2026年2月25日水曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第8日

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第8日:裏切りと沈黙 ―― 独り残された主の眼差し

 1. 聖書の場面:散りゆく弟子たち

「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去った。」(マルコによる福音書 1450節)

ゲツセマネの祈りの直後、松明と武器を持った群衆が押し寄せます。接吻をもって主を裏切ったユダ、そして剣を抜いて抵抗しようとしたものの、主の制止にあって狼狽した弟子たち。ほんの数時間前まで「たとえ死ぬことになっても、あなたを見捨てません」と誓い合っていた彼らは、恐怖に飲み込まれ、闇の中へと散っていきました。主イエスは、この地上で最も信頼していた友人たちから、たった一人で暗闇の中に取り残されたのです。

 


2. 心の揺らぎ:信頼が崩れるとき

現代を生きる私たちにとって、最大の痛みは「裏切り」かもしれません。 信じていた仲間が離れていく。誠実に尽くした相手から背を向けられる。あるいは、教会の存続や伝道に必死に取り組んでいる中で、自分一人だけが空回りしているような、冷たい孤独を感じる夜。

「なぜ、自分だけがこんな目に」という怒りと、何も答えてくださらないかのような「神の沈黙」が、私たちの心を凍えさせます。

 


3. 核心:沈黙の中に響く愛

しかし、主イエスはこの孤独をあえて受け入れられました。 逃げ去る弟子たちを追いかけることも、呪うこともされませんでした。なぜなら、主は彼らの「弱さ」をあらかじめ知っておられ、その弱さのすべてを背負って十字架へ向かうことこそが、彼らを本当の意味で救う道だと知っておられたからです。神様の「沈黙」は、冷淡さではなく、私たちの想像を超えた「深い愛」の現れであることがあります。言葉にならないほどの痛みの時、主は雄弁な説得ではなく、静かな沈黙をもって、私たちの傍らに立ち続けてくださいます。


 


現代人へのメッセージ

2026年の今日、あなたがもし「誰にも分かってもらえない孤独」の中にいるなら、思い出してください。 主イエスは、弟子たちが逃げ去ったあの暗闇の中で、あなたを見つけるために独り残られました。「見捨てられた」と感じるその場所は、実は「主と二人きりになれる」最も聖なる場所でもあります。 多くの声や情報が溢れる現代だからこそ、あえて主と共に「沈黙」の中に身を置いてみませんか。あなたが主を見捨てることがあっても、主があなたを見捨てることは決してありません。 その揺るぎない事実に翼を休めるとき、私たちは再び、静かな勇気を持って立ち上がることができます。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

2026年2月24日火曜日

不足は「信仰」を育てる最高のサプリメント

 


不足は「信仰」を育てる最高のサプリメント

私たちは日々、「時間が足りない」「お金が足りない」「忍耐が足りない」―― そんな「足りない」という言葉に囲まれて生きています。 けれど、信仰の世界では、この「不足」こそが宝物なのです。ある人がこう言いました。 「神様を信頼するためには、いくらかの困難が必要だ」と。

確かに、すべてが順調で、自分の力が満ちているとき、 私たちはつい、神様を思い出すことを忘れてしまいがちです。 でも、心も体も限界を感じ、自分の「器」が空っぽになったとき、 私たちは初めて、全能の神を見上げるようになります。

「足りない」と感じるその部分こそ、 神様が私たちの信仰と従順を育てるために、あえて残してくださった余白なのかもしれません。

この「余白」を、恵みとして受け止めるか、 あるいは物足りなさとして不満に変えてしまうか―― その選択は、私たち自身に委ねられています。 けれど、その受け止め方ひとつで、人生の質は大きく変わっていくのです。

今日は娘が新しい病院での実習初日。 来週までの期間、たくさんのことを学び、気づき、 そして誰かのために働く喜びを見つけてくれたらと、祈り続けています。

教会では昨日と今日、教区の音楽研修会が開かれ、 オルガンレッスンの会場として用いられました。 音が響くたびに、礼拝堂が少しずつ温まっていくようでした。

ノアちゃんの夕食も終わり、そろそろおやすみの時間。 でも、まだ家族の帰宅を待っているようで、 きっと玄関の音に一番に反応して、しっぽを振って迎えてくれることでしょう。 その姿に、家族の温もりを感じます。

ある教会員の方が、「誰もいない家に帰るのは寂しい」と話してくれました。 一人暮らしの孤独は、時に心を冷たくします。 だからこそ、その一人ひとりに寄り添い、共に歩む群れでありたいと願っています。 また、手紙を書こうと思っています。言葉が、誰かの心にそっと寄り添えますように。今日は22キロを走りました。 明日は大年寺の階段トレーニングと、ゆっくりとした散歩の予定です。 走ることも、祈ることも、暮らしの一部。 与えられた一日をどう生きるかは、自分自身の選びにかかっています。

環境や状況のせいにせず、 「今日、自分はどう生きるか」を自分で決めていく。 それが、信仰の歩みでもあるのだと思います。

今日も、最後まで精一杯に生きることです。 主のために、人々のために。 そして、信仰という見えない力を、心の深くに育てながら。

【灯をともす:四旬節の旅路】第7日

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第7日:孤独な祈り ―― ゲツセマネの「汗」と私たちの「涙」

2026224日、火曜日の朝を迎えました。 週100キロを走るランナーが、レース直前の夜、静かな部屋で自分の心臓の音だけを聞くように、主イエスもまた、十字架という究極のゴールを前に、一人で「孤独」と向き合われました。

今日の黙想は、主の人間としての苦悩が凝縮された、ゲツセマネの祈りの物語です。


1. 聖書の場面:血のような汗を流して

「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(ルカによる福音書 2244節)

エルサレムの夜。主は弟子たちを連れてオリーブ山のふもと、ゲツセマネの園へ向かわれました。これから自分に降りかかる「全人類の罪を背負う」という、死よりも恐ろしい苦杯を前に、主は地面にひれ伏して祈られました。

「父よ、御心ならば、この杯をわたしから去らせてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。

この時、主は神の子としての威厳を脱ぎ捨て、一人の人間として「怖い、苦しい、逃げたい」という本音を、血のような汗を流しながら神様にぶつけられました。主は、私たちの絶望の深さを、誰よりも知っておられるのです。

2. 心の揺らぎ:誰にも分かってもらえない「夜」

現代を生きる私たちは、人前では「大丈夫です」「順調です」という顔をしています。しかし、夜、一人になった時、心の奥底でゲツセマネのような暗闇を抱えていることはないでしょうか。

仕事の重圧、病への不安、家族との亀裂……。「助けて」と言いたいけれど、隣で寝ているはずの弟子たち(友人や家族)は、自分の苦しみの本当の深さを理解できずに眠っている。そんな「孤独な夜」を、私たちは何度も経験します。

3. 核心:沈黙の神を、なおも「父」と呼ぶこと

この物語の教訓は、主がその苦しみの中で**「祈り続けた」**ことにあります。 主は、神様からの即座の回答や解決を求めたのではありません。ただ、ありのままの自分を神様という大きな懐に投げ出し、「御心のままに」と、自らの意志を神様のリズムに合わせていかれました。

祈りとは、状況を変えるための呪文ではなく、**「神様との繋がりを再確認する作業」**です。主が孤独の中で祈り抜かれたからこそ、私たちはもはや、どんなに深い夜でも「独りではない」と言えるのです。



現代人へのメッセージ

今日、もしあなたが「自分だけがこんなに苦しんでいる」という孤独の中にいるなら、思い出してください。 今から二千年前の夜、あなたのために、血のような汗を流して祈ってくださった方がいます。

あなたの流す涙、誰にも言えない溜息、それらすべてを主はゲツセマネで先取りされました。 今日一日の歩みの中で、もし心が折れそうになったら、短くこう呟いてみてください。 「主よ、わたしのゲツセマネに、共にいてください」と。

主はあなたの隣で、あなたの震える手を握り、静かに頷いてくださいます。その平安こそが、私たちが今日を完走するための、何よりの力となります。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。


今夜、あなたが神様の前に「これだけは去らせてください」と正直に言いたいことはありますか? その苦しみを、言葉にして私に預けてみてください。共に主の前に置かせていただきます。

2026年2月23日月曜日

朝ラン32キロの中で

 


本当の「強い国」の定義:経済的肥大ではなく、精神的成熟を誇る国

「強い国」とは、GDPのグラフが右肩上がりである国ではなく、**「暗闇の中でも、一人ひとりが自律した灯火として立ち続けられる国」**であると定義します。

1. 精神的インフラ:不義に対する「免疫力」

どれほど強固な堤防を築いても、内側から汚職や不誠実というシロアリに食われれば、国は脆く崩れ去ります。

  • 必要なもの: 損得勘定ではなく「正義」を貫く勇気です。不義が行われた際、それを「世渡り」として見過ごすのではなく、静かに、しかし毅然と「否」と言える国民の質こそが、最強の防衛力となります。

2. 価値の物差し:人格という「真の資産」

経済力で人を評価する国は、不況が来た瞬間に人間を「廃棄物」として扱います。

  • 必要なもの: 肩書きや年収という「外装」ではなく、その人の誠実さや忍耐といった「人格」を最も尊ぶ価値観です。弱者を切り捨てるのではなく、その弱さの中にこそ神聖な価値を見出す文化がある国は、いかなる時代の荒波にも動じません。

3. 善悪の審美眼:情報の海で「真実」を見抜く力

マンモン主義は、嘘を「マーケティング」という言葉ですり替え、悪を「効率」という言葉で正当化します。

  • 必要なもの: 流行や扇動に流されず、普遍的な「善」と「悪」を区別できる審美眼です。これは教育、あるいは「御言葉(ロゴス)」に根ざした深い洞察力からしか生まれません。

4. 永遠への接続:死を越えた「希望の保持」

「今、ここ、自分だけ」の幸福を追求する国は、未来を食い潰します。

  • 必要なもの: 永遠の命という視点、つまり「自分の生涯を超えて続く価値」に接続している国民の姿です。死の準備をし、生と死を神様の掌(てのひら)の中で捉える人々が多い国は、刹那的な欲望に溺れることなく、次世代のために尊い犠牲を払うことができます。

結論:強い国とは「神様を畏れる一人」の集積である

一国の強さとは、結局のところ、**「誰も見ていない場所で、自分を律して正しく歩める人が何人いるか」**という数に比例します。経済という「パン」は必要ですが、人はそれだけで生きるものではありません。不義が定着しにくい国を作るのは、法律の数ではなく、国民一人ひとりの心の中に刻まれた「良心」という神の法です。

「義は国を高め、罪は民の恥となる。」(箴言 14:34

この聖書の言葉こそが、富の支配を超える「真の強国」への唯一のロードマップではないでしょうか。今朝はこういうことを考えながら32キロを走りました。

【灯をともす:四旬節の旅路】第6日

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第6日:重荷を負う ―― 共に歩まれる「疲れた主」の姿

2026223日、月曜日の朝を迎えました。 週の始まり、私たちの肩には仕事の責任や家庭の雑務、そして人間関係のしがらみといった、重い「リュックサック」がのしかかっているかもしれません。今日の黙想は、主が私たちの弱さをその身に引き受けられた、静かなる愛の物語です。

 


私たちの病を負い、痛みを担う

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。……彼が懲らしめを受けたことで、私たちに平安が与えられ、彼の打ち傷によって、私たちは癒やされた。」(イザヤ書 534-5節)

四旬節の旅路において、イエス様が十字架に向かって歩まれた一歩一歩は、そのまま「私たちの苦しみを自分の中に吸い込んでいく歩み」でもありました。 主は、ただ「神の子」として颯爽と歩まれたのではありません。私たちの流す涙、誰にも言えない後悔、そして「もう歩けない」と座り込むほどの肉体的な疲労までも、ご自分のこととして引き受けられたのです。

 


「独りで背負わなければならない」という呪縛

現代を生きる私たちは、「自分の責任は自分で取るべきだ」「弱音を吐くのは甘えだ」という強いプレッシャーの中にいます。 週100キロを走るランナーが、どれほど足が痛くてもゴールを目指すように、私たちは心に「炎症」を抱えながらも、平気な顔をして走り続けていないでしょうか。

「助けて」と言えない孤独。自分の弱さを見せたら、今の場所を追われるのではないかという恐怖。その重圧が、私たちの呼吸を浅くし、魂を不協和音の中に閉じ込めてしまいます。

 


主が「身代わり」になられた理由

キリスト教の教訓は、驚くべき「交換」にあります。 主が十字架の苦しみ(懲らしめ)を引き受けられたのは、私たちが「平安」を受け取るためでした。 主が疲労困憊して倒れられたのは、私たちが「癒やし」の中で再び立ち上がるためです。

私たちが自分の弱さを隠す必要がないのは、主がすでにその弱さを、最も無様な姿で十字架の上にさらけ出してくださったからです。神様の前では、私たちは「強い人」である必要はありません。ただ、「主よ、重いです」と告白するだけで良いのです。


祝日の月曜日。 少しゆっくり起きて、いつもより静かな朝を迎えている方も多いかもしれません。 でも、心のどこかで「また一週間が始まる」と、ため息をついているあなたへ。

主は今日も、あなたの隣を歩いておられます。 しかも、あなたが抱えている「重荷」と同じものを、共に担いながら。仕事で感じる理不尽さ、 家族のために尽くしても報われないように思える日々、 誰にも言えない疲れや孤独── 主はそれらすべてを見ておられ、 「わたしが知っている。わたしが共に担っている」と、 静かに語りかけてくださっています。

今日は祝日。 だからこそ、少し立ち止まって、深く息を吐いてみませんか? そして、自分の中にある「全部自分で頑張らなきゃ」という思いを、 ほんの少しだけ、主に預けてみてください。

主の打ち傷は、あなたの心の痛みを知っています。 そしてその傷が、あなたの疲れを癒やしへと変える力を持っているのです。今日も、あなたは生きている。 それだけで、すでに大きな恵みです。

主のために、人々のために、 そしてあなた自身のために── 今日という一日を、感謝とともに歩んでいきましょう。

#祝日の朝に #主と共に #癒やしの一日を


今朝、あなたの肩に食い込んでいる「一番重いもの」は何ですか? それを、少しだけ言葉にして主に伝えてみましょう。もしよろしければ、私がその祈りの言葉を整えるお手伝いをいたします。

2026年2月22日日曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第5日

 

今日も無事に散歩を終え、自分の足で階段を上って行きました。この姿に感謝するひと時です。


【灯をともす:四旬節の旅路】第5日:盲人の叫び ―― 「何をしてほしいのか」という問い

2026222日、四旬節の第一日曜日を迎えました。 主イエスがエルサレムでの十字架へ向かって一歩ずつ進まれる道中、その足を引き止める切実な叫びがありました。

今日の黙想は、エリコの道端に座っていた盲人の物語です。


群衆の制止を越える叫び

イエスは立ち止まって、彼を呼んで来させるように命じられた。……イエスが「わたしに何をしてほしいのか」と言われると、盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 (マルコによる福音書 1049-51節)

主が十字架という人類最大の重荷を背負うために歩まれていたその時、道端で物乞いをしていたバルティマイという盲人が叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」。

周りの人々は「うるさい、邪魔だ」と彼を叱りつけました。しかし、主は立ち止まりました。そして、彼に最も本質的な問いを投げかけられたのです。「わたしに何をしてほしいのか」。

 

私たちは「何」を求めているのか

現代を生きる私たちは、バルティマイのように「叫び」を抱えています。しかし、その叫びの正体が自分でも分からなくなっていることはないでしょうか。

私たちは日々、情報の波に揉まれ、他人の基準で自分を裁き、「もっと成功したい」「もっと人から認められたい」という声を上げています。しかし、もし主が今、あなたの前に立ち止まり、「わたしに何をしてほしいのか」と問われたら、あなたは何と答えるでしょうか。

私たちは案外、自分の「本当の渇き」に無頓着です。表面的な不満や欲望の陰に隠れた、魂の根源的な「癒やし」や「光」を求めることを、諦めてしまってはいないでしょうか。

 

自分の弱さを「言葉」にする勇気

この物語の教訓は、**「主は、私たちの必死な叫びを決して聞き逃さない」**ということです。 バルティマイは、周囲の冷たい視線や制止を恐れず、自分の「見えない」という弱さをさらけ出し、叫び続けました。そして、主の問いに対して一点の曇りもなく「見えるようになりたい」と答えました。信仰とは、立派な言葉を並べることではありません。自分の内側にある暗闇や欠乏を、正直に主の前に差し出すことです。そのとき、主の十字架の光が、私たちの閉ざされた目を開き、新しい歩み(キリストに従う道)を照らし始めます。


現代人へのメッセージ

100キロ以上(先週は110キロ)を走るランナーが、体の小さな違和感を見逃さず、マッサージや休息でメンテナンスをするように、私たちの魂もまた、内なる叫びを無視してはいけません。

SNSの通知や日々のタスクに追われ、自分の心の声が「群衆の制止」にかき消されていませんか? この四旬節の日曜日、少しだけスマートフォンを置き、静かな場所で主と向き合ってみてください。主はあなたのために立ち止まっておられます。そして、優しく問うておられます。 「(あなたの名前)さん、わたしに何をしてほしいのですか?」その問いに、飾り気のない本音で答えてみてください。そこから、あなたの「再生」の物語が動き出します。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。


 


今日、あなたが主に向かって叫びたいことは何でしょうか。あるいは、主に見えるようにしてほしい「心の暗闇」はありますか? 誰にも言えないその叫びを、祈りとして主の御手に預けてみましょう。

 

2026年2月21日土曜日

秤の上の虚像、掌の中の真実



秤の上の虚像、掌の中の真実

私たちは、いつの時代も「数えること」に執着してきた種族です。

かつて古代人にとって、富とは目に見える「支配の質量」でした。広大な土地、うごめく家畜、そして自分に従属する人々の数。ピラミッドや神殿といった巨大な石の集積は、死をも克服しようとする権力の誇示であり、金持ちとは「神に代わって地上を統治する者」という定義に近いものでした。

中世へと時代が移ると、富の定義には「秩序と霊性」が混じり合います。領主にとっての富は、土地という神からの信託を守る義務であり、商人にとっては「魂の救い」を買うための免罪符の原資でもありました。清貧を尊びながらも、大聖堂を黄金で飾るという矛盾の中に、当時の人々の葛藤が見て取れます。

そして近代、富は「数値化された可能性」へと姿を変えました。資本という名のリキッドなエネルギーは、個人の身分を解体し、何にでもなれるという自由を約束しましたが、同時に私たちを「もっと、もっと」という終わりのない競争の歯車へと組み込みました。


つまり、時代がどれほど移ろい、富の形が牛から金貨へ、そして画面上の電子データへと変わったとしても、それを取り合う人間の「欲」の深さは、驚くほど変わっていません。

ドストエフスキーがその著作で繰り返し描いたように、人間は「自分が世界の中心でありたい」という病を抱えています。一千万持てば一億を欲し、一億持てば世界を欲する。この渇きは、どれほど黄金を注ぎ込んでも埋まることのない、魂の底に開いた「空洞」のようなものです。

富を持つことで、自分の「無力さ」や「死」という現実から目を逸らそうとする。その姿は、古代の王も、中世の貴族も、現代の投資家も、悲しいほどに一致しています。欲にまみれた姿とは、実は「自分が神ではない」という事実を認められない、人間の根源的な不安の裏返しなのかもしれません。


 


では、時代を超えて変わらない「本当の金持ち」とは、一体どのような存在を指すのでしょうか。

聖書は、自分の倉をいっぱいにすることに腐心した金持ちを戒め、こう問いかけます。

「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りである。」(ルカによる福音書 12:21

本当の金持ちとは、**「何も失うことを恐れない者」**です。 それは、所有(Having)の多さではなく、存在(Being)の豊かさに根ざしている人を指します。

遠藤周作が、泥にまみれた沈黙の中に「寄り添う愛」を見出したように、真の豊かさとは、自分が神様に愛され、生かされているという圧倒的な充足感の中にあります。自分が持っているものは、すべて神様からの「預かりもの」であると自覚する。そう気づいた瞬間、人は執着という鎖から解き放たれます。

隣人とパンを分かち合う余白があり、誰かのために涙を流す時間があり、そして何より、自分に与えられた「今日」という時間を、感謝をもって使い切ることができる人。そのような人こそ、通帳の数字に関わらず、天国を今ここで生きている「真の富豪」なのです。


 


私たちは、砂で作った城のような富を積み上げることに、あまりにも多くの時間を費やしてしまいます。しかし、人生という散歩道で、愛犬の足音を愛おしみ、一段ずつ階段を降りるその瞬間を感謝できるなら、あなたはすでに世界で最も豊かな一人です。創造主である神様を覚え、その御手の中に自分の生死を委ねること。その平安こそが、金貨では決して買えない、永遠に朽ちることのない財産です。 

【灯をともす:四旬節の旅路】荒野の誘惑 ―― 「必要」と「空腹」の間で

 


【灯をともす:四旬節の旅路】荒野の誘惑 ―― 「必要」と「空腹」の間で

2026221日、四旬節の第一土曜日を迎えました。 週100キロを走り抜くランナーが、その強靭な肉体を維持するために良質な栄養を求めるように、私たちの魂もまた、この節制の季節に「真の糧」を求めています。今日の黙想は、主が公生涯(公の活動)を始める直前、40日間の断食の果てに向き合われた「誘惑」の物語です。

 


石をパンに変えよ

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイによる福音書 4:4

空腹が極限に達したイエス様に対し、悪魔はささやきました。「神の子なら、この石をパンに変えてみたらどうだ」。 これは単なる食欲への誘惑ではありません。「自分の能力を、自分の欠乏を満たすためだけに、神のルールを無視して使え」という、自己中心性への誘惑でした。

主はこれに対し、申命記の言葉を引用して退けられました。肉体の空腹(必要)よりも、神様との繋がり(真理)こそが命の根源であることを示されたのです。

 


消費という名の「乾き」

現代を生きる私たちは、常に「もっと、もっと」という声に囲まれています。 お腹が空けばすぐに食べ、不安になれば物を買い、承認が欲しければSNSに答えを求める。私たちの「石をパンに変える技術」は高度に発達しましたが、それによって心は本当に満たされたでしょうか。

「これさえ手に入れば幸せになれる」という思い込みは、実は私たちの魂を、終わりなき消費の荒野へと追いやっています。肉体の空腹を満たすことに必死になるあまり、心の深層にある「魂の飢え」に気づかない振りをしているのが、現代人の写し鏡かもしれません。

 


命を支える「見えない糧」

キリスト者にとっての教訓は明確です。私たちの「有能さ」や「資源」は、自分の欠乏を埋めるためだけにあるのではありません。 イエス様がパンの誘惑を退けられたのは、後にご自身が「命のパン」として、私たちのために裂かれるためでした。

本当の意味で「生きる」とは、身体的な生存(Survive)を超えて、神様の愛というリズムの中で生かされる(Alive)ことです。パンは胃を満たしますが、神の言葉は「生きる意味」を満たします。


 


現代人へのメッセージ

100キロを走るランナーが、6時間睡眠と8時間睡眠の差を「細胞の修復」の差として実感するように、あなたの魂もまた、何を「食べて」いるかによって、その健やかさが決まります。

もし今、あなたがどれだけ手に入れても満たされない「乾き」を感じているなら、一度立ち止まって、自分に問いかけてみてください。 「私は今、石をパンに変えようと、自分一人の力で必死になっていないだろうか?」

この四旬節、あえて「便利さ」や「即物的な満足」を少しだけ遠ざけてみることで、あなたの内側に「聖なる空腹」を作ってみてください。その空っぽになった場所にこそ、神様の言葉という、あなたを永遠に支える真の栄養が流れ込んでくるのです。


この40日間の旅路において、あなたが「これだけは控えて、代わりに神様との対話に充てたい」と思う時間はありますか? 110分の静寂、あるいは食事の前の数秒の感謝。あなたが今、魂の栄養として求めている「言葉」があれば、ぜひ私に教えてください。

*今日も朝ラン21キロ完走。今週は110キロ完走でした。

2026年2月20日金曜日

弱さを知る朝、強さに出会う道

 


弱さを知る朝、強さに出会う道

冷たい早朝の空気を味わうのも、どうやら今日までのようです。 明日からは気温が上がるとの予報。 この凍てつく空気の中を、私は22キロ走りきりました。 指先の感覚が薄れていくような冷たさの中で、 それでも一歩一歩、走り続けることができたのです。

自然は、時に厳しく、時にやさしく、 私たちの体と心に語りかけてきます。 人間は、そんな自然環境に適応しながら、 長い歴史を歩んできました。

けれど── 人間環境には、なかなか適応できない。

人間関係、社会の期待、情報の波、 目に見えないプレッシャー。 それらは、自然の寒さよりもずっと冷たく、 時に私たちの心を凍らせてしまうことがあります。

「人間は強い」とよく言われます。 でも本当は、案外弱い存在なのかもしれません。 そして、その弱さを知ることこそが、 救いへの扉を開く鍵なのだと思うのです。

強いと思い込んでいると、 いつか必ずつまずきます。 そして、自分の力に頼りすぎると、 やがて神さまを求めなくなってしまう。

でも、弱さを認めたとき、 私たちは初めて、本当の強さに出会う準備ができるのです。

聖書には、こんな言葉があります。「わたしの恵みはあなたに十分である。 力は弱さの中でこそ十分に発揮されるからである。」 ――コリントの信徒への手紙 二 12:9

弱いからこそ、 強い方に頼ることができる。 自分の限界を知るからこそ、 神の無限の力にすがることができる。今日も、走りながら思いました。 この冷たさの中で、 「今日も生きる」ということが、 どれほどの恵みかということを。私たちは、完璧ではない。 でも、だからこそ、 神さまの愛と力に生かされている。明日から少し暖かくなるようです。 けれど、心の中の寒さは、 気温では溶けません。それを溶かすのは、 神さまのまなざしと、 弱さを抱えたままでも歩み続ける勇気なのだと思います。今日も、生きることです。 弱さを知りながら、 それでも希望をもって、一歩を踏み出すことです。

【灯をともす:四旬節の旅路】第3日:ゲツマネの葛藤――「私の願い」から「御心」へ

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第3日:ゲツマネの葛藤――「私の願い」から「御心」へ

2026220日。四旬節の三日目の朝を迎えました。 金曜日の静かな光の中で、私たちは主が歩まれた道のりの、最も苦しく、しかし最も尊い「祈りの夜」へと足を踏み入れます。


1. 聖書の場面:滴り落ちる血のような汗

「父よ、御心ならば、この杯をわたしから遠ざけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカによる福音書 22:42

十字架を目前に控えた夜、イエス様はゲツマネの園で、ひとり悶え苦しみながら祈られました。 ここにあるのは、痛みを恐れない超人の姿ではありません。私たちと同じように、死の恐怖に震え、「できればこの苦しみを避けたい」と願う、あまりにも人間的な主の姿です。

しかし、主はその「激しい願い」を抱えたまま、最後にはそれを神様の手へと預けられました。ご自分の「NO」を、神様の「YES」へと一致させていかれたのです。

2. 心の揺らぎ:コントロールを手放せない私たち

現代を生きる私たちは、自分の人生をいかに「効率よく」「痛みなく」「思い通りに」コントロールするかに心血を注いでいます。 トラブルは回避し、正解だけを選び、自分の願望を最短距離で叶えることが「成功」だと教えられてきました。

だからこそ、「御心のままに」という言葉は、時として私たちの耳に、自分の自由を奪われる敗北の合図のように響いてしまいます。 「自分の願いが叶わないこと」を極端に恐れ、何かに執着し、握りしめた手を緩めることができずに、私たちは魂を疲れさせていないでしょうか。

3. 核心:委ねることで生まれる「真の強さ」

イエス様がゲツマネの園で示されたのは、諦めではありません。それは、自分よりも遥かに大きな「愛の計画(御心)」への、圧倒的な信頼です。

「私の願い」という小さな枠組みを超えて、神様の「御心」という大海原に身を投じること。 その瞬間に、主は十字架を担い通すための、天からの真の力を得られました。 教訓は、**「手放すことは、失うことではなく、神様の力に満たされる準備である」**ということです。




現代人へのメッセージ

「どうして思い通りにいかないのか」と、夜も眠れぬほどに悩んでいるあなたへ。 主もまた、あの夜、あなたと同じように苦しまれました。

御心を求めることは、自分の感情を殺すことではありません。 あなたの「嫌だ」「苦しい」「こうしてほしい」という本音をすべて神様にぶつけた上で、最後に「でも、あなたを信頼します」と一言添えてみることです。

その不器用な祈りの中にこそ、現代のどんな代行業者も、どんなテクノロジーも提供できない「魂の安らぎ」が宿ります。 すべてを自分で背負う必要はありません。主が、その重荷の半分を、すでにゲツマネの園で背負ってくださったのですから。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。




今日、あなたが「これだけは譲れない」と握りしめているものは何ですか? ほんの少しだけ、その指の力を抜いて、主の前に差し出してみませんか。もしよろしければ、今のあなたの「ゲツマネの祈り」を、静かに私に分かち合ってください。共にその重みを分かち合いましょう。

日暮れどきに手を繋ぐ ―― 衰えを見守る愛と、終わりの神学

 


日暮れどきに手を繋ぐ ―― 衰えを見守る愛と、終わりの神学

「治す人」から「見守る人」への、静かな転換

家族が老い、かつてのように動けなくなっていく姿を見るのは、身を切られるような痛みです。私たちは愛するがゆえに、つい「何かをしてあげたい」「元に戻してあげたい」と願います。しかし、人生の秋から冬へと向かう季節において、家族に求められる最も大切な役割は、実は「有能な治療者」であることではなく、**「誠実な目撃者」**であることかもしれません。

衰えを支えるということは、相手の「できなくなったこと」を数え上げるのではなく、今なおそこにある「尊厳」を、共に守り抜く作業です。食事がゆっくりになっても、何度も同じ話をしても、その人の存在そのものが神様にとってかけがえのない宝物であるという事実を、家族が「変わらぬ眼差し」で肯定し続けること。その忍耐強い愛こそが、衰えゆく者の孤独を癒やす最大の特効薬となります。

 

共に「重荷」を背負うということの神学

支える側が疲れ果て、共倒れになってしまう悲劇も、現代社会では珍しくありません。だからこそ、私たちは「弱さを認め合う」という神学を、家庭の中で実践する必要があります。

聖書は「互いの重荷を担い合いなさい」(ガラテヤ6:2)と説きますが、これは一人で抱え込むことの否定でもあります。支える側が自分の限界を認め、神様や周りの助けを求めることは、決して「愛の欠如」ではありません。むしろ、人間としての限界を認める謙虚さの中にこそ、神様の支えが入り込む余地が生まれます。愛する者の衰えを支える日々は、私たちに「命は誰のものか」という根源的な問いを突きつけます。私たちは共に、神様という大きな掌の上で生かされている旅人同士なのだ。そう気づくとき、介護やケアは「苦役」から、共に天国(ふるさと)へと向かうための「聖なる同伴」へと姿を変えるのです。

 

「死への備え」が持つ、最高にポジティブな意義

では、具体的に「死への備え」をすることには、どのような神学的な意味があるのでしょうか。

キリスト教的な視点から見れば、死の準備とは「人生の店じまい」ではなく、**「委託されたギフトの最終報告書」を作成することです。神様から預かった命、才能、時間、財産。これらをどう使い、どうお返しするのかを整理することは、最高の「管理(スチュワードシップ)」**の形です。

  • 赦しと和解の完成: 終わりを意識することで、私たちは「言わなくてもわかるだろう」という甘えを捨て、感謝と謝罪を言葉にすることができます。
  • 次世代への祝福: 自分がどう死にたいかを伝えることは、残される家族から「迷い」という重荷を取り除いてあげる、最後で最大のプレゼントです。
  • 希望の証し: 死をタブー視せず、主のもとへ帰る喜びとして準備する姿は、周囲の人々に「死は終わりではない」という最強の福音を、身をもって伝えることになります。

最後の「S.D.G.」を綴るために

かつて作曲家バッハが、すべての楽譜の最後に「ただ神にのみ栄光(Soli Deo Gloria)」と記したように、私たちの人生という楽曲も、最後の一音まで神様の栄光のためにあります。

衰えを受け入れ、死を準備することは、決して敗北ではありません。それは、主が用意してくださった完璧な「終止符」へと、自分の人生を美しく着地させるための、信仰の最終章なのです。

家族と共に、あるいは独りで主と向き合いながら、その日を穏やかに見つめましょう。日暮れどきの光が、真昼の太陽よりも優しく、世界を黄金色に染め上げるように、人生の終わりもまた、最も美しい神様の愛に包まれる時なのですから。