歩幅があります。
夜になれば静かに眠り、朝が来れば自分の道を歩き出す。 その透明で誠実な日常の繰り返しの中にこそ、かけがえのない恵みが隠されています。今日も、自分に与えられた静かなリズムを大切に、一歩を踏み出していきましょう。
今日も、共に前進です。
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