2024年1月27日土曜日

本当に平和が訪れる方法


 

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。(ローマ書7:24

 


戦争する国のためにそれぞれの側に立って応援し、支援する国々、まるでゲームのようだ。

人が死んでいくのに・・・・・・

 


被災者と詐欺師・・・・・苦しみと悲しみの中にいる被災者がいる。そういう状況の中で詐欺師が被災者のお金をだまし取る。獣の以下だ。不条理な世界である。

 


金と政治の問題が浮き彫りになっている。昨日や今日の話ではないけど・・・・なぜこの時期に?訳があるだろう。

 


事故や事件は止まず毎日のように話題のニュースは生まれてくる。ニュースのない日は来ないだろう。仮に新しいニュースがないとしても、おそらく人々の関心を引くためにわざと事故や事件を引き起こし新しいニュースを作るだろう。人間だからだ。

 


この世界が本当に平和になるためには一つの方法がある。必ず平和が訪れる方法である。

この地球上から人間が消え去ることだ。自分を含めて・・・・すると本当に平和になる。

 


だから自分をなくして生きることである。利己的な欲をなくし、自己主張を少なくし、

自分の利益を少なく求め、社会と皆の利益を多く求める。少しは我慢して相手に配慮する。

そして生きる。

 

2024年1月25日木曜日

今日も前進

 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書40:31)


時々飛ぶ練習を行い、長い旅に備えているようです。自分たちが帰るべき時が訪れることを知っているからです。キリスト者も同じです。必ずこの世を離れるときが訪れることを覚えて生きることが大事です。天の御国へと飛び立つ時が訪れるからです。


まだ誰も踏んでない階段を一番先に踏んで上るのが好きで、誰よりも早く上りました。

そして

今日も

前進!!!



2024年1月19日金曜日

平和を求める

 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」(ルカ12章)

 

これは美しい白鳥の踊りではありません。実は縄張り争いであるのです。普段は平和に見える風景ですが、その中には人間世界と同じく争いや闘いがあるのです。

争いや闘いが続く限り平和は来ないのです。憎しみと妬みがあるところに平和は居られないのです。悔い改めと赦しと寛容と愛があるところに真の平和の花が咲くのです。そしてそれを可能にするのはイエス・キリストへの信仰であります。

動物世界では強者が弱者を追い出しますが、ある意味、闘わずに逃げるのが賢い判断かも知れません。相手が強いから逃げるのではありません。自分のために闘わずその場を立ち去るのです。それが賢い人であるのです。時には感情の虜にならず、冷静になって闘いを避ける知恵が必要です。





私たちは平和な家庭を望みます。私たちは平和な社会を望みます。平和な国を望みます。平和な世界を望みます。しかし、現実は争いと闘い、不和であるのです。それが神様に逆らった人間の罪による結果であると聖書は教えています。平和の主として来られたイエス・キリストなしの平和を求める以上、真の平和は訪れないのです。そのイエス・キリストの内に真の平和があるのです。イエス・キリストを心に迎える人には平和の花が咲きます。

2024年1月15日月曜日

仕方ない人生

 


戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」・・・・・・・はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイによる福音書24章)

 


この地球上で戦争のなかった時代はあっただろうか?戦いがなかった時はあっただろうか?戦争と争いは止まず、人を殺す行為は止むことなく続いている。繰り返している戦いの中で人はそれでも生きている。先日、ガザで結婚式を挙げた家族が話題になった。戦場の最中で結婚式?しかし彼らは言う。どんな場合でも与えられた命はつないでいくことが大事である、と。生きることである。

 


人類の歴史はこの戦い抜きにしては語ることができないほど数多い戦争と戦いで飾られている。しかし、その中でも人々は生きて来た。厳しい生死の状況を貫いて生き残り、生命をつないだのである。だから生きることである。生きるならば精一杯に生きることである。精一杯に生きるならば意味のある人生を送るべきである。無意味な人生を精一杯に生きる必要はない。だから、生き甲斐のある人生を送ることである。自分の人生を誰かが代わりに生きることはできない。仮に親でもできない。自分の人生は自分で生きるしかない。だから自分の人生を人のせいにしてはいけないのである。自分の人生は自分で生きるべし。

 


今日のランニングコースは少し変えて新しいコースを見つけた。これまで教会から太白小学校を通り、太白山第二橋まで走って折り返して走ってきたけど、その第二橋を渡ってそのまま太白山の方へ続く道を発見。今日はそのまま山道を走って行った。急な坂道だったけど気持ちは最高だった。つながる道を走ると太白山登山の入り口の駐車場に出たのである。山頂までは時間の関係で行けなかったけど今度走って行くことにした。今日は風が強かった。今日のランニングは25キロ。

 


帰宅して一休み。それからまた仙台朝市へ。大年寺山公園から愛宕神社ルートで朝市へ。買い物して重くなった荷物を背負って帰宅。なぜこんなにハードな生き方をしているのか?自分でもわからない。おそらく死なないかぎりこういう生活は終わらないでしょう。だから年一度のサンティアゴ祈りの旅は自分にとって自由と心がリラックスできるひと時である。今年もサンティアゴ祈りの旅は続く。しかし今日は本当に疲れた。家族はこういう自分を見て笑っているけど・・・・とにかく今日も最後まで生きよう!

 

2024年1月9日火曜日

シンプルに生きる

 


人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかし、あなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。(テモテへの手紙二4章)

 


多くの場合、いいえ、ほとんどの人は自分を批判し、非難するのに喜ぶ人はいない。仮にそれが客観的に見て確かであったとしても嫌な気分になるのが人間である。なぜだろうか?なぜ正しいことを言われたのに人は不愉快な気持ちになるのだろうか?それは自分でも分かっていることを人に言われたからである。そして自分自身もそれは嫌であることが分かっているために人に言われて余計に腹が立つ、という現象が起こるのである。だから人は自分を褒めてくれる人、自分の弱点を取り上げず、いつも良い事ばかり言ってくれる人々に親しみを感じ、そういう人を好むのである。しかしそういう人々の間にだけいると成長することも、成熟することもできず、弱点はなおらず、ますます悪くなるだけである。人が成長するためには苦痛の道も通らなければならない。批判の道も、非難する道も通らなければならない。様々な道を通り、あらゆる道を経験して始めて自分の道が分かるようになる。

 

結局、批判の声、非難の声に影響を受けない強いメンタルがカギとなる。そして反対の意見も心を広くして聞いてあげる心、まるでスポンジのような、あらゆる意見をすべて吸収できる心が必要である。スポンジは棘まで吸収できるが、決して自分は傷を負わない。そういうスポンジの心が必要である。そういう心を持つことは出来る。自分は出来ないと思う人は出来ないし、出来ると思う人は持つことができる。ただそれだけのことである。物事をあんまり複雑に、深刻に、否定的に受け止めず、出来るかも知れないと考えれば良い。時にはシンプルな思考が必要な時もある。今がそれが必要な時である。今日もシンプルに生きよう。

 

2024年1月7日日曜日

達者になる

 


「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20:3)

 

この国では約800万の神々を拝んでいると言う。人々が神々を拝む主な理由は自分の有益の為である。つまり、自分のためにならない神々は要らないと言う。だからひとりの神よりは多くの神々を拝んでいる。数が多ければその分、自分の利益になるからだと考える。この神々は日常でもよく使われている。

人の驚く行動を見て人々はまさに神業であると言う。また人を神様と呼ぶこともある。神対応のような表現も多く使われている。そのために真の神がいる場がなくなったのである。実は、人々は真の神には関心がない。ただ自分たちの生活の中で生き甲斐を感じるような神々を求めているのである。こういう世界の中では800万の神々も少ないかも知れない。それで良かろう!?!結果は死んだ後に知れは良い!!

でも自分はそういう人々のためにも祈らなければならない使命がある。自分がここにいる理由である。

 


しかし人の人生に突っ込む暇はない。ただ自分には正しいことは正しく語る責任がある。主なる神様を賛美し、栄光を語り、礼拝して生きること、それが人間が造られた目的である、という事実を。

 今日も暗闇を一人で走りぬく。だから日曜日は朝から疲れる!!!でも無事にすべてが終わり感謝。

夕食はローストチキンを作った!!!でも自分は食べない。自分が作った物をその場で食べたことはまれである。いつも麺など別なものを食べてキッチンを離れる。そして翌朝、残っていたら食べることがある。これも習慣である。これも良し!!!

 

人が疲れる主な理由は自分にある。家族や相手ではない。様々な状況をどう受け止めるかによって重荷となり、躓きとなり、反対に力となり、生き甲斐を感じることにもなり、エネルギーとなるのである。それを決めるのは自分である。ならば自分にプラスになる受け止め方で相手の言葉と行動を吸収すれば良い。決して感情に任せないこと。すぐに反応を表さないこと。争いになろうとするその場を直ちに離れて10秒間深呼吸をしてもう一度考えること。すると、必ず冷静になり、自分に良い方法が見つかるはず。

これらのことを繰り返している内にいつの間にか自分は達者になる。だから負けずに生きよう!!!

2024年1月6日土曜日

格好良く生きよう

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。(テモテへの手紙二3:16

 


正しい者は七たび倒れても、また起きあがる、しかし、悪しき者は災によって滅びる。(箴言24:16

 

現代社会において人の人生を定義する言葉がある。成功と失敗。成功した人生と失敗した人生である。

けれども問題は、その基準が曖昧であるとのこと。なぜなら人によって成功と失敗の基準が異なるからだ。人々が考えている主な基準は財産、社会的な身分、社会に対する影響力、健康、長寿、家族・・・・

これらの曖昧な基準が人の人生を評価するために使われている自体が大きな問題だが、もっと大きな問題はこれらの曖昧な基準を人々が受け入れて生きていることである。これらの間違った基準と現象は

これからも続くだろう。目覚めよう!!!違うと言う人が多ければ多くほどこの社会は良くなるはず。

 


 朝、目が覚めて与えられた今日の人生を生きる。人々のために祈って、聖書を読んで、食べて、歩いて、買物をして、料理をして、掃除をして、犬の散歩をし、短くても家族との会話があり、本を読み、説教準備をし、再び食べて、おやつも食べて生きている。特別なことは何一つない。しかしこれが人生である。これが生きることである。これらのことは自分が死ぬまで続ける日課である。自分の人生を自分が生きているのに誰が文句を言うだろうか?今の環境の中で自分の人生を精一杯に生きることが大事である。これ以上、欲張ることもなければ、欲しい物も事もない。今に感謝して生きることである。

 

 時には失敗しても良かろう。再び立ち上がればよい。命がある限り、人は希望を持つことが出来る。そして挑戦することが出来る。苦しみも受け止めよう。その内、強くなるからだ。泣いても良い、笑える時が必ず訪れるからだ。傷は必ず治るからだ。治るまでの時間も我慢し、忍耐しよう。もっと強くなるからだ。そしてそれらの経験を生かして周りで苦しみ、泣いている人々を助けよう。それで幸せが訪れる。これらのことは生きているからこそ体験できる大事なことである。生きることだ。生きることだけを考えよう。死は考えなくてもいつか必ず訪れるからだ。しかし生きることは考えなければならない。正しく生きることが出来ない。どうせ生きるならば格好よく(?)生きることにしよう。嘘をつかず、周りの人々を傷つけず、迷惑もかけず、不義を憎み、正義を愛し、親切にし、時には人々を助けて生きることが格好良く生きることである。生きよう!!! 

2024年1月4日木曜日

自分だけの羽を見つける

 


あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書4028-31節)

 この時期になると普段より走っている人々の姿が多く見える。そして時間が経つと次第にその姿は少なくなる。毎年、繰り返される現象である。人は自分が出来ないことを他人に期待する場合がある。また、その成功した姿を通して自己満足が得られるケースもある。それで人々はスポーツに熱狂し、アイドルに熱狂し、様々な分野において王座につく人々に憧れ、時にはそれを自分に入れ替えて王座についている自分を想像しながら一瞬の満足感を得るのです。問題はその世界から抜け出すことが出来ずいつも空想の世界で生きていることである。現実から離れた空想の世界が自分の人生の一部になって生きている人々である。その結果、変わらない惨めな自分自身だけが残り、時は過ぎ去ってしまう。目覚めよう!!!

 

 多様性の世界の中で生きている人々は他人の個性を大事にして生きるべきである。また

人間にとって絶対的なことはあり得ない。それは神様に対してのみ使うことができるのである。なぜなら人間は絶対的な存在ではなく、必ず何かに欠けている存在であるからである。これを知って生きることが重要である。しかし人々はそれを認めない。受け入れない。自分は絶対大丈夫だと考え込んで生きている。間違ったのは相手であり、自分は正しいと考える。皆がこういう考えの下で生きているために話が通じない。皆一方通行の人生を生きている。だからぶつかるのである。目覚めよう!!!

 



 

今日も広瀬川沿いを歩いた。一羽のハクチョウの姿を観察する。周りに他のハクチョウはいない。ひとりで過ごしていた。寂しくないかと勝手に思っていた瞬間、そのハクチョウは大きな羽を伸ばして飛び上がり、空を自由に飛んで行ったのである。僕にはこの羽があるんだよ!と言われた気がした。いつでも自由に空を飛べる羽はまさに真の力である。私たちにも必要な力である。我々にもいざという時に自由に飛べる羽が必要である。その力を養い、育て、大事にしながら生き苦しくなったときに自由に飛んで行ける羽を持つべきである。

それは自分だけの羽である。それを見つけて日頃は養い育てていざという時に使うことである。まず自分の羽を見つけよう!!!

 

 今日も料理。チキンステーキを作った。そしてケーキも焼いた。新年になっても変わらない日課である。感謝。

 

2024年1月1日月曜日

2024年スタート

わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。

 


昨夜23時過ぎにまず祈りの後、外の2024年間聖句の張り替え、ノアちゃんとの散歩、202312312359分頃ノアちゃんの一枚の写真。それから20241101分頃再び2024年間聖句の前で再び1枚の記念写真を撮って帰宅。仕事をしてひと休み。

 


6時ごろ散歩。大年寺山公園に大勢の人が日の出を見るために集まっていた。自分も一枚。

それから初詣に行く人込みを避けて愛宕神社横道を通って広瀬川沿いを歩く。平和で静かな冬の景色だ。こうして2024年が始まった。

 


年一度、多くの人が願い事をするときである。しかし大事なのは願い事が叶えられるように生きることである。けれども願い事が宝くじのようになることが多い。つまり、自分からは何もしない。ただ自然に、自動的に成し遂げられることを期待する。だからほとんどの願い事が外れるのである。願い事は、その生き方と一緒になって動くときに始めて願い事が実現するための一方を踏み出すことになる。

2024年は健康でありますように、ならば運動して、食べ物も注意して食べながら生きるべきである。○○大学に入れますように、ならば一生懸命に勉強に励むことである。商売繫盛を願うならば、そのためのマーケティングを始めてリサーチなどの研究が必要である。つまり、自分が願っている事柄の10倍以上に努力していく必要がある。それが伴う時に願い事は、ただの宝くじではなく、現実として自分のところにやって来るのである。常に考えながら生きることが重要である。精一杯に生きることである。なぜならたった一度しかない人生であるからである。命は一つだけである。 



シャワーラン

  あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。(マルコ 13 : 37 )   今日は雨の中を走り続けた。シャワーラン。 22 キロ完走。 雨にぬれてもまだ気持ち良い時期である。 これが一気に寒く感じるようになる。 それを常に意識...