2022年8月31日水曜日

久々に自転車で走る

 もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、私とわたしの家は主に仕えます。(ヨシュア記24章)

 


昨日は富士山を雨の中で歩き、雨の中を車で走ったけれども、今朝は(午前1時頃)転車で往復約30キロのところに行ってきた。ある教会員のところに夜中に行ってある物をポストに入れて帰って来る一年一回の行事である。これまでは歩いて行ってきたが、今日は自転車で行ってきた。雨具を着て雨の中を走ると汗びっしょり。特に上り坂はきつい。けれども降りずに走り続ける。頑張って走ったために約1時間弱で到着。その後、すぐ帰途へ。帰りも約1時間弱で帰ってきた。自転車は普段使わない筋肉を使うので色々な意味でプラスになる。それで週1回は乗ることにしている。

 


人は人生の中で何度か大事な決断の時が訪れる。もちろん時や事の流れるままに特別な意味合いを与えず生きることもできるだろう。しかしありきたりの人生ではなく、特別な自分だけの人生を、生き方を望むならば決断して状況を変えることが出来る。上記の聖書でモーセの後継者であるヨシュアはイスラエルの民に決断を要求している。しかし彼はイスラエルのためにだけに要求したのではなく、自ら先に決断し、民自らが選ぶように選択権を与えたのである。これが指導者のもつべき姿である。無理矢理に強いるのではなく、相手に選択権を与える心広い指導者になるのが大事である。さらにもっと大事な事は自分が望んでない選択をしたとしてもそれを尊重する指導者になることである。そういう人を本当の意味で指導者と言えるのである。今はどこの国でも真の指導者が不在の時代である。指導者になるべきでない人が指導者になった場合、一番苦しむのはその指導者の下にいる人々である。ある意味、良い指導者の下で生きることが出来るのは恵みである。なぜなら良い指導者は自分よりはまず国民を、自分の下にいる人々を考えるからである。

 


今日はタイヤ交換。最後に約1000キロを走ったので感謝。今日も色々と仕事や来客などが予定されている。とにかく悔いのない今日の人生を精一杯に生きることである。

2022年8月30日火曜日

諦める勇気


 

モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」(出エジプト記341節~)



礼拝の後、週報発送の作業をしながら、明日は晴れ、夜も晴れという富士山の天気予報を見て登山を決めました。以前、静岡草深教会の頃、教会員に誘われて妻と一緒に吉田ルートから夜登って以来のことです。29日、午前中は佐藤長老と長老会の打合せがあり、午後1時頃教会を出て御殿場に向かいました。もちろん車です。二度目の富士登山のつもりで車で約6時間走りました。御殿場口新五合目駐車場に着いたのは午後7時半頃でした。しかし途中、御殿場に入ると雨が降り始めていたので大丈夫かなと考えながら駐車場に着くと約10台の車が停まっていました。真っ暗の中、皆は雨が止むのを待っている様子でした。しかし雨は止むことなく降り続けていました。せっかくここまで来たのに登らないのは気が済まない。少し様子を見ていたらある二人がヘッドライトをつけて登山を始めました。その時から心の葛藤が・・・登るべきか、止めるべきか・・結局、夜11時ごろ自分も支度をして雨の中を一人で登り始めました。周囲は真っ暗で、また雨と霧のせいでライトも遠くまでは照らさず足元だけを照らすことになりました。さらに延々と続く上り坂は砂道で普段の二倍以上の力と前に進むのは半分以下の程度でした。途中、目印の木が見えなくなり、上まで繋がっている綱も切れていて困った時もありました。その時には人の足跡を見て登って行きました。

しかしだんだん体力が落ちてしまい、さらに寒気も感じるようになりました。御殿場までの車の運転の疲れや休めなかったことなどが重なって本当に約20m歩いたら休まないと歩けない状態でした。結局、登り始めて約3時間の地点で山頂まで登ろうとする気持ちを抑えて諦めることにしました。場合によっては諦める勇気も必要であると気づいたひと時でした。登れなかった悔しさと無事に仙台に帰られるとの安心感が混じって複雑な気持ちでした。無事に下山して車の中で少し休み、午前4時頃仙台に向かいました。休みながら運転し、教会に着いたのは1030頃でした。これで教会員と家族に再会できることになりました。時々報道される遭難者の状況が少しは分かるようになったと思います。

今回、急に富士登山を考えたのは先週の教会学校の説教がきっかけになったからです。シナイ山で主と出会うモーセの姿を創造しながら、自分は石の板の代わりに聖書を携えて、そして教会員の名簿を持参して山頂で聖書を読み、一人一人のために祈るためでした。時には日本一高い山でそのように祈るのも良いと考えたからです。しかし祈る前に死ぬところでした。何とも言えない恥ずかしい結果となりましたが、これでやめるわけにはいきません。後日、もう一度挑戦することにしました。でも御殿場ルートは夜よりは朝の登山が良いかも知れません。今度は朝そして晴れの時に登ることにしました。

2022年8月28日日曜日

正義はいったいどこへ

 


アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」(創世記312-13節)

 

人間は生まれつき悪の性質をもっている。それを証明してくれるのが混じり気のない子どもたちの姿である。誰一人教えたのでも、見たのでもない状況の中で自分の過ちを人のせいにし、言い訳し、うそを言うからだ。今は合理化社会である。合理主義が人々がもっている主な思想である。つまり、自分には罪はないとのことだ。自分には過ちがないという。過ちがあったとしてもそれは自分以外の原因によって仕方なく過ちを犯したと言う。自分を取り巻く環境や状況のせいにする。

 


嘘をつけない人は政治家にはなれないと言う。言い訳や人のせいにするのは政治家の主な姿である。

しかしもっと悪いのはそれを見て黙っている国民である。だからこの国の政治家は国民を恐れない。

やりたい放題だ。どこまでやれるのかは分からないが、そういう環境で育てている子供たちが可哀そうだ。正義と真実が消え去り、偽りと不義に支配される国はどうなるのか?これまでの歴史から考えるとすべては滅ぼされたのである。


 

隣の国の歴代大統領たちが次々と刑務所入りであざ笑うが、それは司法が生きているからだ。国民がそれを許さないからだ。隣国の司法や国民からすればこの国の政治家たちの犯罪を決して見逃せないだろう。とっくに刑務所入りになったかも・・・・・・皮肉だが、彼らにとってはこの日本の政治家になったのがラッキーだったかもしれない。

 

いったいこの国の正義と真実はどこに行ってしまったのか・・・・・

2022年8月27日土曜日

ランニングを始めた

わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。(テモテ二4:7

 


今日から本格的にランニングを始めた。まず今日は、自分がどれぐらい走れるかを試すためのランニングであった。マラソンを完走するためには欲張らず、自分に合うスピードを調節にすることであると言う。それに従ってゆっくり目で走った結果、広瀬橋の川沿いからスタートして太白大橋にある仙台自動車学校まで約6キロであることが分かった。往復12キロを止まらず走り続けた結果1時間16分で走ることが出来た。第1回目の結果である。

 


しばらくは慣れるまでこのペースで走り続けることにした。この調子で行くと4年後まで行かなくても良いかも・・・・2年で走れるかもしれないと思った。とにかく欲張らずに走り続けることだ。目標は石巻までの50キロを走り続けることだ。こうして主の日の前の日をランニングしながら明日を備えていく。絶えず挑戦し続ける人生を生きることが重要である。 

闘い続ける

 

そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカ12:15

 


普通の人が金持ちになるには二つの道がある。真面目に働いてコツコツと貯金して長生きする事と欲を捨てる事。どちらが実行しやすいかを考えた場合、どちらも難しいことに気づくのである。それが人間である。今あるものに満足して生きる人は案外少ない。いつももう少し、という欲が生きている限りこの厄介な欲との闘いは続くのである。人間は満足を知らない存在である。常に欲張って生きるからだ。この欲をコントロールできる人は偉い!

 


ある意味、諦めずにこの欲と闘いながら生きる人も偉いかも・・・・・完全には制圧できないが、しかし欲がもたらす破滅をいつも心に留めながら闘い、抑圧し、それに代わる何かを探し求めることは重要な試みである。もしかしてこの闘いは死ぬまで続くかも・・・・それほど欲は強い力をもって人間を操る悪魔の武器である。

 


福音書の6分の1が富に関する、お金に関する主イエスの警告であることもその強さを物語っている。

その意味で使徒パウロはイエス・キリストに出会ってから、イエス・キリストによって変えられた人である。つまり、彼は欲をコントロールできる秘訣を身に付けた人である。ここに希望がある。

貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:12-13

 


この世の様々な欲を抑圧できるカギはイエス・キリストに祈り続け、その助けを受けることである。心から祈る人の祈りは必ず成し遂げられる。だからここに希望がある。ハレルヤ!

2022年8月26日金曜日

幸せなモード


何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。(フィリピ2:3-4

 


久々に親とラインで電話をした。

3年も実家に帰らず、ラインでお互いの安否を問うているが、正直、一度帰って休みたい気持ちでいっぱいだ。親も年なので今の内、行かないと悔いことになるかも。何よりもはやく規制が解除されコロナ以前の状態になることを願っている。

 

ノアちゃんも薬を飲んだせいか少しは元気になったようで感謝。

 


今日は曇り。

お天気だけの曇りだけでいいのだ。

心は晴れ!!!

 

常に祈り、御手に委ね、励ましの言葉を言い聞かせ、互いに励まし合いながら今日の人生を生きるべし!

 


幸せは自然に訪れるものではない。周りの環境や状況、周りの人々に左右されず、ただ自分の生き方と決断と考えによって訪れるものである。今日の人生を幸せな一日にする、と考え、すべてを幸せなモードにセットして生きることがそのカギとなる。しかし、この幸せなモードをぶち壊そうとする敵が必ずやってくる。その時にどう対応するかが重要である。

 

相手のペースに巻き込まれずに幸せなモードを維持することだ。多くの場合、敵の仕掛けに陥る原因は感情である。相手の不愉快な言葉や行動によってかっとする瞬間をどう対応し、反応するかである。その時には直ちにその場を離れて大きく深呼吸をして3分間考えることである。それから決めよう!!!

きっと幸せなモードは壊されず維持できるはず。信じて、今日も共に祈りながら歩むべし!!!

2022年8月25日木曜日

愛によって生きる

 


神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。(コヘレトの言葉3:11

 


調子がよくないことで、昨日は一日絶食をさせたが、しかしまるで自分は元気であることを示すかのように、今朝の散歩で大年寺階段からの散歩道を自分が選び、本当に元気に上って行った。それでも今朝の食を抜きして三人で11時に予約した病院へ。ここでは二度目の診察となる。今朝、娘は自分も行きたいと言い出したことが思い出す。夏休みが終わると学校に行きたがらない生徒は多いようだ。娘のクラスでも朝から登校したばかりなのに今日は早退しようかな、と周りから言いだすと言う。するとうつや!鬱!と言っているようだ。病院で写真を撮って送ってね、と言われた。

 


診察をして薬ももらって来た。元気なのでそれほど心配はないと言う。感謝。こうして我家の大行事(?)の一つが無事に終わった。大型犬を病院に連れて行くのは簡単ではない。でも割とおとなしいノアちゃんだから大丈夫だったけど、でも病院に入ったら興味津々!開いている部屋のあちこちへ行こうとしていた。こうして一つの仕事が無事に終わった。感謝。

 


今日の夕方から天気は下り坂!適当な雨は必要である。問題は降り過ぎることだ。なんでも過ぎはよくない。ただ一つだけ、愛する事だけは過ぎても良い。それぞれの家庭には物語がある。しかし一人だけが出演する物語はつまらない。全員が出演する家族物語が良い。それぞれ違う立場を理解し、相手を配慮し、補い、かばってあげ、時には失敗も快く受け止めてあげる。そしてもう一度挑戦できるように励まし合う家族の物語が必要な時である。今は本当に家族が一つになることが求められる。しかし上からの権威や力ではなく、愛によって一つになることが重要である。結局、人間が最後に悔いるのはもっと愛せなかったことになるからだ。命が与えられるのは愛するためである。まず目の前にいる家族からその愛を実践することだ。その時の愛は無条件の愛が光り輝き、自分に心の豊かさ、人生の真の意味を運んでくれることを忘れてはならない。愛し続けることだ。愛は必ず勝つ。愛に対抗できるものはこの世にはいない。それを信じて最後まで愛によって生きる。

2022年8月23日火曜日

我々は霊の法則によって生きる

 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(ヨハネの手紙一4:9-10

 


主の御名を賛美いたします。

時が巡りくれば、やはり変化するのが自然の法則であると思います。最近、朝は涼しくなりました。日中の暑さは続きますが、朝晩のひと時でも涼しくなるのはありがたい恵みであると思います。ノアちゃんも朝の涼しさを感じながら散歩に出かけています。今朝も2時半ごろ二人で広瀬川沿いを歩きながら涼しいひと時を味わいました。

 


 お手紙を読ませていただきました。少しでも元気になることを私たちは祈っています。

そして再びあの席で主を礼拝するお姿を見てみたいと考えています。教会の兄弟姉妹たちはそれぞれ苦しみと痛みを背負いながら信仰者として歩んでいます。私たちに対する神様の御心は苦しんでいるまま生きることではありません。何よりも元気で、健康な姿で神様を賛美し、証しながら、同時に主にある交わりの中で生きることを誰よりも願っておられる方です。

しかし神様は私たちの病気や痛みを和らげ、癒し、助けることが出来るにも関わらずその愛の御手を、癒しの御手をすぐに差し伸べてくれないのが不思議に思う訳です。中にはそういう神様を恨むキリスト者もいます。けれども神様の私たちに対する愛が冷めたわけではありません。神様の愛はどんな場合、どんなときにも変わらない真の愛です。不変の愛です。

 


その愛の目的は救いです。真の命、永遠の命を与えるための愛です。一時のこの世での人生を生かせるための愛ではなく、永遠に生きるための命を与えるための愛です。私たちは弱い存在です。いつも健康で、生活に何一つ不自由な事もなく、平和に暮らすと神様を忘れ、その愛に背き、救いも求めない存在です。それで聖書の中でイエス・キリストはその当時苦しんでいる人々全員を癒すことはしませんでした。イエス・キリストによって癒された人々はほんのわずかしかないのです。なぜならそれがイエス様がこの世に来られた目的ではないからです。少し健康で長生きすることよりは少し不便ではあるが永遠の命に与ることがはるかに祝福されたことになるからです。その意味で、聖書も語っていることですが今の試練と苦難は私たちを永遠の命から、その神様の愛から離れないようにつなぐロープであるのです。それを信じて生きることが重要であるのです。必ず良くなって共に礼拝に与る日がやって来ることを信じて祈り続けたいと思います。

2022年8月16日火曜日

今日は乾杯の日

 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:1416

 


争いの時、喧嘩の時、誰かが間に入って争いが止み、喧嘩が止む場合があります。しかしそういう調停役の人々がいない場合、争いが、喧嘩が最悪の結果をもたらすのです。最近起きている事件がそれを物語っているのです。口論になり、かっとして妻を殺す。夫を殺す。子どもを、親を、家族を死へと追いやる出来事が少なくありません。家族の問題だけではありません。国々の間の戦争も同じく起こっているのです。平和という言葉があふれている今、皮肉にも争いが多い現実の中で私たちは生きているのです。

つまり、我々人間の力によっては決して平和は訪れないとのことです。このことを知ることが重要でありますが、ほとんどの人はこの事実を知らずに生きています。少なくとも我家だけでも、自分が知っている主にある兄弟姉妹たちの家族だけでも、毎日、自分が祈り続けている人々だけでも平和の内に暮らしてほしいと願うひと時です。

 


今から17年前の815日、当時、静岡から群馬の桐生市に行きました。出産のために桐生に行っていた妻がもうすぐ子どもを産むと言う連絡があったからです。新幹線と電車と特急で静岡から東京、そして桐生へ向かいました。しかし15日には生まれず、待っていると医師は、お父さんはいつまでいられるかと言われ、17日には仕事があるので戻らないといけないと伝えると何とか頑張って16日には生まれるようにしましょうと言いました。そして16日の夕方に子どもが生まれました。生まれた子どもを抱いたとき、軽いと感じました。生まれたばかりの人生は軽く感じるのです。これがだんだん重く感じ、実際に様々な意味でそういう人生が始まるのです。

 


816日の夜、静岡に戻る途中、地震が起き電車は停車。結局、再開して乗ったのは夜行列車でした。そして静岡に着いたのは明け方でした。その出来事で今も忘れられない娘の誕生の時です。予定日は815日だったので名前を「イレネ」とつけました。ギリシャ語で「平和」という意味です。よくヨーロッパではイレーナとか英語ではアイリンという名前で呼ばれますが意味は同じです。イエス・キリストによる平和が娘にも訪れてそういう人生を歩めますようにとの祈りを込めた名前です。

 


それがもう17年の時を過ぎようとしています。今日は娘の好きな料理を作りました。おそらく僕の料理の中で一番時間がかかる料理かも。ビーフではなく、我家ではポークシチューを食べています。約2時間はかかる料理でいつも美味しいと言ってくれるので喜んで作っていますが、これは今まで一度も失敗したことのない自身のある料理かも・・・・・・お昼ごろ、教会員ご夫婦が野菜をいっぱいもってきてくれました。特にトマトを持ってきてくれて嬉しくなりました。我家の食は殆ど自分が担当しているので買物で高くなった品物がよくわかります。この二日間トマトが欲しかったのですが買わずにいたところ今日そのトマトとジャガイモ、ピーマン、ナス、トウモロコシを頂きました。感謝。

 


こうした地球の片隅で起こっている小さな家庭での出来事ですが、しかし宇宙を支配し、すべての命あるものの主である全知全能なる神様を父親と呼んでいる家族の物語でもあります。世界を広く考えた場合、宇宙から見た場合、すべてが小さく、海辺の砂のような存在として見えるのです。誰かをうらやむことも、何かほしいものも、何になりたいこともなく、今に感謝して満足して生きることが恵みであるのです。生きる目的を知り、生きる価値観がわかり、この世での使命が分かった以上、さ迷うことも、脱線することも、挫折することもなく前進することが出来るのです。人生、長くて100年、宇宙から考えると一瞬の時であります。その一瞬の時を生きるのに喧嘩し、争い、妬み、憎みながら生きる、そういう暇なんかないでしょう!愛して生きることです。笑って生きることです。今日は乾杯の日!!!

2022年8月13日土曜日

生きるとは、愛すること

 家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。(ヘブライ3)


 

満月。

今日のノアちゃんとの散歩は満月で明るく、さらに台風の影響で風もふてくれて気持ちよく歩くことができました。感謝。階段をのぼり、大年寺山公園を一周し、愛宕神社、河原町、広瀬橋を渡って教会に。


 

台風がやってくる。

思い出。

2009年、御坊はこぶね教会と幼稚園に赴任した年の秋、台風の予報があると牧師が行う作業があった。

旧会堂と園舎の窓を釘でうち、固定させる作業である。強い風で窓が開くからだ。23回行った記憶がある。3年目に全てを新築したのでそういう作業は必要なくなり、少しは楽になったが、時が過ぎると苦労も楽しい思い出に変わる。

 


案外、人間にはそういう面があるかも。だから生きられるのだ。苦労ばかりの人生ではなく、時々訪れる一休み。決して長くは続かないが、休息のひと時がいやしを与え、さらに前進できるエネルギーが生まれてくる。その両面性があってこそ人は強くなり、成長していけるかも知れない。だから無意味な苦労はないはず。ただ自分の過ちで訪れる苦労は別にしても理由なくやってくる苦労には良い意味が含まれている。つまり、今の苦労は自分の成長のために訪れた味方だと受け止めて歩むことである。

 


お菓子箱。

僕の机の引き出しにはお菓子箱がある。

いつも補充しているので空になることはない。

それを知っている二人は時々引き出しを開けてお菓子をもっていく。

その持っていくことを狙って自分はお菓子箱が空にならないようにしている。僕の楽しみである。

 


家とは。

家の目的は人間が暮らす為である。

家のために人間がいるのではない。

しかし時々、逆の立場で暮らしている人々がいる。

人間より建物を大事にして暮らす人々である。

暮らすための家ではなく、人に見せるための家である。

 


パリの露店カフェ

パリの露店カフェで本を読んだり、新聞を読んだり、話し合ったりする風景に憧れる人々がいる。

しかし現実を知ると・・・・・

実はそれには理由がある。

パリの家賃は高い。そのために広々とした家をもつのはお金持ちに限る。

そのために庶民たちは狭い家で暮らすことが多い。彼らにとって家は寝る場所である。

彼らが露店カフェを好み、そこで時間をつぶし、過ごすのは自分の家ではそういう雰囲気を作ることが出来ないからだ。だから多くの若者や人々は露店カフェをまるで自分の家のように味わっていることだ。

 


ノアちゃんの夏

ノアちゃんのような毛深い犬にとって夏は最悪な季節である。

30℃が過ぎるとクーラーをつけてノアちゃんを家の中に入れてあげる。それも玄関のところだけに。

自分たちがいつまでもいる場所ではないので、後任の牧師家族のための配慮である。ペットに慣れてない人にとって犬のにおいは気になるはず。だから出来るだけ外で飼うことにしている。仕方ない。

退屈なノアちゃんのために時々犬が登場する映像を見せている。するとノアちゃんもじっと見ている。

 

台風が無事に過ぎ去り、暑さも和らげるように・・・・・

来週は娘の誕生日。

美味しい料理を考えているが・・・・

 

生きることはしんどいけど、その分、楽しみもある。

生きる目的、生きる価値を知って生きるとすべてに答えが与えられる。

生きることは、愛する事である。

2022年8月9日火曜日

今日も生きる

 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。(出エジプト記14章)

 


今日も新しい命が与えられて感謝。

ノアちゃんと散歩に行く途中、今まで自分が見たことのない、この場所では想像もしなかった不思議な光景を目の当たりにして写真を撮った。いつも教会から出ると長町小学校を通り、門前前町へ行き、そして286号線走る道路の下のトンネルを抜けて大年寺階段へ向かうのだが、そのトンネルに車が入ってしまい、バックで出るのに時間がかかったようだ。短いトンネルで入る前に出口がないことに気づくはずだったのに最後の所まで入ったようだ。もしかしてナビが教えたかも?!!???よくわからんけど、ノアちゃんと目にした不思議な光景だった。でも無事に出られて良かった!

 


そのあと、我々二人はいつもの千代大橋ルートの散歩道を歩いた。感謝。

 

昨日、仙台市内は人々でいっぱい!三人を下して帰りに車の中で見ると人々があふれていた。これも仙台に来て初めて見た光景。観光バスが何十台も道路沿いに止まっていた。約2時間弱で呼び出しがあって再び市内へ。三人を乗せて八木山ベニーランドへ。しかし途中、激しい雨が!!!これも仙台に来て初めての経験かも。前が見えないほど激しい雨だった。ベニーランドは止めてそのまま帰宅。

 


少し休んで早めの夕食で牛タン弁当をテイクアウトして牧師館で一緒に食べた。やはり利久の牛タンは美味しい。三人も美味しいと言う。感謝。僕は頂いた美味しいワインを一人で楽しんだ。感謝。

 

今日の朝は、リクエストで高野町喫茶店に行くことにした。コメダ珈琲に行くと行ったけど御坊にもあるので仙台にある喫茶店に行くことに決めた。そのあと、松島へ。

 

こういう小さな片隅で描かれている人間の物語がある反面、世界中は戦争や争い、奪い合い、殺し合い、憎しみ、妬み、憎悪で騒いでいる。どちらもこの地球で起きている出来事であり、現実である。明日は分からない。だから今を精一杯に生きることである。出来れば精一杯に愛し合い、助け合い、共に微笑んで、心の手をつないで歩むことである。憎んでも、愛してもその時間は過ぎ去る。しかし心に残るもの、その結果は、痕跡は、影響は天と地のように異なる。ならば良いものを、悔いのないものを、よかったと思うものを残すことである。今日の最後を愛で飾ることである。出来ると思えばできることである。無理だと思えば無理である。どちらを選ぶかは自分である。今日も生きる。

2022年8月6日土曜日

何を考えて生きるべきか

 だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。(ヘブライ人への手紙31)

 


人は普段、何を考えて生きているのかによって生き方が決まることが多い。小さな子供たちは楽しく遊ぶことを考える。スポーツ選手はよりよくなるための技術、業を考えながら過ごす。料理研究家は常に新しい料理の開発のために工夫しながら過ごす。泥棒は人の物を盗むための手口を考えて生きるだろう。とにかく毎日何を考えているかがその人を形造り、そういう人生を生きるように導くのである。問題は自分が考えるべきことは考えず余計なことを考えるから問題が起きる。

 


政治家が国のために、社会のために、人々のためになることは考えずお金に執着すると破滅に落ちる。家族の幸せを一番に考えるべき親が家族のことはわきに置いてギャンブルや他所の男と女のことを考えると家庭は破壊される。学生が勉強のことは考えず度を越えて遊びばかり考えると後で悔いることになる。いわば自分のいるべき居場所を正しく確かめて生きることが重要である。人々が居るべき場所にいないで、居るべきでない場所に留まっているためにこの社会は狂っているのだ。

 


今朝はノアちゃんの散歩の後、一人で茂庭へ。大年寺階段から向山、八木山、山田、羽黒台、日本平、人来田を通って茂庭へ。今日は走ったりもしたので結構時間が短縮されたかも。教会から病院まで1時間46分かかったからだ。祈りながら一周し、帰りは286号線の道で帰ってきた。無事に行ってきて感謝。

この頃、雨が降ったりやんだりして涼しいので気持ちよく歩くことが出来る。ノアちゃんも同じであろう。

 


祭りで人々は騒ぎ、コロナも一緒に騒いで自分の仲間を増やしている。当分はこの状況が続くかも。

それでも我々は生きなければならない。今の環境や状況を乗り越えて自分に相応しい生き方で常に考えるべきことを考えながら歩み続けることである。

 

娘は友だちと浴衣を着て名取花火大会へ。名取イオンまで車で送ることにした。来週は遠方から二人の友だちが来る、家が賑やかになるだろう。感謝。僕とも5年ぶりの再会だ。楽しみだ!!

2022年8月4日木曜日

価値ある人生

 互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。(ヘブライ人への手紙1024-25節)

 


234分起床。いつもの時間より26分早く目が覚めた。

ベッドの周りの掃除、会堂での祈り、そしてノアちゃんと散歩。

小雨だ。

でも歩き続ける。

久々にノアちゃんと一緒に大年寺階段からの散歩となった。愛宕神社、河原町、そして広瀬橋から帰宅。

汗が涼しい風に吹き飛ばされる。気持ちよい風だ・・・悩みも不安げな気持ちも、苦しみも吹き飛ばしてくれる風があれば良いのにと考えながら歩き続けた。

 


「人生の価値と重要性は目立つことを行うことにあるのではない。・・・・それらの無限な価値を認識しながら平凡な事を行うことにあるのを忘れてはならない。」(Pierre Teilhard de Chardin188151 - 1955410日)

祈りは労働であり、労働は祈りである。(Benedictus de Nursia, 480年頃 - 547年)

 


政治家は政治家として、事業家は事業家として、スポーツ選手はスポーツ選手として、芸能人は芸能人としての人生があるように、我々にはそれぞれの人生がある。その与えられた自分の人生を誠実に、一生懸命に生きることが重要である。しかし人間はスポットライトを浴びて人気者になりたがる傾向がある。人々に認めてもらおうとする願望がある。すると自分がやっている仕事や夢がちっぽけなものに見え、悲観的となり、憂鬱になる。なぜなら自分固有の人生に価値を置かず、周りの人々と比較するからである。だから普段からの自尊心が大きな影響を与えるのである。自分は神様によって造られた尊い存在であることを覚えて生きること。しかし高慢にならず謙虚な態度で人々と関係を持ちながら生きること。自分が大切であるように、相手も大切な存在であることを知って生きること。それぞれの人生を認め、人と比較する誘惑から自由になること。自分を愛し、自分の仕事も愛して頑張って生きること。しかし自分を造られ、自分に命を与えて下さった全能者を覚えて生きることが今の自分の人生をより輝かせるカギとなる。

 


今日、娘は一日だけではあるが、はじめてのバイトに出かける。9時から18時まで。良い経験となるように。妻は午後から仕事だ。僕は二人のために美味しい夕食を作っておくことに。

来週は娘の幼稚園からの幼馴染の友だちが和歌山と神戸からやってくる。23日牧師館で滞在。大掃除だ!自分が園長をしていた幼稚園の園児だったのでお二人の事はよく知っている。その家族たちとも本当に家族のように仲良くしているので楽しみである。今日も精一杯に頑張って生きることだ。

2022年8月1日月曜日

生き続けるべし

 人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。 (ペトロの手紙一124-25

 


昨日、暑い一日であった。特にノアちゃんにとっては厳しい一日だったかも・・・ノアちゃんにとって夏は受難の季節である。毛深いのが冬には役に立つが、夏には苦しみをもたらす主な原因になる。被造物の生きものはそれぞれの季節、様々な環境に対応して生きなければならない。多くの場合、環境に適応して生きるように造られたのである。しかしこれは自然が破壊される前の話しである。人間によって自然が破壊され、温暖化が進まれ、地球そのものが痛みを負いその結果、今のように記録的な雨、暑さなど異常現象が現れているのである。

 


それにもかかわらず愚かな人間は自己欲に走り、こういう危険信号を重く受け止めない。つまり、最後の破滅まで走るつもりである。一番可哀そうなのは子供たちである。結局、大人たちの過ちの責任を今の子供たちが背負って生きるようになるからだ。やはり良くなる世界は期待できず、ますます悪くなる一歩である。それでも我々はこの世界で生きなければならない。

 


だから最後まで精一杯に生きることだ。主のために、自分のために、家族のために、周りの人々のために、どんなに最悪な状況が訪れたとしても最善を尽くして生きることである。皆が言っているように人生は甘くないが、それだからと言って悪い事ばかりでもない。どう生きるかは自分が決めることである。

 


与えられた今日の一日を楽しく、喜びをもって生きることもできれば、不平不満を言い、愚痴をこぼしながら不機嫌な表情で生きることもできる。少なくとも今日の一日の人生は自分が決めた生き方で生きることが出来る。ならば良い方を選んで生きるべきである。

シャワーラン

  あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。(マルコ 13 : 37 )   今日は雨の中を走り続けた。シャワーラン。 22 キロ完走。 雨にぬれてもまだ気持ち良い時期である。 これが一気に寒く感じるようになる。 それを常に意識...