2022年11月30日水曜日

共に生きよう

 


喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマの信徒への手紙1215) 

 

久しぶりにノアちゃんと例の病院まで行き、祈りながら一回り。感謝。

 

一緒に居た家族が急にいなくなる寂しさ。

おそらく本人も戸惑うかもしれない。一緒にいるはずの家族がいない。周りは知らない人々ばかり。

さらに体が思うように動けなくなった現実。こういう時に本当に必要なのが信仰である。

人が何を言っても慰めにはならないでしょう。主のみ本当の慰めと希望を与えることができるのである。今わたしたちが出来ることは祈りである。主ご自身が働き、その場において慰めと希望と力を与えてくださるように祈り続けることである。面会も出来ない辛い現実が苦しみを加えるのである。祈ることだ。祈り続けよう。主は生きておられる。主が最善の道と最高の方法で導いてくださるであろう。

 


11月の最後の日である。

明日から12月だ。

生きよう。

共に慰め合い、共に励まし合い、共に喜び、共に悲しみ、共に泣くのだ。

そして共に生きる。

 

2022年11月27日日曜日

アドベント

 


何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。(コヘレトの言葉3:1

 


今日からアドベントに入った。

救い主イエス・キリストを待ち望むアドベントである。

しかし2000年前に来られたメシアを再び待つ必要があるのか、と言う。

確かにメシアは2000年前にこの世に来られ、その目的を成し遂げた。

十字架の死によって全人類の罪を赦す道を開いて下さったのである。

神の御子イエス・キリストとその方がなさった十字架の出来事と復活を信じるのであれば救われるとの話である。聖書の言葉はすべて成就したのである。ただ一つだけが残っている。それはイエス・キリストが復活して昇天する際に人々に約束した言葉である。それはイエス・キリストが再び来られることである。しかし今度は救い主としてではなく、最後の審判主として来られて天の御国へは入れる人と入れない人が分けられる審判の時である。決して死んだら何もかもお終いではない。必ず審判を受けることになる、と聖書は明確に教えている。それを信じ、受け入れる人は恵まれた人となる。耳のある者は聞きなさい、と聖書は言う。聞く耳を持つ事が大事である。

2022年11月24日木曜日

二日ぶりの散歩

 


「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。

わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、/その者はわたしの心に適わない。」しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

 


時には雨が降り続けて朝はゆっくりしたいと思う時がある。

昨日のお昼過ぎからの雨が降り続けて夜中の散歩は中止にした。それでノアちゃんだけは散歩なしの一日を過ごしている。仙台に来て初めてである。今までは雨でも出かけたが、自分が休みたいと思い、つい休んでしまった。これも良し。雨が止み、午前中は一人で仙台へ。

 


明日は3年ぶりの業者による会堂内外の清掃日である。朝早くからおそらく暗くなるまでかかるだろう。

 


娘は今日からのテストで頑張っている。こちらも頑張って美味しい食事を作っている。今朝は駅までの車の中で自分たちの四人グループの中で二人は彼氏が出来たという。しかし自分は面倒くさいし、今はいらないな!と言う。パパはどう思う?と言われて・・・・・面倒くさいかもな・・・・と返事をしたが

・・・・・時が来れば・・・・出会えるだろう・・・・自分の夢に向かって進んでいるなか、その出会いがお互いにプラスになればいいのだが・・・かえってマイナスになり、邪魔になるならば・・・しかし

それが分からないから出会って別れるだろう。・・やはり面倒くさいかも・・・・・

 


ワールドカップが始まり、盛り上げるところもあるが、うちはそれほどではない。ある意味、どうでも良い事だと考えている。それより教会のことや娘のテストや妻の仕事などが重要なことである。依頼されていた原稿を今日送り、感謝。週報も完成。今度の礼拝と納骨式と再来週の学院のキャンパス礼拝説教準備が残っている。生きることだ。

 

只今、二日ぶりのノアちゃんの散歩から帰ってきた。気持ちよい風が吹いている。こらから仕事に取り掛かる。

2022年11月22日火曜日

前に進んで行く

 


数か月ぶりに以前頂いた山形の日本酒を開けて飲みました。また今日、届いた山形の漬物を美味しく頂きました。本当に久々に顔が赤くなりました。夕食で作った鳥ドンと一緒にいっぱいご飯も食べ、気持ちよく飲みました。

 

今日も一生懸命に生きた気がします。11回のタイヤ交換を行い、階段のマット洗い、その後、トレラン練習で2時間汗をながし、帰りに買物。帰宅して夕食用の料理など。本業が何かわからなくなりました。でもこれで良し。

 

自分が良いと思えば、それでよし。他人の意見や生き方を重んじなくも良い。自分の人生を生きればよい。ただ自分が考えて悔いのない人生を生きるべし。

 

明日は明日の太陽が昇る。そして自分はその太陽に下で生きることになる。どんな明日になるのかは分からない。しかし悔いのない人生を生きることである。仮に失敗しても、倒れても、決してあきらめず再び挑戦し、前に進んで行くことである。

挑戦し続ける

 


「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、

そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。

高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

 


年を取ると手放すことを学ぶ必要がある。握りしめていた手を開くことを学ぶことである。実際に若いときには多くの出会いによって人間関係を築いて行くが、年齢を重ねて行くにつれて一人、二人・・・・別れが多くなることを経験するのである。これが人生である。しかし中には握りしめている手を開くことなく、最後まで握りしめてこの世を去る人々がいる。あわれな人である。人生で何一つ学んでない人である。ある意味、失敗した人生と言えるかもしれない。

 



持っているものを手放すことで自由になることができるが、多くの人はそれを知らない。たくさん持つ事によって自由になれると信じているからだ。なぜかというと、洗脳されているからである。テレビやマスコミなど企業の商品を売りつけるための宣伝文化に洗脳されてそのように信じ込んでいる。それらに操られて正しく見ることも、判断する事も、そして行動することが出来なくなり、自分を失って生きている。だから時間の使い方、お金の使い方なども自分で出来なくなり、そういうことを人や会社に任せてお金を払ってアドバイスまで受けることになったのである。いったい人間どうなったのか?と嘆いてしまう。しかしこれが今の現実である。自分で考えて、自分で判断して、自分で行動して、自分を作って生きることが大事である。そしてこの世の慣わしや風潮や流行などに惑わされず、また他人ではなく、自分自身を生きることである。

 


雨の日が多く、少し暖かくなった。

変わらない日々を送っている。

墓地掃除も感謝。ただいつもの道が崖崩れで通れなくなり、少し遠回りで2時間以上もかかるようになったが問題なし。祈り、歩き、走り、料理をし、勉強し、掃除をし、息をして生きている。悔いのない一日を生きるためにはよく考えて、よく判断して、よく行動する。決して感情に任せるのではなく、意志を優先して生きることが重要である。感情は意志に従うものである。やる気がなくて日課を行うことで感情は後からついてくる。そしてやってよかった!と言う。挑戦する事は大事である。諦めずに最後まで頑張ることだ。自分に言い聞かせている。今日も生きる。



2022年11月19日土曜日

みやぎ霊園清掃

 今日は教会墓地清掃に行ってきた。



やはりこちらから徒歩で2時間はかかるな。



先日の納骨式の花が枯れていた。



僕が来るのを待っていたようだ。



はやくきれいにしてちょうだい・・・・



来週はM姉の納骨式だ。



空気が澄んでとても気持ちよい・・・・・



この世の中も気持ちよく人々の関係が澄んでいればどれだけ良いだろうか?



少し疲れた。今日は約36000歩か?

今週は20万歩以上を歩いた。感謝。

明日の主の日に備えよう。



今日も最後まで主の栄光のために精一杯に生きる。


ハレルヤ!


生きる。


2022年11月18日金曜日

笑って生きる

 


 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。(エフェソ5:16

 


冷え込む中、僕らは暗闇を切り抜いて歩き進める。

とにかく大年寺の階段まで行けば、そこからは体が燃えるようになる。二人で一気に上るのでどんなに寒くても体が熱くなる。部屋の気温と外の気温の差を出来るだけ広げないために冬でも暖房は入れない。

暖房を入れるにしても散歩から帰ってきて仕事をし始めてから入れるけれども、それも外の気温が0℃以下になった場合の話であってめったには入れない。今日は散歩の後、5時頃に再びランニングに出かけた。15キロを走ってきた。汗びっしょり・・・・・。朝食は昨日作った野菜スープ。

 


階段掃除、ノアちゃんの朝食、娘を駅まで送りながら会話をする。娘との大事な時である。聖書20章を読み終えて、説教準備をする。今日はみやぎ霊園清掃に行くことにしている。27日の納骨式のために少し整えてくることに。こうして今日も与えられた命に感謝して、精一杯に用いて生きることにした。いっぱい光を浴びて歩き続け、祈り続ける。時をよく用いることだ。悔いのない今日の人生を生きる。



今晩は新メニューを作ることに・・・・・心も、体も、魂も豊かになるように・・・・・

 


御坊の兄弟も無事に心臓の手術が終わったようで感謝。昨日は本当に祈りながら過ごした一日であった。感謝。自分の願いが聞き入れられることだけが恵みではない。仮に聞き入れられなくても感謝できる信仰が重要である。なぜなら人は苦難を通して強くなるからだ。失敗を通して新たに学ぶことがあるからだ。だから何一つマイナスにはならない。すべてがプラスになる人生がここにある。物事を、結果をどう受け止めるかが重要であり、それが人生を決めるようになる。今日も笑って生きることにした。この決断と意志が大切である。

2022年11月16日水曜日

口がなかったら

 


悪口を言い歩く者は秘密をもらす。誠実な人は事を秘めておく。(箴言11:13

 


人間に言葉がなかったら、口や舌のように話す機能がなかったらどうなっただろうか?おそらく今よりは半分は静かになっただろう。少なくとも、偽証、デマ、批判、非難、誹謗、中傷謀略などはなかったかも。あるいはその代わりに他の機能が発達し、または発明してもっとひどくなったかもしれない。人間はそういう存在であるからだ。誉め言葉よりは悪口のほうを好み、それを自然に言いふらすからだ。そのために平和は来ない。人間が生きている内には来ないだろう。また維持も出来ない。すぐ壊れてしまう。そもそも人間はそう存在である。この罪深い人間の実態を知った上で自分を変えて行くことが重要である。

だから毎日のように罪深い自分の存在を悔いて、主に助けを求めて祈り、そして与えられる恵みによって生かされている。ここに希望があり、だから勇気を得て元気よく生きることができる。

 


いつか自分にも死を迎える日がやって来る。日々の生活の中でよく考えるテーマである。だからつまらない事で苛立たず、怒らず、妬まず、憎まず、欲張らず感謝して生きることにしている。家族を愛し、大事にし、精一杯に応援し、出来る限りサービスを行う。少し疲れても家族のために、彼女たちが喜ぶことを行いながら生きている。でもそれらのことが決して重荷にはならない。自分も楽しんでいるからだ。

 


こうして今日も自分の一日が終わろうとしている。ランチは油うどんを作って一緒に食べた。日曜日には何にも言われなかったけど、今日は美味しいと言われた。自分も美味しいと思った。自分が美味しいと思ったら絶対に美味しいことになる。それだけ自己評価が厳しいからだ。昼過ぎに軽く2時間ほど歩いて来た。秋がだんだん深まっている。遠くに見える船形山。いつかトレラン練習で走りたいと思っているところだ。その日が来るまでまずここで練習に励むことに。そしてピレネー山脈だ。

 


御坊はこぶね教会の教会員たちからの便りも相変わらず届いている。返事を書こう。主の御名によって勇気と希望を与えよう。明日、手術を予定している御坊の兄弟のためにも祈ろう。そして共に生きよう。

2022年11月13日日曜日

生きることです

 


七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカによる福音書10:17-20

 


 

こうして無事に一日が終わろうとしている。奇跡。

奇跡とはあり得ないことが起こった時に言う言葉である。またポジティブな時に用いる

言葉である。辞書では「人の力や自然法則を超えて起こる出来事の事」と定義している。

今の時代に何もなく、無事に一日が終わるのは奇跡と言えるかもしれない。それだけ安全でない世界で我々は生きている。しかし奇跡という言葉よりは恵みの言葉を用いたい。これはキリスト教的な言葉ではあるが、それを越えての適切な表現である。自分の命を守るために自分がやったことはただ食べて、寝て、少し歩いただけである。数え切れない細胞や問題なく内臓が正しく機能するために直接自分が手をかけたことは何一つないからである。すべては命の持ち主である主なる神様の恵みによってこうして一日一日が守られ、導かれている。これを知った人が人生を迷わずに正しく生きることが出来る。そして与えられた命をより大事にして生きるのである。

 

礼拝の後は、ランチを作った。今日は油うどん。自分の中では一番美味しくできたかもしれない。でも二人はコメントなしに黙々と食べるだけ。これも良し!

ランチの後はいつものように週報発送作業をして投函。それから明日からの娘のお弁当のために近くのお店でササミを買ってきて簡単に揚げて食べられるために下準備をして冷蔵庫に入れた。揚げるのは妻の仕事。夕食はまた野菜スープを作った。現在、家族でダイエットを行っている。(自分だけかもしれないが・・・・)。トレラン大会のためにも必要である。とにかく頑張って歩むべし・・・・・生きる。命がある限り生き続ける。どうせ生きるならば楽しく生きるべし。その楽しい人生は自然に訪れるものではない。自分で造り上げるものである。すべてをポジティブに受け止め、進めて行く。失敗を恐れることはない!失敗したらまたやればいい!命がある限り何度でも挑戦すればいい!明日は多賀城キャンパス礼拝だ。感謝して、元気よく歩いて行こう!そして語ろう!命の言葉を!

2022年11月12日土曜日

20KM完走

 


「教会はキリストの体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場です。(エフェソ1:23)

 


時は過ぎ去ったら早く感じる。これが人間がもつ時間に対する感覚である。年を取るにつれてそのスピードは速くなる。あっという間に時は過ぎ、人生の黄昏時がやって来る。誰もが経験する時である。

悔いのない人生は、悔いのない今日の一日を過ごすことである。明日まで考えなくても良い。明日の事を考えたからと言って変わることはない。余計に思い煩うだけである。

 


与えられた今日の一日を最後まで頑張って生きることが大事である。出来れば笑顔で、ちょっとしたことでも相手に配慮して生きることで幸福感は倍になる。人間はわりと単純な生き物なので、ちょっとしたことで感動を受けることが多い。神様がそのようにお造りになったからだ。複雑な事を考える人々もいるがシンプルに生きることも重要である。すると周りが明るくなる。

 


昨日は15キロランニングと5万歩を歩いた。ただ歩くことは意味がない。それは祈りと考える時間である。今日は初めて20キロランニングを完走。大年寺山から太白山までの往復でちょうど20キロになる。

目指すのはスペインのピレネー山脈100キロを走るトレイルランニングでカタルーニャで開催される大会である。(CHALLENGE DU MONTCALM

 


しかしちょっと疲れたかも・・・・年だからね!いつも妻に言われる言葉である。娘からも言われる。

ちゃんと妻子を養ってから行ってよ!と言う。途中、事故でもあったら困るからね。教会にも迷惑をかけるし・・・味方はノアちゃんだけか・・・・ノアちゃんもあやしいな。怪我でもしたら誰が散歩に連れて行ってくれるの!と言う。犬からも言われる立場になる・・・・・

 


こうして一日が終わろうとする。明日は主の日の礼拝である。月曜日は多賀城キャンパス礼拝だ。また歩きだ。・・・・・・・感謝しよう!

共に生きるためには

 


聖 書:レビ記19910                               

土地の実りを刈り入れる場合、あなたがたは畑の隅まで刈り尽くしてはならない。刈り入れの落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどう畑の実を摘み尽くしてはならない。ぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。貧しい人や寄留者のために残しなさい。私は主、あなたがたの神である。

 


どの社会でも共に生きることの大切さを強調していますが、実際にそれが行われない理由は

共生の大前提となる独り立ち、つまり、自立であることに気づいていないからだと思います。今日の聖書は恵みを施す者の法則について伝えています。しかし今日の聖書に対して次の問いが生まれて来るのです。畑の刈り入れの落ち穂が全収穫量の何パーセントかを把握して、残すことなく、全部刈り入れて倉庫にしまっておき、貧しい人々が訪ねて来た時に倉庫から取り出して渡すのがはるかに衛生の面から見ても、人間的な面から見ても効率の良いのではないか?なぜ神様は貧しい人の分を畑に残すように命じたのか?ということです。けれども

 


もし畑の主人が全部刈り入れて倉庫にしまっておきながら、食料を求めてくる貧しい人々に渡す場合、自分の気前の良さを褒め、まるで自分が善人であるかのようにうぬぼれ、または自分の気に入る人々だけに恵みを施すケースが起こり得るからです。もう一つは、貧しい

人の立場を考えての配慮だと思います。人に食料を乞い求めることは気軽にできることではありません。その意味で気が軽くなるように、そして落ち穂を拾い集める為には労働が必要です。それはある意味、人のところに行ってプライドを傷つけながらもらえるよりはそれは自分の労働の代価であるとも考えられるのです。そのために神様は両方の立場を考えて畑に落ち穂を残すことを命じたのだと思われます。

 

同時に神様はその恵みに与る貧しい人々が守るべき事も命じました。申命記232526節です。隣人のぶどう畑に入ったなら、思うまま満足するまでぶどうを食べてもよい。しかし、それを籠に入れてはならない。隣人の麦畑の中に入ったなら、手で穂を摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない。恵みに与る人は、いつでもぶどう畑に入って満足するまで食べられるのですが、籠に入れたり、麦畑では鎌を使ってはならないと命じました。その目的は、一言でいえば自立させるためでした。人生を生きると、時には自力では克服できないほど困難な状況に出会う場合があります。そういう時を備えて、神様は他人の助けを得てその厳しい状況を乗り越えられるようにさせました。しかしそれはあくまでも自立させる為の配慮であって一生人の助けを得ながら生きるための措置ではないのです。そう意味で神様は助ける人と同じく助けられる人にも規定を定めて下さったのです。イスラエルの民が約40年間の荒れ野での生活を終えてカナンの地に入った時、それまで神様が天から降した食料であるマナは止みました。これからは自ら働いて食べ物を得なければならない状況になりました。神様がイスラエルの民に与えたカナンの地は荒れ野のように何もしなくても食べ物が得られる所ではないのです。これから自立して食べ物を得、生きるために働かなければならない状況になったのです。それまでの奴隷としての生き方が自由人としての生き方へと変わったのが約束の地での一番大きな変化でした。奴隷としての人生に終止符を打ったのが約束の地へ入った出来事でした。これからは自立して生きる事を学び、それによって共に生きることが可能となるのです。自立なしに共に生きることは不可能であるために神様はまず自立する事を促し、その道も開いて下さいました。

 

この日本で大人になってもまだ自立せず親元で暮らしている人々が少なくないと言われています。生き物の中でこれほど親から自立しないのは人間しかいないと言います。これは

生きる為の人生の形態や方法の問題ではなく、本質の問題です。ここで自立の本質を四つに分けて短く見てみたいと思います。まず経済的な自立です。これは特に説明の要らない部分であると思います。当然な事であるし、これなしに共に生きることは不可能であるからです。二つ目は行為の自立です。独り立ちとは行為の自立を意味します。簡単に言えば、他人の手を借りず自力で行う事を言います。これなしに共に生きる事も不可能であります。

 

三つ目は、意識の自立です。この世界には自立に躓きとなる誤った慣習や風潮が蔓延しています。またプロパガンダや私たちの心と関心を盗み取る宣伝文化に漏出されています。しっかり自分の意識を正しい方向へと向けないと、また頑丈な土台の上に立たせないとあらゆる思想や誘惑に負けてそれらに引きずられてしまいます。使徒パウロはローマの信徒への手紙122節で、あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。と言いました。この世に倣うことなく、

神様の御心を弁えて正しく行うためには意識の自立が先行されることが大事であるのです。

 

最後に霊的な自立です。他の獣と違って人間は霊的な存在として神様に創造されました。

霊的な自立とは真の創造主を知り、さらにその御心が何かを知ってその御前で生きる事です。ラテン語でそれをコラムデオと言います。神の御前にあって、歩むことを言います。皆さんは自立して歩んでいますか?物事に、あるいは環境や状況に縛られず本当に自由に生きていますか?人が真の自由を得て生きる方法は自分を創造し、生きるための命を与えて下さった方を覚えて生きることだと聖書は教えています。絶えず神の御前で歩む者である事を覚えて物事を考え、計画し、慎重に行動する時に本当の自立した者として自由な人生を生きることができるのです。

祈祷:主なる神様、どうかあなたの助けと導きによって自立した人生を歩むことが出来ますように、主の御名によって祈ります。

2022年11月10日木曜日

使命によって生きる

 


全て重荷を負って苦労している者は私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11:28)

 


一昨日、今年度初めて渡来したと思っていたハクチョウ二羽の姿が昨日から見当たらない。昼間は行ってないのでわからないが、もしかして途中休憩のために立ち寄ったかもしれない。仲間たちと一緒に福島方面のどこかに行く途中、わしらはちょっと疲れたから一休みしてから行くわ!ほな、後にな!と言って広瀬橋のところで一休みして群れについて行ったかも・・・・・(こうした勝手な物語を作るのが趣味である。)

 


今日は仙田朝市。週1回は行くところで楽しむ場所だ。上野アメ横商店街見たいな活気はないがそれでも生きている人々の姿が感じられる場所である。明らかに増えているコロナに気をつけながら行って来よう!

 


特別なことはないけど、流れる時にありのまま全部任せるのではなく、時を作って生きることは重要である。何もしなくても時は流れる。何かをしても時は流れる。悲しんでも時は流れ、楽しんでも時は流れる。泣いても流れ、笑っても流れる。残るのは自分がどう生きたかの痕跡だけ。この痕跡を大事にして生きるか、それとも何が残っても構わん!ありのまま生きよう、と言う。このありのままという言葉は解釈が難しく、人によっても異なる答えが返って来る。悪いまま生きるか、苦しむまま生きるか、人生をあきらめた人の嘆きとも聞こえる言葉である。

 


やはりありのままより、少しでも良いように生きることが大事である。人間は希望なしに生きることは出来ない存在であるからだ。自分に対して生きる希望と意味、価値観を抱かせ、それを常に心に留めながら生きることである。また使命感も重要である。少なくとも家族のための自分の大切な使命があることも確認して生きることである、それはほかならぬ天地の造り主イエス・キリストによってもたらされた使命である。それぐらい重要な使命であることを心に留めながら今日の人生を精一杯に生きる。

シャワーラン

  あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。(マルコ 13 : 37 )   今日は雨の中を走り続けた。シャワーラン。 22 キロ完走。 雨にぬれてもまだ気持ち良い時期である。 これが一気に寒く感じるようになる。 それを常に意識...