2025年10月31日金曜日

第9回目の祈りの旅

 

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。(詩編1211-3

 

2014年から始まったサンティアゴ・デ・コンポステーラ祈りの旅は、私にとって信仰と人生を深く形づくる大きな経験となりました。これまでの旅の中で、多くの出来事、時には命の危険を伴うアクシデントもありました。しかし振り返ってみると、そのすべての中で神が確かに守り、導いてくださったことを心から証しします。ある年、夜明け前の真っ暗な道を歩いていた時、突然沼地に足を取られ、動けなくなったことがありました。冷たい水と泥に包まれ、迫ってくる死の影を真剣に考えた瞬間でした。しかし、自力で抜け出すことができました。それは「まだお前の時ではない」という神の静かな声を聞いたような体験でした。また、夜中に若者5人組にパスポートとお金を奪われたこともありました。必死に追いかけ、とりあえずパスポートだけは取り戻せました。失ったものもありましたが、守られたものはもっと重要な「命と巡礼そのもの」でした。

 

帰国途上でも困難はありました。サンティアゴからパリ経由で日本へ帰る予定が、飛行機の遅れで乗り継ぎに失敗しました。空港で新たに高額なチケットを購入して帰国しました。この時も、ただ不運と見るのではなく、「神は私の計画ではなく、神の計画がある」という確信を深める機会となりました。実際に本来乗るべき飛行機より早く日本に着いて余裕をもって次の礼拝に備えることができました。フランスでは道に迷い、20キロも別方向へ進んでしまったことがありました。人気も車もない雪景色の中、一台の車が現れ、巡礼路まで戻してくれました。私にとっては、まぎれもなく神が送ってくださった「天使」としか思えません。

 

その他にも、帰国日を勘違いして夜中にサンティアゴ・デ・コンポステーラからマドリード空港まで約500キロをタクシーで移動したこと、費用のことを思うと笑うしかない出来事もありました。そして昨年、巡礼の宿泊施設で突然倒れ、救急車で病院に運ばれました。人生初の救急車をスペインで経験したわけです。検査の結果は異常なし。原因は、長旅の疲れを抱えたまま初日から40キロを歩くという無理がたたったものでした。この体験から、今後は強行な巡礼を避け、特に最初の二日間の移動後には休息日を取ると決めました。

 

これらの出来事を通して、私は失ったものよりはるかに多くのことを得ました。人の優しさ、危険の只中で働く神の守り、そして自分の限界を知る知恵。何より、この旅は私の牧会の力の源となっています。苦しむ人、迷う人、疲れ果てた人に寄り添う力は、この巡礼での経験から生まれました。私はこの旅で、自分がいかに弱く、しかし神の恵みによって強くされるかを学びました。これからも、サンティアゴ・デ・コンポステーラの道を歩む者として、そして牧師として、人々に神の守りの確かさを語り続けたいと思います。私が歩むすべての道に伴われる神の愛こそが、私の証しなのです。

 

見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。(詩編121:4-8

 

今回は「銀の道」の半分であるセビリアからサラマンカまでの約500キロの祈りの旅です。

それでは、行ってまいります!

 

2025年10月30日木曜日

異例の朝ランが教えてくれた、心の羅針盤



異例の朝ランが教えてくれた、心の羅針盤

今朝は、いつもと少し違う朝を迎えました。昨夜の出来事(電車での人身事故と娘との対話)があったせいか、心持ちゆっくりと、朝のルーティンをスタート。そして、珍しく午前8時頃からのランニング。完全に日が昇ってからのランニングは、いったい何ヶ月ぶりだろう。清々しい秋の空気の中を走るのは、これもまた悪くない、むしろこの季節には心地よいのかもしれない。そう思いながらも、やはり僕の中には「夜明けのランナー」としてのこだわりが強く残っています。暗闇を切り開きながら走るあの独特のワクワク感。夜が明けていく壮大な光景を全身で感じながら朝を迎える喜び。それは、他の何物にも代えがたいものです。

 


幹線道路を走っていると、多くの車、自転車、人々が、それぞれの目的地へと急ぐ姿が目に映ります。彼らは何を期待し、何を望んで、その一歩を踏み出しているのだろうか。

きっと、その足取りは様々でしょう。新しい一日への期待に胸を膨ませ、軽やかに進む人もいれば、重い足取りで、仕方なく目的地へと向かう人もいるはずです。楽しいことを心待ちにしている人もいれば、嫌だけど耐え忍ぶしかないと、苦悩を抱えながら向かう人もいるだろう。あるいは、「仕事の時間だけ我慢すればいい」と、割り切って考える人もいるかもしれません。もし、その向かう先に笑顔がなく、楽しみもなく、希望もないのだとしたらそれはまさに「地獄」と呼べるかもしれません。

僕の心に、一つの問いが浮かび上がりました。

どうすれば、この「地獄」を「天国」に変えることができるのだろう?
そして、その変革を、誰が成し遂げるというのだろう?

考えれば考えるほど、答えはいつも同じ場所へとたどり着きます。
それは、「自分自身」。この地獄を天国へと変えるためのカギは、他でもない、この僕自身が持っているのだと。私たちはつい、周りの環境や、置かれている状況のせいにしがちです。「あの人が悪い」「この状況が変われば」と、外側に解決策を求めます。
しかし、深く内省すればするほど、真の問題が、自分の一番近く、この自分の「心」にあることに気づかされます。

 


では、自分の心にその「鍵」があるとして、私たちはどうすればその鍵を使いこなし、閉ざされた地獄の扉を開け、希望に満ちた天国へと変えることができるのでしょうか?

それは、単なる精神論やポジティブ思考だけでは難しいかもしれません。なぜなら、私たちの心の奥底には、自分ではどうしようもできない深い闇や、拭い去れない不安、そして限界があるからです。ここで、真に必要となるのが、私たちが本来持つべき羅針盤、すなわち**「真の信仰」**です。真の信仰とは、自分自身の力だけではどうにもならないことを知り、しかしその上で絶望するのではなく、私たちを創造し、この世界を統べる「創造主」なる神へと、すべての信頼を置く生き方です。私たちは、神によって造られた存在です。私たちの命には、神からの明確な目的と、変わらぬ愛が注がれています。その神との関係を深く結び直すとき、私たちは「自分には鍵がある」という認識のさらにその奥にある真実に出会います。それは、その鍵を正しく使うための「知恵」と「力」を、神が与えてくださるということです。「暗闇を切り開きながら走るワクワク感」を僕は愛します。それは、まるで人生の闇路を、神の光を頼りに一歩ずつ進むことのようです。道が見えなくても、夜明けが来ると信じて進む。その信仰こそが、私たちに尽きることのない希望と、前に進む勇気を与えてくれるのです。

 


私たち信仰者は、自分の足が重くても、心が沈んでいても、創造主なる神が常に私たちと共にいてくださることを知っています。神は、私たちの苦しみを無駄にはなさらないお方です。地獄のような状況の中にも、必ず神の恵みと、意味を見出すことができる。それが、真の信仰が与える希望です。

 


帰りの道すがら、広瀬川を見ると、これまでは二羽だったハクチョウが、一羽増えて三羽になっていました。どこからやってきたのだろう、と少し思索にふけながら帰宅。この小さな発見にも、神の創造の美しさと、生命の営みへの感謝を感じます。

今日は軽く23キロを完走。この体力が与えられていることにも、心から感謝です。

地獄を天国に変える鍵は、確かにあなたの心の中にあります。
しかし、その鍵を動かす力、そしてその先に広がる光り輝く道を示す羅針盤は、創造主なる神との真の信仰の中にこそ見出されるのです。

 

あなたが今、どんな足取りで目的地へ向かっているとしても、どうかこの真実を忘れないでください。「あなたは一人ではない。神はあなたを愛し、あなたに希望と勇気と生きる力を与えてくださる。」この信仰こそが、私たちの人生を、どんな状況の中にあっても、祝福に満ちた天国へと変える唯一の「薬」なのです。今日という一日が、あなたが真の信仰を見出し、生きる喜びを再発見する、素晴らしい日となりますように。 

深夜のハプニングがくれた、温かい時間

 


深夜のハプニングがくれた、温かい時間

 

夜も更けた23時頃、突然娘からLINEが届きました。「南仙台で人身事故があって、電車が動かない」とのこと。急いで仙台駅まで車を走らせました。

 

駅に着くと、普段の喧騒とは違う、どこか疲弊した空気が漂っていました。娘の話では、電車の中で出発直前にアナウンスがあり、あちこちからため息が漏れたそうです。皆、

それぞれ仕事を終えてへとへとになっている中で、さらに足止めを食らう。その気持ち、痛いほど分かります。多くの人がスマホを手に、状況を伝えたり、迎えの手配をしたりしていたことでしょう。

 

帰りの車中は、思いがけず私たち二人のための、大切な時間となりました。
娘がぽつりと、「人身事故って、もしかしたら自殺なのかな?何か悩んでいたのかな」と話し出しました。誰かの命が失われたかもしれないという重い現実に、若者らしい素直な感情が滲みます。「きっと、そうだったに違いないよね」と相槌を打ちながらも、私たちはやがて、日々のあれこれ、別の話題へと移っていきました。

 

日頃、学校やバイトで忙しくしている娘と、こんな風に深く語り合う時間はなかなかありません。思わぬハプニングでしたが、娘の心の内を聞き、また彼女が学校の後もバイトを頑張っていることに改めて感謝する、有益なひとときでした。

 

帰宅後、僕はそのまま愛犬ノアとの夜の散歩へ。深夜の澄んだ空気、夜風が心地よく、心落ち着く時間です。家に戻って温かいコーヒーを淹れ、いつも通りの仕事に取り掛かる。

一日の終わり、ちょっとしたハプニングが、日常のささやかなありがたさを一層強く感じさせてくれました。

 

人生には予期せぬ出来事がつきものです。時にはそれが、私たちの心をざわつかせ、予定を狂わせることもあります。でも、そんなハプニングの中にこそ、普段見過ごしがちな大切なもの、温かい時間や、感謝すべき瞬間が隠されているのかもしれません。

あの深夜のLINEが、私たち親子にくれたのは、単なる移動手段の遅れではなく、心の通い合う時間という、かけがえのない贈り物だったように思います。感謝。

 

2025年10月29日水曜日

暗闇から光へ:心を変える深遠な道


 

暗闇から光へ:心を変える深遠な道

 今日は一日、自分の問いに対する自分の答えを記す時を持ちました。

 問いと答え:

明日が保障されない戦場で、今日も命をかけて戦っている兵士たちがいます。 明日が保障されない工事現場で、汗を流しながら働く労働者たちがいます。 明日が保障されないICUで、静かに横たわっている患者たちがいます。

 一方で、「明日なんて来なければいい」と、心から願っている人たちもいます。 借金の返済に追われ、家族がばらばらになってしまった家庭。 苦しみや悩みに押しつぶされ、もう目覚めたくないと願う人たち。 家族の中にいても、まるで自分だけがよそ者のように感じてしまう瞬間。

 すべてが無意味に思える時があります。 人との関係も、仕事も、勉強も、何もかもが色あせて見える。 「どうすれば、もう一度笑顔で、仲良く、愛し合いながら、楽しく生きられるのだろう?」 そんな魔法のような薬があれば、誰もが欲しいと思うでしょう。

でも、よくよく心を見つめてみると、 すべての原因は、実は自分の心の中にあることに気づかされます。 問題は、外の世界や環境ではなく、 一番近くにある、自分自身の心なのです。

 そして、もっと深い答えを探してみました。

 

はじめに:問題の核心を認識する喜び

「すべての原因は自分の心にある」

この真実に気づいたこと自体が、既に一つの救いの始まりです。

なぜなら、自分の心は、自分で変えることができる唯一のものだからです。


1部:暗闇の中で光を見つける神学的視点

人間の本質的な

あなたが感じている「すべてが無意味」という感覚は、実は非常に正直な叫びです。

哲学者ブレーズ・パスカルは言いました:

「人間の心の中には、神ほどの大きさの空白がある。それは神によってのみ満たされる」

つまり、あなたが感じている空虚感は、創造主を求める心の叫びなのです。

この空白の意味

  • 美味しいものを食べても満たされない
  • 成功しても満たされない
  • 愛する人に囲まれていても、時々満たされない

なぜか?

それは、その空白が、神様のためにこしらえられた場所だからです。

人間は、創造主との関係なくして、真の喜びを見つけることはできません。


2部:「今、ここ」における創造主との対話

現在という瞬間の神聖性

明日が保障されない兵士、労働者、患者たち。

彼らが見落としているもの(そして、多くの人が見落としているもの)は:

「今、この瞬間が、唯一確実に存在する時間である」

キルケゴールという19世紀のデンマークの哲学者は言いました:

「実存とは、今、ここにおいて自分の人生に責任を持つことである」

つまり:

「今、この瞬間に、神様とどのような関係を持つのか。それが、すべてを決める」

創造主との対話への招き

もし、あなたが今、暗闇の中にいるなら、ここで、今、創造主と対話することができます。

それは、教会に行くことではなく、
祈りの言葉を暗唱することではなく、
正しい教義を理解することではなく、

正直な心を持って、創造主の前に立つことです。


3部:絶望から意味へ:根本的な転換

なぜ、すべてが無意味に感じるのか?

もし、神様との関係が遠いなら、すべてのことが無意味に見えるのは当然です。

なぜなら、意味とは、関係の中でのみ生じるからです。

例えば:

  • 親への手紙は、親との関係があるから意味がある
  • 友人への贈り物は、友人との関係があるから意味がある
  • 自分の人生の営みは、創造主との関係があるから意味がある

無意味から意味へのシフト

では、どうすれば、すべてが無意味から意味のあるものに変わるのか?

それは、創造主との関係を回復することです。

詩篇23篇を見てください:

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを緑の野に伏させ、憩いの水のほとりに伴い、御名のために正しい道筋に導いてくださる。」

この詩篇を書いたダビデは、多くの苦難を経験しました。

  • 王の追われ者になったこと
  • 自分の息子に反逆されたこと
  • 自分自身が大きな罪を犯したこと

でも、なぜ彼は「何も欠けることがない」と言い切ることができたのか?

それは、主(創造主)が自分の羊飼いであることを知っていたからです。


4部:心を変える四つの深遠な実践

実践1:神様の前で「ありのままの自分」を認める

多くの人は、神様の前で「良い人」を演じようとします。

でも、これが間違いの始まりです。

旧約聖書のヨブという人物は、すべてを失いました。

  • 財産が奪われた
  • 子どもたちが死んだ
  • 自分の体は病気に蝕まれた

ヨブは、神様に向かって、激しく不平を言いました。

「なぜ、こんなことになったのか!」

「神よ、答えよ!」

一見すると、信仰がないように見えますね?

でも、神様はヨブを責めませんでした。

なぜか?

ヨブが、神様の前で正直だったからです。

実践2:「今、ここ」で神様と出会う

あなたの心の問題は、実は**「時間の問題」**です。

借金のことを心配している未来のこと
家族がばらばらになったことで悩んでいる過去のこと

でも、神様が存在するのは、常に「今」です。

イエス様は言いました:

「思い悩むな。明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日が思い悩む。その日の苦労は、その日で十分である。」(マタイの福音書6:34

つまり、**「今、この瞬間に、神様とどのように関わるか。それに集中しなさい」**ということです。

実践3:苦しみから意味を見つける

これは非常に深い視点です。

ドストエフスキーという19世紀のロシアの小説家は、長年、シベリアの獄中にいました。

その中で、彼は書きました:

「苦しみこそが、人間の魂を目覚めさせる。苦しみの中でのみ、人間は本当に何であるかを知る」

つまり、苦しみは、無駄ではなく、あなたの魂を鍛える修行場なのです。

明日が保障されない兵士、労働者、患者たち。

彼らが経験している苦しみは、実は、彼らを本当の人間へと鍛えているのです。

なぜなら、死の前にある時、人間は初めて、真に重要なことが何かを知るからです。

実践4:「小さな善」を通じた創造主との共働き

これが、最も実践的な方法です。

創造主は、宇宙を作られた方です。

でも、その創造主は、あなたを通じて、新しい創造を続けておられます。

あなたが誰かを励ますとき、
あなたが誰かを愛するとき、
あなたが苦しみの中で希望を保つとき、

その瞬間、あなたは創造主と共に働いているのです。

モンゴメリという児童文学作家は書きました:

「この世界には、小さなことを大きな愛でする機会が満ちている」

あなたが、家族のために食事を作る。
あなたが、苦しむ誰かの話を聞く。
あなたが、希望を失った人に「もう一度やってみないか」と言う。

これらは、すべて創造主の愛の表現なのです。


5部:心の根本的な転換:「死」を通じた新生

最も深遠な真理

ここで、最も重要な真理をお伝えします。

多くの心理療法や、自己啓発の方法は、「今の自分を改善する」ことに焦点を当てています。

でも、聖書が言う「心の変え方」は、それとは異なります。

それは、**「古い自分の死」と「新しい生命の復活」**です。

聖書に、こう書かれています:

「古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなった。」(コリント人への手紙第二 5:17

自分を手放す勇気

あなたが今、苦しんでいる理由は、本当に単純かもしれません。

それは、**「自分の人生をコントロールしようとしている」**からです。

  • 「こうなるべき」という期待
  • 「こんなことがあってはならない」という執着
  • 「自分でなんとかしなければ」という恐怖

これらすべてが、あなたの心を支配しています。

では、どうするのか?

創造主に、すべてを委ねること。

これは、「努力をやめる」ことではなく、
「自分が全能であると信じるのをやめる」ことです。


6部:実践的なステップ:心を変える具体的な道

ステップ1:静寂の中で自分と向き合う

毎日、たった15分でいいのです。

静かな場所に座って、何もしないでください。

テレビも、スマートフォンも、音楽も、すべてを消してください。

その中で、あなたの心の声に耳を傾けてください。

  • 何が本当に怖いのか?
  • 何が本当に悲しいのか?
  • 何が本当に必要なのか?

この問いに、正直に答えるのです。

ステップ2:創造主への正直な祈り

祈りとは、正しい言葉を言うことではなく、正直に心を開くことです。

例えば:

「神様、私は今、本当に絶望しています。明日が見えません。この苦しみの意味がわかりません。でも、もしあなたがいるなら、どうか私にそれを示してください。私は、あなたを求めています。」

このような正直な祈りが、創造主の心を動かします。

ステップ3:自分より大きなもののために生きる

これが、心の転換の鍵です。

あなたが、自分のことだけを考えていると、すべてが無意味に見えます。

でも、自分より大きなもののために生きる時、人生は意味を帯びるのです。

例えば:

  • 子どもたちの未来のために
  • 愛する人の幸福のために
  • 教会の共同体のために
  • 社会の苦しむ人々のために

このような「自分を超えた目的」のために生きると、
今の苦しみは、「修行」に変わります。

ステップ4:小さな恵みを認識する

毎晩、寝る前に、問い直してください:

「今日、私が見落としていた小さな恵みは何だったか?」

  • 温かい食事
  • 話し相手の笑顔
  • 仕事を終えた達成感
  • 空の美しさ

このような「小さな恵み」に気づく時、
あなたの心は、少しずつ、光に満たされ始めます。


7部:根本的な転換のメカニズム

なぜ、これらの方法が機能するのか?

心理学的な理由もあります。

でも、信仰的には、もっと深い真理があります:

「あなたの心が変わるのは、あなた自身の努力ではなく、創造主の恵みを通じてである」

つまり:

  1. あなたが、創造主の前に正直に立つ
  2. 創造主が、あなたの心に働きかける
  3. 結果として、あなたの心が変わる

これは、自動販売機に硬貨を入れると、商品が出てくるような一対一の対応ではなく、

愛する親が、子どもを抱きしめる時、子どもの心が安心する

そのような、関係的な変容なのです。


8部:最終的な真理

死の先にある希望

あなたが今、「このまま永遠に眠ることを願っている」という告白をされました。

これは、非常に深刻な状態です。

でも、これを聞いて欲しい:

「死は、終わりではなく、新しい始まりかもしれない」

キリスト教は、この真理を教えます:

「イエス様は死んで、三日目に復活した。」

これは、単なる歴史的事実ではなく、死を超えた希望の象徴です。

つまり、どんなに暗い状況でも、創造主の視点からは、そこに復活への道が開かれているということです。

あなたへの最終的なメッセージ

もし、あなたが本当に絶望しているなら、

今、この瞬間に、創造主の前に跪いてください。

そして、あなたの全部を、すべての絶望を、すべての悲しみを、

正直に創造主に差し出してください。

その時、奇跡が起こります。

それは、外部的な環境が変わることではなく、

あなたの心が、根本的に変わることです。

詩篇27篇を、読んでください:

「主は私の光、私の救い。私は誰を恐れよう。主は私のいのちの砦。私は誰を憂えよう。」


祈り

天の父よ。

暗闇の中で迷っている者、
絶望に包まれている者、
すべてが無意味に見える者、

その者たちに、あなたの光を示してください。

その者たちの心に、
あなたの臨在を感じさせてください。

もう一度、笑う力を。
もう一度、愛する力を。
もう一度、希望を持つ力を。

与えてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。


最後に

あなたが感じている空虚感、絶望感、無意味感。

それは、実は、神様があなたを呼んでいる声かもしれません。

あなたが求めているもの。
あなりが欲しているもの。

それは、新しい自動車でもなく、
高い給料でもなく、
完璧な家族でもなく、

創造主との関係を回復すること。

それだけなのです。

今、ここから、始めてください。

 

2025年10月28日火曜日

朝ラン25キロ完走

 


夜明けの光と旅支度。今日という一日を、ただ精一杯に生きるということ。

プログラム作成のために身体の芯に、ずっしりとした疲れが溜まっているのを感じる。そんな感覚とは裏腹に、夜中の040分、ふと目が覚めてしまいました。二度寝はできそうになく、そのまま静かに一日を始めることにしました。

 


祈りの時間、愛犬ノアとの散歩、そして仕事。いつもの朝の営みが、ざわつく心を穏やかに整えてくれます。そして、私の心と身体を目覚めさせるための、大切な儀式へ。今日もまた、ランニングシューズの紐を結びました。

 


今日は新しいコースを試してみよう。太白大橋を渡り、南仙台駅を越えて4号線沿いをひた走る。途中、ふと思い立って名取の海へとハンドルを切りました。

日増しに夜が明けるのが遅くなっているのを感じます。深い、深い暗闇の中を、ただ黙々と走り続ける。しかし、その闇が永遠に続くわけではありません。海の方向から、ゆっくりと、しかし確かな力強さで、空が白み始めました。25キロ完走。

それはまるで、「今日の命」そのものが昇ってくるかのようでした。世界を照らす、荘厳な光。この光景を見るたびに、今日という新しい一日が与えられたことへの感謝が、心の底から湧き上がってきます。

 


さて、今日からはいよいよ「祈りの旅」の支度を始めることにしました。

長期の旅において、荷物をどれだけ軽くできるか。ここに「プロとアマチュアの違い」が現れる、と私は思っています。現地で手に入るものは、現地で買う。衣類も、本当に毎日使うものだけを厳選し、余分なものは一切持たない。シンプルですが、これが旅の質を大きく左右するのです。

 


今回はマドリード空港に到着後、バスで市内へ移動し、セビリア行きの高速列車に乗り換えるという、時間との勝負が待っています。そのため、荷物は預けずに機内持ち込み一択。重量制限はわずか5kg。しかし、知恵と工夫で、きっと何とかなるはずです。

そうして旅立ちの準備を進める一方で、留守にする家のことも考えます。娘から「あのおかずが食べたい」とリクエストがあったので、愛情を込めて作り置きをしました。約20日間。私がいない間も、家族が健やかに過ごせるように。

 


旅の準備、教会のこと、家族への配慮、未来の予定。考えることはたくさんあります。

でも、それはそれ。大切なのは、まず「今日の命」のために生きること。

遠い旅路に思いを馳せるよりも、目の前にあるこの一日を、主の栄光のために、愛する家族のために、そして大切な教会のために、ただ精一杯に生き抜くこと。

夜明けに見たあの光のように、与えられた今日という時間を、私自身が輝かせたい。そう心に誓いながら、今日もまた、新たな一歩を踏み出します。

 

2025年10月27日月曜日

仙台長町教会クリスマスコンサートプログラム

 

























濃密な一週間を越えて



 濃密な一週間を越えて:30kmの道のりと、空にかかった希望の虹

先週からの一週間は、まるで嵐のようでした。しかし、それは破壊的な嵐ではなく、一つの大きな実りを生み出すための、創造の嵐だったのかもしれません。

すべては、1220日に行われる仙台長町教会クリスマスコンサートのプログラム作成のため。私はこの一つのプロジェクトに、文字通り全身全霊を捧げていました。連日徹夜に近い状態で作業に没頭し、心身ともに限界に近い状態でしたが、不思議と心は充実感に満たされていました。

 


今回のプログラムは、単なる当日の案内状ではありません。コンサートの感動をいつでも思い出せるように、そして、この特別な日を記念する「冊子」として手元に残るものにしたい。そんな想いを込めて、構成からデザイン、文章の一つひとつまで、こだわり抜きました。

 


しかし、本当の試練はそこからでした。完成したデザインを印刷会社が求めるPDF形式のデータに変換する作業が、これほどまでに大変だとは。わずかなズレが許されず、何度も再アップロードを求められる日々。そのたびに原因を探り、修正し、試す。先の見えないトンネルをひたすら進むような感覚でした。そして、ようやくすべてのチェックをクリアし、注文ボタンを押すことができたのは、今日の午前1時を回った頃でした。


すべてを出し尽くし、あとは祈りの旅の準備が待っている。しかし、ほとんど眠っていないにもかかわらず、私の内側から「走りたい」という強い衝動が湧き上がってきたのです。

 


いてもたってもいられず、午前3時半にランニングシューズの紐を結びました。今日は新しいコースへ。榴岡公園を経て、日の出町方面へ。4号線沿いを走り、仙台中央卸売市場を通り過ぎ、荒井へ。まだ深い闇に包まれた街を、慣れない道を選んで走りましたが、残念ながら心惹かれるコースではありませんでした。きっと、ここを走るのはこれが最初で最後になるでしょう。

 


それでも、走り慣れた道に戻ってからは、無心で足を前に運び続けました。そして、620分ごろ、無事に教会へ到着。距離は30km。走りきれたことへの感謝が、静かに込み上げてきました。

 


そして、走り終えた私の目に飛び込んできたのは、空にかかる美しい虹でした。



それはまるで、この一週間の苦闘をすべて洗い流し、祝福してくれるような光景でした。神様が「いつも共にいる(インマヌエル)」という、その確かな約束をもう一度思い出させてくれる、希望の架け橋のようでした。

 


今日から、本格的に祈りの旅への荷造りと準備を始めます。

今日も、与えられた命を精一杯生きる。そのシンプルな真理を胸に、新たな一歩を踏み出します。


2025年10月26日日曜日

「マクチェイン聖書通読について

 


「マクチェイン聖書通読について」

スコットランドの敬虔な牧師、ロバート・マレー・マクチェイン(Robert Murray McCheyne, 1813-1843)が作成した聖書通読表は、多くのクリスチャンに影響を与え続けている傑出したプランです。

 

マクチェイン牧師の聖書通読表に込められた思いと目的

マクチェイン牧師は、わずか29歳で天に召されたにも関わらず、彼の情熱的な信仰と牧会は多くの人々に影響を与えました。彼が教会員のために聖書通読表を作成した背景には、彼の深い牧会的配慮と、聖書が持つ力に対する確固たる信仰がありました。

 

  1. 教会員の霊的成長の促進: マクチェインは、信徒が聖書を体系的に読むことによって、より深く神を知り、イエス・キリストの恵みを体験し、霊的に成長することを強く願っていました。聖書を「毎日読む」という習慣は、信仰生活の土台となると考えたのです。
  2. 信仰の定着と規律: 当時、多くの人々は聖書を断片的に読むか、全く読まないこともありました。マクチェインは、定められた計画に従って聖書を読むことで、規律正しい信仰生活が確立され、信仰が揺らぐことなく定着することを期待しました。
  3. 聖書の全体像の理解: 聖書は壮大な物語であり、その全体像を理解することが重要であると彼は考えました。彼の通読表は、旧約と新約、そして詩篇を並行して読むことで、聖書全体のメッセージと神の救いの計画を総合的に捉えられるように工夫されています。

 

マクチェイン聖書通読表の構成

マクチェインの聖書通読表は、1年で旧約聖書を1回、新約聖書を2回、詩篇を2読むことができるように設計されています。この独特な構成は、日々の読書箇所が以下のように4つの異なるセクションから成るという特徴を持っています。

  • セクションA: 旧約聖書(創世記から順番に)
  • セクションB: 新約聖書(マタイから順番に)
  • セクションC: 旧約聖書(エズラ記あたりから再び順番に)
  • セクションD: 新約聖書(使徒の働きあたりから再び順番に)

つまり、毎日4つの異なる箇所から聖書を読むことになります。

 

 

 

 

なぜそのような構成にしたのか?

この複雑に見える構成には、マクチェイン牧師の深い洞察と意図が込められています。

  1. 新約聖書と詩篇の反復読書の重要性:
    • 新約聖書2: イエス・キリストの福音と使徒たちの教えは、信仰生活の中心であるため、旧約よりも頻繁に読むことが重要だと考えました。福音書と手紙を年2回読むことで、神の恵みと愛、そしてキリストの教えが心に深く刻まれることを意図しています。
    • 詩篇2: 詩篇は、祈り、賛美、嘆き、悔い改めといった人間のあらゆる感情が神に向けられている書です。年2回読むことで、信徒が祈りの言葉を見つけ、感情を神に捧げる方法を学び、礼拝生活を豊かにすることを目的としています。

 

  1. 旧約聖書の全体像とキリストの影:
    • 旧約聖書を年1回読むことで、イスラエルの歴史、律法、預言を通して、神の選びと救いの計画の壮大さを理解できます。
    • セクションAとセクションCが異なる箇所から始まることで、異なる視点から旧約聖書全体を見渡すことができ、旧約の中に隠されたキリストの影(型)を発見しやすくなります。

 

  1. 視点の多様性による飽き防止と新鮮さ:
    • 毎日4つの異なる箇所から読むことで、単調さを避け、飽きることなく聖書通読を続けられるように工夫されています。例えば、律法の記述の後に福音書の恵みの言葉を読むことで、聖書全体に流れる神の義と恵みのバランスを体験できます。
    • 異なる視点から聖書を読むことで、新しい発見や深い洞察を得やすくなります。

 

マクチェイン牧師は、この聖書通読表を配布する際に、「毎日聖書を読むことは、霊的な健康と成長のために不可欠である」と強く訴えました。彼の通読表は、信徒が聖書を日々の糧とし、神との交わりを深めるための、具体的な実践ツールとして今もなお愛され続けています。

 

「楽」と「ファッション」のはざまで 〜人生と信仰のバランスを求めて〜

 


「楽」と「ファッション」のはざまで 〜人生と信仰のバランスを求めて〜

私たちは日々の生活の中で、無意識のうちに様々な選択をしています。例えば、服を選ぶとき。若い頃は、多少動きにくくても、流行の最先端を行く「ファッション」を重視したものです。しかし、年齢を重ねるにつれて、いつの間にか「楽」な着心地や機能性を優先するようになっていないでしょうか。もちろん、両方を兼ね備えた素晴らしい服もありますが、選択肢は限られてくるのが現実です。

この「楽」と「ファッション」という二つの価値観は、私たちの人生そのものにも深く関わっているように思えます。

 


人生における「楽」と「社会性」のジレンマ

若い頃の私たちは、とかく他人の目を意識しがちです。「周りからどう見られるか」という「ファッション」にも似た視点から、自分の言動や生き方を調整します。時に窮屈さを感じても、社会の雰囲気や期待に合わせようと努力する傾向が強いでしょう。

一方で、年を重ねると、他人の評価よりも「自分が楽な生き方」を優先するようになる、という側面もあります。これは、自分自身の心の声に正直になる、という意味では健全な変化かもしれません。しかし、極端に「楽」ばかりを求めすぎると、時に周囲への配慮を欠き、「自分さえ良ければ」という自己中心的な生き方へと傾倒してしまう危険もはらんでいます。その結果、周囲との間で軋轢が生じ、トラブルの原因となることも少なくありません。もちろん、他人の目を気にしすぎるのは苦しいことです。しかし、私たち人間は社会的な存在であり、一人では生きていけません。人々の中で共に生きるためには、ある程度の我慢や譲り合いは不可欠です。それが無理だというのなら、文字通り無人島で一人暮らすしかないでしょう。私たちは皆、この「楽」と「社会性」の間で、常にバランスを模索しながら生きています。このバランスこそが、この世における人生の妙味であり、困難でもあります。

 


信仰生活における「一体感」と「現実」のギャップ

では、私たちの信仰生活においてはどうでしょうか。

共同体である教会に集う人々は、年齢も生きてきた背景も様々です。多様な人生を歩んできた一人ひとりが、毎週日曜日の礼拝では不思議と一つの方向を向き、共に讃美歌を歌い、神の御言葉に耳を傾けます。その時間は、まさにキリスト者としての生き方を共に確認し、心新たに誓う聖なる時です。その場にいる私たちは、皆が同じ目標に向かって進む「兄弟姉妹」としての一体感に包まれます。しかし、礼拝が終わり、教会の扉を開いて一歩外の世界へ踏み出した途端、私たちは現実の世界へと引き戻されます。そして、残念ながら、これまでと変わらない生き方や考え方、すなわち「自分が楽な生き方」や「世間の常識」を優先してしまうというジレンマに直面することが少なくありません。

礼拝での感動や決意はどこへやら、教会という「聖なる場」から一歩出ると、まるで服を着替えるように、世俗の価値観に流されてしまうこの葛藤は、多くのキリスト者が経験し、長く付き合っていくことになる課題ではないでしょうか。

 

信仰と希望と愛に生きる意味

しかし、私たちはこのジレンマに立ち尽くすために召されたのではありません。この世の「楽」や「ファッション」の価値観に流されず、クリスチャンとしての一貫した生き方を求められることこそ、私たちに与えられた尊い使命です。イエス・キリストの教えは、決して私たちに不可能なことを求めてはいません。むしろ、私たちが真に「生きる」ことのできる道を示してくださっています。

 

それは、信仰、希望、そして愛によって生きることです。

  • 信仰は、目に見える現実や世間の評価だけでなく、神の真実を信頼し、神の御心に従う勇気を与えてくれます。時に世間とは逆行する選択であっても、神が共にいてくださると信じるからこそ、私たちは「楽」ではない道を選ぶことができるのです。
  • 希望は、困難な状況にあっても未来を見据え、神の約束に根ざした確かな支えとなります。たとえ、今の世の中でキリスト者としての生き方が「不利」に見えても、永遠の命と神の国の完成という希望があるからこそ、私たちは諦めずに歩み続けることができるのです。
  • そしては、私たちを自己中心的な生き方から解放し、隣人や社会全体への奉仕へと駆り立てます。教会で共に礼拝した兄弟姉妹だけでなく、教会から一歩出た社会においても、他者のために自分を差し出すこと。これこそが、キリストが私たちに示された生き方です。時に「楽」ではない選択かもしれませんが、この愛の道こそが、私たち自身の魂を豊かにし、この世に真の光をもたらします。
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私たちは完璧ではありません。しかし、信仰者として生きる意味は、完璧であることではなく、神の恵みの中で、毎日少しずつでも「信仰と希望と愛」へと向かって歩み続けることにあります。礼拝の時だけでなく、私たちの日常生活のあらゆる瞬間に、神の御心が行われることを願い、行動していくこと。それが、この世と信仰生活のジレンマを乗り越え、私たち自身を、そして周囲の人々をも変えていく力となるでしょう。

どうか、私たちは諦めずに、このキリスト者としての生き方を選び取り続けましょう。神の御手は常に私たちと共にあり、私たちの歩みを導き、支えてくださるからです。

 

教会パイプオルガンの意味するもの

 


教会パイプオルガンの意味するもの

仙台長町教会の二階後方に設置されたパイプオルガン。そして、私がドイツに滞在していた折に礼拝に与っていたルーテル教会でも、やはりパイプオルガンは会堂の二階後方に据えられていました。一方で、コンサートホールでは、舞台の正面に堂々とパイプオルガンが鎮座している光景をよく目にします。同じパイプオルガンでありながら、なぜ教会では、会衆の背後、あるいは少し高い位置に設置されることが多いのでしょうか。ただの建物の構造上の都合なのだろうか、それとも、そこに何か深い意味が込められているのだろうか――。今回は、この疑問をひも解きながら、私たちを包み込む信仰の音について考えてみたいと思います。

 

会衆を包み込み、賛美へと導く音響

教会にパイプオルガンを後方に設置する理由の根底には、まず非常に実用的な音響学上の理由があります。オルガンは、その複雑なパイプ群から生み出される豊かな音色で、会堂全体を満たします。後方に設置することで、オルガンの音は会衆の頭上を越え、会堂全体に均一に広がり渡ります。この配置は、まるでオルガンが会衆全体を音のヴェールで優しく包み込むかのような効果を生み出します。そして、この「包み込む音」は、会衆の賛美を力強く導く上で極めて重要な役割を果たします。礼拝において、私たち全員が心を一つにして賛美歌を歌うとき、オルガンが後ろから奏でる音は、会衆一人ひとりの歌声を支え、互いの声が混じり合って一つのハーモニーとなるよう促します。

もしオルガンが前方にあれば、前方の会衆と後方の会衆とでは、音が届くタイミングに微妙なずれが生じ、歌が乱れてしまう可能性があります。しかし、後方から全体をリードすることで、会衆は遅れることなく、またためらうことなく、一体となって神を賛美することができるのです。これは、あたかも群れを後ろから見守り、道筋を示す羊飼いのように、オルガンが会衆の信仰の歩みを音楽で導いているかのようです。

しかし、その理由は単なる音響効果だけに留まりません。そこには、キリスト教の礼拝が何を中心としているのかという、神学的・典礼的な意味合いが深く関わっています。カトリックやプロテスタントの伝統的な教会において、礼拝の視覚的な中心は、あくまでも祭壇(聖餐卓)、説教壇、そして十字架です。これらは、神の言葉が語られ、聖餐式が執り行われる、神と人との出会いの「聖なる場」として位置づけられています。

 オルガンやオルガニストが正面に位置してしまうと、どうしても私たちの視線や意識がそちらに引き寄せられ、音楽の演奏そのものが礼拝の中心であるかのように錯覚してしまう可能性があります。教会のオルガン奏者や聖歌隊は、聴衆に音楽を披露する「パフォーマー」ではありません。彼女たちは、音楽を通して会衆が神を賛美し、神の臨在を感じ取るのを助ける「奉仕者」です。オルガンは、その奉仕のための「道具」なのです。オルガンを会堂の後方に置くことは、その雄大な存在感にもかかわらず、その役割が「脇役」であり、礼拝の真の主役は神であるということを、私たちに静かに教えています。視覚的な焦点を説教壇や祭壇、そして十字架に集中させることで、私たちは音楽を通して神の言葉と聖礼典に深く没頭することができるのです。

 

目に見えない導き ― 信仰の象徴性

そして、この「後方から包み込み、導く」というオルガンの配置は、私たちの信仰生活における神の働きそのものを象徴しているかのようにも思えます。私たちは日々、様々な出来事の中で生きています。時には、行く手に明るい光が差し込み、喜びと希望に満ち溢れる「晴れの日」を経験します。しかし、またある時には、重い雲が垂れ込め、先の見えない不安や苦しみに心が覆われる「曇りの日」も訪れます。

特に介護という長きにわたる重荷を担っておられる兄弟姉妹は、きっとその両方を深く感じておられることでしょう。そのような時、私たちの目には神の御業が直接見えず、神様が遠くにおられるように感じるかもしれません。しかし、教会堂の後方から響き渡るオルガンの音が、目に見えない形で私たちを包み込み、賛美へと導くように、神様もまた、私たちの背後から、あるいは私たちの心の奥底から、常に私たちを支え、導いてくださっています。

その導きは、時には力強い励ましとして、時には深い慰めとして、またある時には、私たちの知らぬ間に備えられた奇跡として、私たちの人生に響き渡ります。それは、私たちが「自分の力で歩んでいる」と思っている道のりも、実は神の変わらぬ愛と恵みによって支えられ、守られているのだという真理を教えてくれているかのようです。コンサートホールでは、オルガンの演奏そのものが鑑賞の対象であり、主役です。

しかし、教会では、オルガンは私たちを神へと向かわせるための媒介であり、神の臨在と恵みを音で証しするものです。それは、私たちが目に見えるものに心を奪われることなく、目に見えないけれど確かに存在する神の導きと愛に信頼し、歩んでいくよう促しているのです。私たちの人生がどのような天候に見舞われようとも、主イエス・キリストの十字架と復活という確固たる真理は揺らぐことはありません。教会に響くオルガンの音色は、その変わることのない神の真実を、私たち一人ひとりの心に深く、優しく、そして力強く語りかけているのです。

2025年10月25日土曜日

朝ラン26キロ完走、そして熊発見!!!

 


いつものように始まった朝のランニングが、忘れられない特別な体験に変わりました。

夜が明けた早朝6時前、私は尚絅学院中高方面へ向けて軽快に走り出しました。今日のコンディションは上々。しかし、この穏やかな時間が一変する出来事が待っているとは、知る由もありませんでした。

 

子熊を見かけた場所!!!

静寂を破る、突然の出会い

霊屋橋に差し掛かったその時、広瀬川の中に、一頭の子熊が川の中を歩いているのです。

走るスピードを落として視線を熊の動きに固定させてゆっくり走りました。これまで和歌山では野生のシカ、サル、イノシシなどを見かけたけど熊は初めて。写真を撮ろうにも、その余裕はありません。近くで犬の散歩をしていたお年寄りと「熊ですよね?」と顔を見合わせているうちに、子熊はあっという間に藪の中へと姿を消してしまいました。

私は再び走り出しました。すると今度は、花壇自動車学校の周辺をパトロール中のパトカーが2台。迷わず駆け寄り、先ほどの熊の目撃情報を伝えました。

 


近くには東北大学の陸上競技場があり、朝練に励む学生たちの活気ある声が聞こえていました。しかし、私が帰り道に同じ場所を通った時には、グラウンドは静まり返り、誰一人いませんでした。おそらく、警察官からの注意喚起を受け、練習を中断したのでしょう。先日の大手町での5頭の目撃情報もあり、あのうちの1頭だったのかもしれません。一つの出来事が、多くの人々の行動に影響を与えた瞬間でした。

 


26kmの走破と、心に湧き上がる想い

ハプニングはありましたが、今日のランは無事に26キロを走破。走り終えた後の爽快感は格別で、生命の息吹と日常のすぐ隣にある非日常を体感した、実に味わい深い朝となりました。空を見上げれば、清々しい青空が広がっています。しかし、天気予報では明日は雨。全国女子大学駅伝が開催されるというのに、少し残念な気持ちになります。もちろん私には直接関係ありませんが、選手たちには最高のコンディションで走ってほしい、と願うばかりです。

 


ブレーキをかける勇気

そんなことを考えながら、明日の自分のランニングは休むことを決めました。4日続けて走らない、という自分の中のルールがあるからです。(でも守ったことはない!)

 


無理せず、焦らず、そして時にはしっかりとブレーキをかける。

そうして自分の体と向き合い、長く、楽しく走り続けること。今日の出来事を通して、その大切さを改めて感じています。いろいろなことがあった朝でしたが、今日も一日、頑張って生きていこうと思います。皆さんも、どうか安全で素敵な一日をお過ごしください。

2025年10月23日木曜日

朝ラン25キロ完走とハクチョウ

 


🕊️導かれた朝──白鳥と祈りの道

今朝のランは、少し遅めの6時前にスタート。 通勤の車が増え始める時間帯、街はすでに動き出していた。 走り出すと、全国女子大駅伝に向けてか、若い女子ランナーたちの姿が目に入る。 大手町付近で目撃された熊はまだ捕獲されていないようで、今日はその方面には向かわず、東北大学の前を通り、荒井方面へ。 4号線にはすでに多くの車が走っていた。 今日も、生きるための、頑張るための走りだ。

 


気づけば、田んぼ道に入っていた。 この道は、まるでサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路のような雰囲気をまとっている。 今度の巡礼ルートには山はないが、延々と続く道を歩くことになる。 先が見えない道──それは人生そのものかもしれない。 そんなことを考えながら走っていると、空に白鳥の群れが現れた。

 


30羽ほどのハクチョウたちが、見事なV字編隊で北上していた。 もしかして、何かを通り過ぎてしまったのか? そんな想像をしながら、写真を撮った。 美しい。 自然の秩序と力強さが、空に描かれていた。

 


今日は休もうかと思っていたが、走り出してよかった。 この道を選んでよかった。 もしかして、導かれたのかもしれない──いや、きっとそうだろう。 感謝の気持ちが、胸いっぱいに広がった。

 


快晴の空。 冷たいけれど澄んだ朝の空気。 今日も、頑張って生きること。 それが、私に与えられた使命なのだ。

 

2025年10月22日水曜日

使命としての朝──希望を灯すランニングの時間

 


🌅使命としての朝──希望を灯すランニングの時間

午前125分、静寂の中で目覚める。 まだ世界が眠っている時間に、私は一人、祈りとルーティンを終え、4時前にランニングへと出発した。

 


今日のコースは、大手町から卸町、荒井、小泉、そして広瀬橋へ。 32キロの道のりを走り抜ける中で、風景は少しずつ語りかけてくる。 収穫を終えた田んぼの静かな姿が目に入ると、「今年の実りは満足だっただろうか」と、ふと問いかけたくなる。 自然は何も語らないけれど、その沈黙の中に、確かに何かが宿っている。

 


走りながら、昨日作ったチキンサラダのことを思い出す。 冷蔵庫に冷やしておいたのに、きっと妻はレンジで温めて食べるだろうな──そんな日常の小さな想像が、なぜか心を和ませてくれる。(予想した通り、レンチンして食べた、とのことです。)

 


曇り空の下、ほんの少しの光が差し込む瞬間があった。 そのわずかな光が、人の心に希望を灯すことがある。 今は、希望を持つことが難しい時代かもしれない。 戦争、孤独、経済の不安、そして心の疲れ──それでも、私たちは希望を求めている。 いや、真の希望を必要としている

 


今日、生きること。 それはただの選択ではなく、使命だ。 そしてその使命は、ただ生きるだけではなく、正しく、一生懸命に生きること。 誰かのために、祈りながら、走りながら、働きながら、心を込めて生きること。

 


この朝のランニングは、ただの運動ではない。 それは、自分自身を整え、世界に向かって小さな光を灯すための祈りの時間なのだ。