一秒の交差点 ―― 33キロの路上で考えた「時」のゆくえ
33キロ、祈りのリズムを刻んで
今朝は、冷たい空気を切り裂くように33キロの距離を走り抜けました。 足裏が地面を叩く一定のリズムは、次第に深い瞑想のような、あるいは神様との静かな対話のような時間へと変わっていきます。コースの途中、娘のイレーネが看護実習に励んでいる西多賀病院の周りを一回りしました。
「今日の実習が、娘と友たちにとって、そして患者さんにとって恵み豊かなものとなりますように」。 そう祈りながら走る私の影が、朝の光に長く伸びていきました。
「あの時、もし……」という問いの重さ
走りながら、ふと考えていたことがあります。それは**「人生のタイミング」**という、目に見えない不思議な糸のことです。私たちは時に、やり場のない後悔に襲われることがあります。 「あのバスに乗らなければ、事故に遭わなかったのに」
「あと一分早く家を出ていれば、あの日、あの人に会えたのに」 悲劇的なニュースの裏側にも、あるいは幸運な巡り合わせの影にも、常に「時間」という残酷で、かつ神秘的な要素が絡みついています。
この世で起こる出来事は、ただの偶然の積み重ねなのでしょうか。それとも、逃れられない「運命」という冷たい決まりごとなのでしょうか。私たちは、自分の力ではどうにもできない「一秒の差」に、しばしば立ち尽くしてしまいます。
「時に適って」という、大いなる手のひら
聖書の中には、こうした私たちの葛藤に一つの光を投げかける言葉があります。
「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」 (コヘレトの言葉 3章1節)これは、単なる運命論ではありません。 私たちが自分の手で人生を100%コントロールしようと必死になり、「効率」や「予測」という枠に自分を閉じ込めてしまうとき、私たちは苦しくなります。しかし、私たちの理解を遥かに超えたところで、神様が「最も良い時」を編み上げてくださっていると信じるとき、私たちの心には不思議な余白が生まれます。33キロという長い距離を走るなかで、私の呼吸も、心臓の鼓動も、一歩一歩の着地も、すべてが緻密なタイミングで繋がっています。もしその中の一つでも欠ければ、完走することはできません。私たちの人生も同じではないでしょうか。たとえ今、自分の身に起きていることの「理由」が見えなくても、それは神様の広大な譜面の中に書き込まれた、大切な一音であるはずなのです。
明日への一歩:委ねることで見えてくる道
すべてに理由があるかどうか、今の私たちには分かりません。 けれど、今日こうして命が与えられ、33キロを走りきることができたという事実の中に、私は神様の確かな慈しみを見出します。
「あの時」を悔やむのではなく、今のこの瞬間を「与えられた時」として受け入れること。 自分の計算を一度手放して、天の父なる神様のリズムに身を委ねてみること。
そうすることで、私たちは「もし……だったら」という過去の鎖から解き放たれ、今という「新しい道」を走り出すことができるのです。足は少し重いかもしれません。けれど、心は不思議と軽やかです。
あなたの人生のタイミングも、決して間違いではありません。
今日も、前進です。

