2025年11月30日日曜日

闇に輝く希望の光を待ち望む

 


闇に輝く希望の光を待ち望む

― アドベントが告げる、主の到来

 

本日より、私たちは教会暦における新しい一年、アドベント(待降節)の時に入ります。アドベントとは、ラテン語の「アドベンタス」(到来)に由来し、今から二千年前、この世に救い主としてお生まれになったイエス・キリストの最初の到来を覚え、そしてやがて再び来られる主の再臨を待ち望む、希望と準備の季節です。この特別な四週間、私たちの心は、主イエス・キリストの光によって照らされることを切に願う期間となります。

 


アドベントは、まさに「闇の中に光を待つ」季節です。一年で最も日が短くなり、寒さが深まるこの時期に、私たちは人類の歴史が長く深い闇の中にあった時代を思い起こします。人々が神の恵みから遠ざかり、罪と絶望の中にあった時、神は約束された救い主を送るという希望の御言葉を与えられました。その約束が、一人の幼子としてこの世界に現れたイエス・キリストによって成就されたのです。このアドベントの期間に私たちが灯すローソクの光は、まさにその希望の象徴です。一本また一本と灯されていく光は、キリストの光が世界を満たしていく様子を表し、私たちの心にも主の光が宿るよう招いています。

 


しかし、アドベントは単なるロマンチックな準備期間ではありません。それは、私たちが本当に待ち望んでいるものは何か、そしてその到来のためにどのように心と生活を整えるべきかを問い直す、深い霊的な時でもあります。私たちは、この世の様々な情報や物質的な誘惑によって、心が散漫になりがちです。クリスマス商戦の賑わいは、時に私たちを本来のクリスマスの意味から遠ざけてしまうかもしれません。しかしアドベントは、そうした喧騒から一歩退き、静かに自らの内面を見つめ、救い主を迎え入れるための心の準備をするよう私たちに促します。

 

初代教会の時代から、クリスチャンたちは主の再臨を待ち望んできました。それは単なる漠然とした希望ではなく、必ず実現する神の約束への揺るぎない信頼に基づいています。私たちもまた、日々の生活の中で、主イエス・キリストが再び来られるその日を意識して生きるよう召されています。使徒パウロはテサロニケの信徒たちに「あなたがたは、闇の中にいるのではなく、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」(テサロニケの信徒への手紙一 54節)と語りかけました。私たちは闇の子ではなく、光の子として、主の到来を覚悟して生きるべきなのです。

 

では、私たちはどのようにしてこのアドベントを過ごすべきでしょうか。それは、祈り、聖書の御言葉に耳を傾け、隣人への愛の実践を通して、心を整えることです。

 


第一に、祈りです。 日々の忙しさの中で忘れがちな神様との対話を、この機会にもう一度大切にしましょう。静かな時間を見つけ、神様に心を注ぎ出し、その御声に耳を傾けてください。

第二に、聖書の御言葉です。 特に旧約聖書の預言の箇所や、新約聖書の福音書に記されているイエス様の誕生の物語、そして再臨に関する箇所を丁寧に読んでみましょう。御言葉は私たちの心の闇を照らし、希望を与えてくれます。

 

第三に、愛の実践です。 神は私たちを愛するゆえに、御子イエス・キリストを与えてくださいました。その神の愛に倣い、周囲の人々、特に助けを必要としている人々に目を向け、愛と奉仕の心を持って接しましょう。

 

アドベントは、私たちに「目を覚ましていなさい」と呼びかけます。それは、この世の儚いものに心を奪われることなく、永遠の希望であるイエス・キリストに心を向け、その光を自分の人生に、そして世界に迎え入れる準備をするということです。

このアドベントの時、皆様一人ひとりの心に、主イエス・キリストの真の平和と希望の光が豊かに灯されますよう、心からお祈り申し上げます。

 

2025年11月29日土曜日

心を一つにする力

 


心を一つにする力 〜不安な時代だからこそ〜

木々が色づき始め、朝晩の空気に秋の気配を感じる季節となりました。こうした変わり目には、心が落ち着かず、漠然とした不安を覚える方もいるかもしれません。世界では対立や困難が絶えず報じられ、私たちの暮らしにも不安の種が尽きません。そんな時代だからこそ、「心を一つにすること」の大切さを改めて思います。

家庭、職場、地域社会、そして世界において、私たちの考え方は多様です。その違いが時に分断を生みますが、歴史を振り返ると、人々が心を一つにした時にこそ、大きな力が生まれ、新しい未来が開かれてきました。聖書にもその力が記されています。イエス・キリストが十字架にかかり復活された後、弟子たちは「地の果てに至るまで、私の証人となりなさい」との使命を託されました。しかし彼らは、悲しみと恐れに閉ざされ、エルサレムの小さな部屋に閉じこもっていました。



そんな彼らが最初の一歩を踏み出したのが、マルコの屋根裏部屋でした。そこに集まった約120人が「心を一つにして、ひたすら祈りに専念していた」と使徒行伝は伝えています。彼らは、イエス様を信じた女性たち、裏切った弟子たち、信じきれなかった兄弟たちなど、背景も関係性も異なる人々でした。それでも彼らが心を一つにできたのは、切迫した状況と、イエス様の「聖霊が下る」という約束を信じて祈り続けたからです。聖書は「兄弟たちが心を合わせて共にいることは、なんと良いことでしょう、なんと美しいことでしょう」(詩篇133:1)と語ります。

ここでの「良い」とは神の目的に沿うこと、「美しい」とは心が満たされる状態です。異なる人々が、共通の希望のもとに祈り続けた結果、聖霊が降り、彼らは力強く福音を宣べ伝え始めました。これが教会誕生の瞬間であり、キリストの愛と希望が世界に広がる転換点となったのです。私たちの日常にも、意見の違いや摩擦はあります。けれど、完璧な関係を築くことよりも、共通の願いや希望を見つけ、心を一つにして協力することが大切です。そして、自分の力ではどうにもならない時こそ、神様に祈り、助けを求めること。


神様は、私たちの弱さを知り、心を一つにして求める時に、必ず道を開いてくださいます。たとえ小さなグループでも、同じ思いを持つ人々が神の言葉に集中するならば、世界を変えるような新しい歴史が始まります。私たちも身近な人との関係の中で、共通の目標を見つけ、心を一つにして歩んでみませんか。祈りの中で神様とのつながりを深めるその一歩が、きっと大きな変化をもたらすことでしょう。神様の豊かな祝福が、皆様の上にありますように。

2025年11月28日金曜日

祈りの旅エピソード②

 


🌄 祈りの旅エピソード

「迷い道の先に見えた光」

巡礼の旅に出ると、思いがけない出来事に出会います。 それは、地図にもガイドブックにも書かれていない、心の旅路でもあります。


🌌 暗闇の中で、道を見失う

まだ夜が明けきらない早朝、私は巡礼路を歩いていました。 頼りにしていた黄色い矢印が、ふと見えなくなった瞬間、 気づけば、まったく違う方向へと進んでいたのです。

「おかしいな」 そう思いながら、スマートフォンを取り出し、グーグルマップを開きました。 でも、今回の旅で気づかされたのは、グーグルマップも万能ではないということ。

地図が示す道は、なんと線路を横切るルート。しかも、そこには柵があり、通れない。 「これは違う」と思いながらも、私は早足で進んでしまい、気づけば5キロも道を外れていたのです。 戻るには、さらに5キロ。つまり、10キロ分の迷い道

 


🌅 夜明けとともに見えたもの

グーグルマップを閉じ、今度はアップルマップを開いてみました。 すると、ようやく正しい巡礼路が見えてきました。 そのとき、ちょうど夜が明け始めたのです。

2時間の迷いの中で、夜が明けた。 その光景は、まるで神さまが「大丈夫、ここに道があるよ」と 静かに語りかけてくださっているようでした。

🚶‍♂️ 歩き続けるしかなかった日

この日は、田舎道が続く「銀の道」。 他の巡礼路では、早朝から開いているカフェやレストランで休憩できたのに、 この道には、開いている店が一つもありませんでした。

だから私は、脚を止めずに40キロを歩き続けました。 迷った分、前に進みたかったのかもしれません。 でも、心の中には不思議な平安がありました。 「迷っても、ちゃんとたどり着ける」と信じていたからです。

🧭 迷いはあっても、目的地にたどり着けばいい

私は巡礼路でよく迷います。 でも、最終的には誰よりも早く目的地にたどり着くことが多いのです。 だから、こう思うようになりました。

「途中で迷うのは仕方ない。大事なのは、正しく目的地にたどり着くこと。」

 


🙏 人生という巡礼路

これは、私たちの人生にも言えることではないでしょうか。 人生に迷いはつきものです。 進むべき道が見えなくなったり、間違った方向へ進んでしまったり。 でも、それは決して恥ずかしいことではありません。

大切なのは、最終的にどこへたどり着くかです。 私たちキリスト者にとっての目的地は、天の御国。 神さまが用意してくださった、永遠のふるさとです。

✝️ 信仰という唯一の地図

この目的地にたどり着くためには、 グーグルマップも、アップルマップも、役には立ちません。 必要なのは、信仰という地図です。

聖書はこう教えています。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6

イエス・キリストを信じる信仰こそが、 私たちを天のふるさとへと導く、唯一の確かな道しるべなのです。

 


🌱 おわりに

迷いの中で夜が明けたあの朝のように、 人生の暗闇の中にも、必ず光は差し込みます。 たとえ遠回りをしても、神さまは私たちを見捨てず、 やがて正しい道へと導いてくださいます。

だから、迷っても大丈夫。 信仰をもって、今日も一歩ずつ歩んでいきましょう。 目的地は、神さまが待っていてくださる場所。 そこへ向かって、共に歩んでいきましょう。

 

朝ラン19キロ完走。

鶏むね肉料理

🌅 早朝のキッチンと広瀬川の白鳥たち 〜祈りと学びの朝に〜

まだ夜の名残が空に残る、静かな早朝。 5時前、娘のお弁当の一品をこしらえてから、ランニングシューズの紐を結びました。 外はまだ暗く、空気はひんやりと澄んでいて、まるで一日の始まりを告げる祈りのよう。

 

5時半、走り出すと、自然と脚は西公園方面へと向かっていました。 久しぶりに尚絅学院中高の周辺を走り、懐かしい景色に心が和みます。 帰り道、広瀬川沿いに差しかかると、ふと水辺に目が留まりました。 そこには、なんと30羽のハクチョウたちが静かに羽を休めていたのです。 思わず数えてしまいました。たぶん、そんなことをする人はあまりいないでしょうね。 でも、私は数えてしまう。

 


🦵 膝の痛みと、祈りの旅の余韻

最後の2キロあたりから、膝に少し痛みが出てきました。 実はこれ、毎年「祈りの旅」から帰ってきた後に走ると、決まって感じる痛みなんです。 体がまだ旅の疲れを覚えているのでしょうか。 明日は無理せず、休むことにしました。 経験上、一週間ほどで回復すると分かっているので、焦らず、時を待ちます。

「待つ」というのは、信仰の中でも大切な姿勢ですね。 神様の時が満ちるのを信じて、静かに、でも確かに、前を向いて歩んでいきたいと思います。

 


🎄 クリスマス・コンサートと「学び続ける心」

さて、もう一つの嬉しい知らせ。 ようやく、クリスマス・コンサートのプログラムが印刷所から発送されたとの連絡がありました。 実は、プログラムを作るよりも大変なのが、印刷会社とのやり取りなんです。 微妙なレイアウトのズレや、思わぬ不備の指摘。 「いっそ自分で印刷した方が早いのでは?」と思ったこともあります。

でも、これもまた学びの機会。 「自分にはできない」と決めつけるのではなく、 「やってみたい」「学んでみたい」と思う心は、心と体の健康にもつながると感じています。 失敗してもいい。そこから何かを得られるなら、それは祝福された経験です。

 


🌍 混沌の中で、どう生きるか

それにしても、世界は相変わらず混沌としています。 戦争は終わらず、国と国との対立も続いています。 報復の言葉が飛び交い、政治家の一言で多くの人々が苦しみに巻き込まれていく。 力のない者が押しつぶされ、力ある者だけが生き残るような、そんな時代です。

それでも、私たちは生きなければなりません。 なぜなら、この命は神様から与えられたものだからです。 だからこそ、私は毎日、自分に問いかけます。

「今日、私はどう生きるべきか?」 「神様の前で、正しく、清く、誠実に生きているだろうか?」

 


🕊️ おわりに

朝のランニングも、印刷のやり取りも、世界のニュースも、 すべては「生きる」という一つの線でつながっています。 そしてその線の先には、神様の御手があると信じています。

今日もまた、与えられた一日を、感謝とともに走り出しましょう。 たとえ膝が痛くても、心は前を向いています。 神様がともにいてくださるから、大丈夫。 私たちは、希望をもって生きることができるのです。



  

2025年11月27日木曜日

久しぶりの早朝のランニング25キロ完走

 


🌅「走る道、選ぶ道、信じる道」

今朝は久しぶりに、早朝のランニングに出かけました。 スタートは午前4時半。まだ夜の名残が空に残る静かな時間です。

 

走り慣れた道を進むと、心が軽くなります。 どこに坂があるか、どこで風が吹くか、どこに猫がいるかまで、だいたい分かっているからです。 慣れた道には安心感があります。

けれど、そこには新しい発見や驚きはあまりありません。

 

一方で、初めての道を走るときは、少し不安になります。 「この先はどうなっているのだろう?」 でもその不安の中には、確かにわくわくする気持ちが潜んでいます。 未知の世界に足を踏み出すとき、心は静かに高鳴るのです。

 

私たちは、しばしば「安心」と「冒険」の両方を手に入れたいと願います。 でも現実には、どちらかを選べば、どちらかを手放さなければならないこともあります。 それでも人は、両方を追い求め、時に迷い、時に傷つきながら、人生という道を歩んでいきます。

どの道を選ぶのか? 安全な道か、それともリスクを伴う冒険の道か? その選択は、誰かが代わってくれるものではなく、自分自身が決めることです。

 


🌍「人生という冒険」

考えてみれば、人生そのものが冒険の連続です。 私たちはこの罪に満ちた世界に生まれ、戦争や争い、悲しみや不安の中を生きています。 学校を選び、仕事を選び、誰と人生を歩むかを選ぶ。 その一つひとつが、未知への一歩であり、勇気ある決断です。

そして、神を信じて生きることもまた、大きな冒険です。 今の時代、多くの人が神を必要としないかのように生きています。 でも、実はそれこそが、最も大胆な冒険なのかもしれません。なぜなら、私たち人間の出発点は、神の御手の中にあるからです。 たとえそれを認めなくても、神の言葉である聖書は、はっきりと語っています。 私たちは、神によって創られた、かけがえのない存在なのです。

 


✝️「希望の道を走る」

私たちは皆、罪を抱えて生きています。 そのままでは、聖なる神と共に歩むことはできません。 そして、自分の力だけでは、その罪を解決することもできません。

だからこそ、神の御子イエス・キリストが来られたのです。 私たちの罪を背負い、十字架で命を捧げ、赦しと永遠の命への道を開いてくださいました。 これこそが福音(グッドニュース)、すべての人への希望の知らせです。

🎄「アドベントを迎える心で」

来週から、アドベント(待降節)が始まります。 救い主イエス・キリストのご降誕を待ち望む、特別な季節です。この時期、私たちは思い出します。 神が人となってこの世界に来られたという、驚くべき出来事を。 それは、私たち一人ひとりのために、神が用意してくださった愛と救いの物語です。

 


🌱「生きること、それは信じて進むこと」

人生は、時に不安で、時に困難に満ちています。 でも、神が共におられるなら、私たちは希望をもって生きることができるのです。

 

生きること。精一杯に生きること。 神様のために、隣人のために、そして自分自身のために。 今日という日を、信仰と感謝をもって走り抜けましょう。

 

2025年11月26日水曜日

11月30日週報コラム

 


孤独の山を越えて――『孤独のススメ』(Matterhorn)が描く赦しと再生

 

そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。(マタイ25:34~)

 


人生には、予期せぬ出会いが、凍てついた心を解き放ち、新しい光をもたらすことがあります。映画『孤独のススメ』(原題:Matterhorn)は、その奇跡のような瞬間を、静かな笑いと深い余韻の中に描き出す物語です。観終わった時、きっとあなたの世界も少し違って見えるでしょう。舞台はオランダの小さな村。主人公フレッドは、妻に先立たれ、息子ヨハンとも絶縁状態。厳格なカルヴァン派の信仰に従い、規則正しい孤独な日々を送っています。隣人との交流を避け、自ら殻を作って生きる彼のもとに、ある日、謎の男テオが現れます。言葉も通じず不法侵入まで試みるテオですが、その純粋さと憎めない人柄に、戸惑いながらもフレッドは少しずつ心を開いていきます。二人は言葉の壁を越え、共有する孤独の痛みの中で奇妙で温かな共同生活を始め、やがて深い絆を育んでいくのです。

 


この物語の冒頭とラストに響くのは、J.S.バッハ《マタイ受難曲》より《Erbarme dich, mein Gott(憐れみたまえ、わが神よ)》BWV 244。ペテロがイエス様を三度否認した後、涙ながらに悔い改める場面で歌われるこのアリアは、罪の自覚と赦しへの切なる願いを旋律に乗せ、フレッドの内面を映し出します。冒頭では宗教的な厳格さと凍りついた心が示され、終盤では赦しと自由な自己表現が描かれる――その構成は、まるで受難から復活への道程のようです。物語が進むにつれ、村人たちの偏見に囲まれながらも、フレッドはテオとの関わりを通して再び他者と向き合い始めます。そして訪れる息子ヨハンとの再会。クラブのステージでヨハンが歌う「This Is My Life」は、父の価値観から解放された彼の人生宣言。その歌声に拍手を送り、「ヨハン!」と叫ぶ瞬間、フレッドは父として、信仰者として、そして一人の人間として新たに生き返ったのです。

 


テオはマタイ25章に登場する「旅人」のような存在です。「わたしは旅人であったのに、あなたたちはわたしを宿に迎えてくれた」(25:35)。当初は律法主義的な厳しさに傾いていたフレッドが、偏見を手放しテオを受け入れる行為は、神が求める隣人愛の実践でもあります。それは、神と隣人への愛という普遍的な真理に立ち返る旅であり、「自己の解放」の物語です。物語の最後、フレッドとテオはマッターホルンを登ります。亡き妻にプロポーズした思い出の場所であり、彼の人生の原点でもあるその山は、過去の痛みと向き合い、赦しと愛によって新たな命へ踏み出す象徴です。《Erbarme dich》が告げた霊的な旅路は、頂での静かな光によって完成します。『孤独のススメ』は私たちに問いかけます。あなたの隣にいる、あるいはこれから出会う「異邦人」に、あなたはどう接するだろうか。この温かな物語は、最も小さき者にこそ神がおられることを、静かに、しかし力強く教えてくれるのです。主イエス・キリストは、すべての人の真の隣人となるために、この世に来られました。 その愛は、ただ近くに寄り添うだけでなく、ご自身のすべてを惜しみなくささげるというかたちで現されました。この待降節の歩みの中で、私たちも静かに問われています。 「あなたは、何をささげることができるだろうか?」 それは、物や時間だけでなく、心の深いところにあるものかもしれません。 主の問いかけに、私たちが誠実に応えることができますように。

朝の失敗を「祝福」に変える方法 ~心のスイッチを切り替える~

 


朝の失敗を「祝福」に変える方法 ~心のスイッチを切り替える~

 

「しまった……」 ある朝、目覚めの小さな一言がきっかけで、家族と気まずくなってしまう。そんな経験はありませんか? 悪気はなかったのに、売り言葉に買い言葉で喧嘩に発展してしまう。あるいは、何気ない一言を相手が悪い意味で受け取ってしまい、空気が重くなる。私たち人間は、感情を持った弱い存在です。時には、はっきりしない言葉をネガティブな方向に解釈してしまい、自分で自分を苦しめてしまう弱さも持っています。

 

一日の始まりにつまずくと、「今日はもうダメだ」と、すべてが台無しになったように感じるかもしれません。それが「悪の連鎖」の始まりです。

 

しかし、諦めないでください。 たとえ失敗から始まった朝であっても、それを「祝福された一日」へと造り変えることは可能です。

 

その秘訣は、**「断ち切る勇気」と「信じる心」**にあります。

 

まず、**「断ち切る」**こと。 家を出たら、朝の失敗をいつまでも反芻するのはやめましょう。後悔の念を一度ストップさせるのです。そして、今目の前にある仕事やなすべきことに、誠実に向き合ってみてください。 その上で、一呼吸おいて、傷つけてしまった家族に「ごめんね」とメッセージを送ってみましょう。SNSの一行でも構いません。心からの謝罪は、悪の連鎖を断ち切る強力なハサミとなります。

 

そして、ここからが一番大切な**「信仰」**の出番です。

 

勇気を出して謝っても、相手の機嫌がすぐに直らないこともあるでしょう。返信が来ないかもしれません。すると、「やっぱりダメか」と再び心が沈んでしまいそうになります。 けれど、そこで不安になる必要はありません。 「結果を神様に委ねる」――これが信仰を持って生きるということです。

 

あなたが誠意を伝えたのなら、あとは相手の心に神様が働いてくださると信じて待つのです。「今はまだ怒っているかもしれないけれど、神様が必ず平和な時を返してくださる」と希望を持って、堂々と残りの時間を生きてください。

 

自分の思い通りに相手を変えようとするのではなく、神様の時(タイミング)を信じて委ねる時、私たちの心から「焦り」や「不安」が消え、不思議な「平安」が訪れます。

 

今日の失敗は、終わりではありません。それは、神様の恵みを深く知るための新しいスタートラインです。 さあ、顔を上げて。ここから、最高の一日を始めていきましょう。

 


「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」 (フィリピの信徒への手紙 46-7節)

2025年11月25日火曜日

続く時差ボケの日々

 


夜空の星に願いを、そして心に灯る希望の光

祈りの旅から帰国してまだ3日、時差ぼけが織りなす時間の歪みは、体が馴染むまでの「待つ時間」という恵みかもしれません。焦らずに、ただその時を待つこと。

 私たちは皆、それぞれの速度でこの人生を歩んでいます。待つことに慣れた人は、その時間を宝物のように使います。目的は待つこと自体ではなく、その間にも心の泉を潤し、次のステップへの準備をするのです。一方、焦りがちな人にとっては、ほんの数秒でさえ永遠のように感じられるかもしれません。しかし、どちらの生き方も、この「時間」という贈り物をどう使うかにかかっています。私たちは、置かれた状況の中で、どのように心を整え、時を活かすことができるでしょうか。

 今朝、娘を駅へ、妻をバイト先へ送り届けながら、私はせわしなく行き交う人々の姿を目にしました。誰もがそれぞれの目的地へと急ぎ、共通して「時間に追われている」ように見えます。定刻に始まる学校や仕事、締め切りに間に合わせるための日々。私たち人間は不思議なもので、その「時間に追われる」という緊張感の中でこそ、学びを深め、仕事を成し遂げていくものです。締め切りは、私たちの背中を押し、新しい創造へと駆り立てる重要な要素。それは時に私たちの弱さを示すようでもありますが、同時に、私たちを前へ、前へと動かし続ける力でもあります。

 しかし、この奔走する日々の真ん中で、私たちは大切な問いにぶつかります。時間に追われながらも、どうすれば心に余裕を持てるのか?これは矛盾でしょうか?決してそうではありません。不可能でもないのです。

 


【時間の中に見出す「心の聖域」】

 時間に追われる日々の中で「心の余裕」を持つことは、まるで嵐の中の静けさを見つけるようなものかもしれません。しかし、それは決して夢物語ではなく、日々の小さな選択と意識の積み重ねによって築かれます。

 「微かな感謝の呼吸」の習慣: 一日の始まりや、タスクとタスクの間のほんの数秒で良いのです。深く息を吸い込み、吐き出すたびに、今この瞬間に与えられている恵みや、自分が成し遂げた小さなことへの感謝を心に唱えてみてください。この「微かな感謝の呼吸」は、まるで魂のスイッチを切り替えるように、瞬時にあなたを時間の流れから解放し、心の中心に穏やかな聖域を創り出します。

 「目的の光」を灯す: あなたの仕事や日々のタスクが、単なる作業ではなく、誰かの笑顔や喜び、未来への貢献へと繋がっていることを意識してください。一つ一つの行動に「目的の光」を灯すことで、外から押し寄せる時間という圧力は、内から湧き上がる使命感へと変わります。追われるのではなく、自ら進む力となるのです。

 

「信仰の錨」を下ろす: 忙しさの中で心がざわつく時、信頼できる存在、信仰の源へと意識を向けてみましょう。神の御手の中にすべてを委ねる時、私たちの心には深い平安が訪れます。自分の力だけではどうにもならないことも、大いなる存在が導いてくださると信じる時、肩の荷が下り、心が軽くなるのを感じるでしょう。この信仰こそが、どんな時も心の余裕を保つ、最も強固な錨となります。

 心の余裕とは、時間の量ではなく、心の質の問題です。忙しいからこそ、意識的に心を整え、内なる平安を見出す努力が、私たちを真に豊かな人生へと導きます。

 そして、祈りの旅からの帰還と共に、約11か月にわたる家族との新しいルーティンが始まりました。ロピアで夕食のメニューを考え、買い物をし、帰宅しては仕事に向かい、夕食を用意する日々。これは、来年の10月までの私が選んだ、感謝と奉仕の道です。

 

今、目の前には大きな課題が横たわっていますが、これもまた、我が家に与えられた恵みとして受け止めています。家族にとって「最大のピンチ」と呼べるかもしれません。しかし、私たちはこれを「最大の恵みの時」として抱きしめています。なぜなら、私たちキリスト者にとって、一番大切なのは「信仰」だからです。信仰によって生きること、そして最後は信仰によって天に召されること。これこそが、最高の人生ではないでしょうか。

 素敵な人生とは、最後の幕引きで決まるのではありません。それは、日々の歩みの中で、どれだけ希望を持ち、愛を分かち合い、困難の中にも光を見出し、神への感謝と共に生きたかによって紡がれていくものです。悲しみや試練のただ中であっても、私たちの心には決して消えることのない希望の光が灯っています。

 


さあ、顔を上げましょう。あなたの人生は、今この瞬間も、神の祝福に満ちた素晴らしい物語の途中です。

2025年11月24日月曜日

2025 祈りの旅エピソード①

 


痛む足と、心に灯る希望の光

サンティアゴ巡礼の道は、時に試練を与えます。ある日、48キロもの道のりを歩き終え、たどり着いた街のアルベルゲで、私は一人のイタリア人女性に出会いました。彼女の足は痛々しく腫れ上がり、「これ以上は歩けない」と、その声には絶望が滲んでいました。翌日にはバスでサラマンカへ戻り、病院で診察を受ける予定だという彼女は、痛む足でレストランへ行くことすら叶いません。

荷を解き、シャワーで汗を流した私は、街へ出て昼食をとりました。その帰り道、先ほどのレストランで、軽食にぴったりのタパスを二つ買い求め、アルベルゲへと戻りました。痛みと疲労で俯く彼女に差し出すと、その顔に一瞬、安堵の光が宿り、深く感謝してくれました。その夜は、私も静かに眠りにつきました。このアルベルゲは、私にとって二度目の滞在でした。



巡礼が結ぶ、海を越えた縁

翌朝、地下室で朝食をとっていると、自転車巡礼の男性と、そして彼女が降りてきました。食卓を囲む前に、私の部屋のドアには、昨日のお礼にと、一つのチョコレートと手書きのメモがそっと置かれていました。その心遣いに、じんわりと温かいものが込み上げます。

朝食を共にしながら、私たちは言葉を交わしました。驚いたことに、彼女は私より一つ年上で、3人の息子の末っ子さんが、なんと東京でトヨタ自動車に勤め、奥様と暮らしているというではありませんか。来年2月には、その息子さんを訪ねて日本へ来る予定だと聞き、遠く離れたスペインの地で、まるで故郷の縁に触れたような不思議な高揚感に包まれました。話は尽きることなく盛り上がり、笑顔がこぼれます。


ささやかな別れと、確かな友情

やがてバスの時間が迫り、アルベルゲの前で私たちは別れを告げようとしました。その時、同席していた男性からの提案で、三人で記念撮影。これもまた、巡礼の道がくれた、かけがえのない思い出です。

そして、彼女の痛む足で重い荷物を背負ってバス停まで行くのは無理があると感じた私は、彼女の荷物を持ち、共にバス停まで歩くことにしました。少し時間があったので、隣のカフェでコーヒーを飲みながら語り合い、バスの到着とともに、本当の別れが訪れました。「いつか、私の故郷イタリアのトリノにも来てね」。その言葉が、巡礼の道の終わりに温かく響きました。

その後、何回かWhatsApp(ヨーロッパでは主流のメッセージアプリです)で連絡を取り合いました。残念ながら、病院での診断は1ヶ月間の治療が必要というもので、彼女は翌日にはイタリアへ帰国することになったそうです。

共感の先にある、真の希望

巡礼の旅は、まさに人生の縮図です。様々な人に出会い、それぞれの物語に触れ、そして自らの経験と重なる出来事に直面します。私自身が経験した困難を乗り越えている人々と語り合うとき、その対話は深く、心を揺さぶります。なぜなら、そこには「共感」があるからです。同じ痛みを、同じ喜びを、同じ道を経験した者同士の共感は、何よりもリアルで、魂を揺さぶる力を持っています。

私たちキリスト者にとっても、この「共感」は非常に重要です。私たちの中心には、主イエス・キリストがおられます。私たち罪人のために十字架にかかって死んでくださった方を救い主として受け入れた者同士、共通の苦しみから解放された者同士の共感は、まさに格別です。そこから生まれるのは、単なる慰めではなく、揺るぎない「真の希望」です。永遠の命への希望、そしてその命に与った者たちが、神を愛し、隣人を自分のように愛するという、主が示してくださった同じ方向へと人生を進めていく使命への道です。

今日も私は、その使命を胸に、あと2時間後に始まる納骨式へと臨みます。

昨日、愛犬ノアもまた、S兄姉から美味しいおやつをいただきました。日常のささやかな恵みにも感謝です。

 

サンティアゴ、18日間の祈りの旅を終えて


闇を抜け、光の中へ。サンティアゴ、18日間の祈りの旅を終えて

長かったようで、あっという間だった18日間の祈りの旅。先週の土曜日、午後1811分、私は見慣れた長町駅のホームに降り立ちました。羽田から飛び立ち、マドリードの地を踏み、そして成田へと帰国する。その道のりは、神様に守られた恵みの時間であると同時に、小さな冒険の連続でもありました。

 


帰国、そして娘からの甘いミッション

帰りの成田空港で、私には娘から託された一つのミッションがありました。それは、彼女の大好きなクリスピー・クリーム・ドーナツを買って帰ること。しかし、調べてみると成田や上野に店舗はなく、大宮駅にあることが判明。帰宅ルートを少し工夫し、大宮経由で無事にドーナツを手にし、予定通りに教会へたどり着くことができました。旅の終わりに待っていた、甘くて愛おしい使命です。

 


巡礼の道、自分と向き合う時間

今回の旅も、エアーチャイナで北京を経由しマドリードへ。そこからバスと高速列車を乗り継ぎ、巡礼の出発点セビリアへと向かいました。

 


巡礼の道中は、実に順調でした。毎朝4時頃にまだ暗い中を歩き始め、祈りを捧げます。夜明けが訪れるのは8時頃。それまでの約4時間は、ヘッドライトの灯りだけを頼りに、漆黒の闇の中を進みます。この静寂こそが、何にも代えがたい恵みの時間でした。

 


一度歩き出すと、次の目的地まで8時間から10時間、休憩なしで歩き続けることも珍しくありません。雨が降ろうと、風が吹こうと、巡礼者は歩みを止めません。天候を理由に休むという選択肢はないのです。高原を越え、長い橋を渡り、時には車の行き交う道端をひたすらに歩きました。

 


巡礼を支えた「本当の秘訣」

「巡礼を最後までやり遂げる秘訣は、よく食べ、よく眠ることだ」とよく言われます。

 


しかし正直に言うと、私はそのどちらもできませんでした。スペインのレストランは夜20時以降に開くため、いつもその前に店で買ったサンドイッチで夕食を済ませていました。そして、夜中に何度も目が覚めてしまい、ぐっすり眠れた日は一日もありませんでした。

 


では、何が私を支えたのか。それは間違いなく「信仰」と「使命」でした。

 


この旅は、教会の子どもたち、教会員一人ひとり、そして教会に繋がるすべての兄弟姉妹のための「執り成しの祈り」の旅でした。特に、夜明け前の暗闇を一人で歩くとき、その祈りには切実さが加わり、より一層熱心になることができました。誰かと一緒では、決して得られない深い時間です。神様と静かに向き合い、自らの使命を再確認する、かけがえのない時間でした。

 


人は使命がある限り、どんな状況でも目的を達成できる。それが神様によって保障された使命であるならば、なおさらのことです。

 


日常という名の恵み、そして感謝

大きなトラブルもなく、主に守られて無事に帰国できたことに、心からほっとしています。そして昨日から、さっそく「日常」が始まりました。愛犬ノアの散歩、ランニング、掃除、買い物、そして今日からは料理も。妻や娘の送り迎え、ゴミ出し、タイヤ交換…。次々と再開される日々のルーティンがあることに、深い感謝を覚えます。

今日は教会墓地での納骨式です。