2025年6月30日月曜日

休息日なのに休息できず

 


1【祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。】

2主よ、わたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。

3苦難がわたしを襲う日に/御顔を隠すことなく、御耳を向け/あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。

4わたしの生涯は煙となって消え去る。骨は炉のように焼ける。

5打ちひしがれた心は、草のように乾く。わたしはパンを食べることすら忘れた。

6わたしは呻き/骨は肉にすがりつき7荒れ野のみみずく/廃虚のふくろうのようになった。

 

 


この詩編102編は、人生で深い苦しみや孤独を経験する私たちに、その感情を正直に表現すること、そして絶望の中にも希望を見出すことの大切さを伝えています。私たちは皆、弱さや儚さを抱えていますが、この詩は、そのような時こそ、永遠で変わらない存在に目を向け、心の叫びを聞いてもらえるという慰めを与えてくれます。困難な状況にあっても、一人で抱え込まず、より大きな力に信頼し、未来への希望を失わないこと。それが、この詩編が現代人に送る力強いメッセージです。

 

世の中には、友だちがいなかったり、孤独で辛い思いをしていても、それを誰にも打ち明けられない人がいます。中には家族にさえ悩みを話すことができず、心の内を抱えたままの人もいます。だからこそ、すべてを受け入れてくれる真の友――イエス・キリストの存在が必要なのです。

 


「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネによる福音書1515節)

 

今日はゆっくりと過ごしているものの、日課や普段の仕事から完全に離れることはなかなかできません。それが命ある者の姿なのでしょう。今夜の夕食は新しいメニューに挑戦するつもりです。

 

最近飽きずに続けていることは、朝のランニング、料理、掃除、書くこと、読むこと、聴くこと、見ること、そして呼吸することです。今日もまた、生きていきます。

主と共に前進

 


二度寝をして4時に起床。

 

今日はランニングを休むことにした。いつものように、まず祈りから始まり、掃除、ノアちゃんの朝ごはん。今日は手紙を投函するために少し歩いてきた。それから会堂の除湿器のタンクの水を捨てるなどの作業をして、一休み。

 

せっかくこの時間帯に起きているので、朝食用と娘のお弁当用に卵チャーハンを作ることにした。

 

朝の風はあるものの、湿気を含んだ風は心の奥までは届かない。これも人間の感覚なのだろう。今日は少しゆっくりしながら、6月最後の日を過ごすことにした。

 

今日もこの世界には新しい命が生まれ、古い命は去っていく。様々な事故や事件が起こることだろう。戦場でも多くの若者たちの命が奪われるに違いない。それを机の上で操作する権力者たちがいる。

 

まさに不条理な世界だ。しかし、必ず神様の審判が下されるはずだ。必ず正義が勝つことになる。偽りは暴かれ、悪人は滅び、善人は報われる。だが今の世界には、その反対のことが起きているように見える。それでも信じて、自分の道を歩み続けることが大切である。

 


苦しみや悩みの多い世界のように見えるけれども、その背後には変わらず希望の光が照り輝いている。その光を見つけ出すことが重要だ。その光に照らされて、今日も前進しよう!主と共に前進だ!

 

美味しい人生

 


昨日は6月最後の主日礼拝でした。朝は恒例の20キロランニングからスタート。

 

西公園を過ぎて尚絅学院中高を通り、川沿いのコースを走って坂道を上っていくと、なんとなく見覚えのある道が続きました。走りながら記憶をたどってみると、この道は仙台市葛岡斎場へ向かう道だったのです。途中で引き返して教会に戻りました。

 

いろいろな道を走っていると、それぞれの道がどこにつながっているかが分かるようになってきました。毎日新しい道を走り続けたら、いつか仙台市内の道をすべて走破することになるかもしれません。あまり望ましいことではありませんが...さすがにそれはないと思いますが、どうでしょうか。

 


昨日、ノアちゃんは教会員のご夫妻から美味しい食べ物をたくさんいただきました。本当に感謝です。

 

正直に言うと、ノアちゃんの寿命が、私たちがここにいられる期間と重なるのかもしれません。彼があと何年生きられるかは分かりませんが、すべては主の御手に委ねて、今を精一杯生きることが大切です。まずはこの夏を乗り越えることですね。

 


日付が変わり、6月最後の日となりました。

 

今日も与えられた命に感謝して、楽しく笑顔で生きていきたいと思います。楽しいことや笑顔になれない状況であっても、それを変えられるのは自分自身です。ありのままの環境や状況に流されず、それらを上手に料理して自分のものにすることが大切です。それが人生を美味しく生きる秘訣なのです。美味しい人生?そう、そんな人生はあるのです。

 

粗末な材料でも美味しい料理ができるのは、料理人の腕前次第ですよね。他人の人生まで美味しく作ることはできなくても、自分の人生はちゃんと自分で美味しく料理して、その美味しさや楽しさを味わいながら歩むことはできると思います。

 

今日の美味しい人生のために、まずはしっかり寝ることですね。おやすみなさい!

2025年6月29日日曜日

自然と共に生きる群れ

 

晴天です。透き通った青い空、その空を映し出す静かな河。木々の緑に包まれた水面には、まるで光に乗って降りてきたような一羽のハクチョウが、優雅にたたずんでいます。

 

この風景を目にして、誰かはきっと「今日も暑くなるな!」と一言で済ませるかもしれません。確かに、今日は暑い一日になるのでしょう。でも、私たち人間はただ物理的な気温だけを感じて生きているわけではありません。風景を味わい、自然の息づかいに耳を澄まし、心の中でそっと感謝することができます。私たち自身も、この美しい自然の一部です。神様によって創造された大きな命のつながりの中で、ハクチョウや木々、水辺の小さな生き物たちと共に生かされています。

 

わたしたちは“自然と共に生きる群れ”。命の共同体なのです。互いに助け合い、支え合い、誰かを力で押さえつけるのではなく、共に歩もうとする存在です。そこには誇り高ぶることも、競い合うことも必要ありません。

 

このハクチョウのように、静かに自然のもとで生きるとき、私たちの心にも、やさしい光が差し込みます。 それぞれが神様の愛のもと、大きな命の輪の中で支えられていることに感謝しながら、共に礼拝し、今日という一日を歩んでいきたいと思います。

今朝も20キロ完走。


2025年6月28日土曜日

「夜明けを待つ者として」

 


夜明け前と、夜明け。その違いは、単に空が白み始めるかどうか、という物理的な現象に過ぎないのかもしれません。地球が自転し、太陽の光が地平線の向こうから差し込む。私たちはそれを「当たり前のこと」として受け取り、その一つひとつの奇跡に心を留めることは稀です。

 

しかし、もし、ある朝。約束されたはずの夜明けが訪れなかったとしたら、世界はどれほどの闇と不安に包まれるでしょうか。

 

私たちの人生にも、夜明けが来ないと感じるような、深い闇の時があります。努力しても報われず、祈っても静寂が続き、希望の光が一筋も見えない夜。そんな時、私たちは「当たり前」だと思っていた神様の恵みや、日常に隠されていた無数の奇跡の存在を、痛いほどに思い知るのです。

 

聖書は、神様ご自身が光であり、闇の中を照らす希望であることを語ります。私たちの心の夜がどれほど深くても、神様の真実の光は、決して消えることがありません。物理的な夜明けが、地球の自転という神様が定められた秩序によって必ず訪れるように、私たちの人生の夜明けもまた、神様の変わることのない愛と真実によって、必ず約束されています。

 

キリスト者にとって、究極の夜明けはイエス・キリストの十字架と復活です。それは、罪と死という最も深い闇を打ち破り、決して失われることのない永遠の希望の光を、この世界にもたらした出来事でした。

 

だからこそ、私たちは闇を恐れません。たとえ今が、夜明け前の最も暗い時間であったとしても、私たちは知っています。東の空が白み始めるように、主の恵みは必ず訪れることを。

私たちの希望は、決して揺らぐことのない「光」そのものである、主イエス・キリストにあるのですから。

 

毎朝訪れる夜明けに、当たり前ではない神様の誠実を見出し、今日も感謝と共に、光の中を歩んでまいりましょう。

 

一週間の歩みに感謝

 


1【賛歌。歌。安息日に。】

2いかに楽しいことでしょう/主に感謝をささげることは/いと高き神よ、御名をほめ歌い

3朝ごとに、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは

4十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ/琴の調べに合わせて。

5主よ、あなたは/御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。

6主よ、御業はいかに大きく/御計らいはいかに深いことでしょう。

 


詩編92編は安息日の賛歌として、忙しさに追われる現代人に心の休息と感謝の重要性を教えています。「いかに楽しいことでしょう/主に感謝をささげることは/いと高き神よ、御名をほめ歌い、朝ごとに、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは」という言葉は、日々の生活の中で神の恵みを認識し感謝することの喜びを表しています。

 


現代社会では成果や生産性が重視されますが、この詩は立ち止まって神の業を喜ぶ時間の大切さを教えます。「主に植えられた人は...老いても、なお実を結び」という約束は、神との関係に根ざした人生が

長期的な実りをもたらすことを示しています。常に新しいものを追い求める時代に、神の永遠の真実に根ざして生きることで、真の繁栄と内なる平和を見出せるのです。


 

今週も無事に過ごせたことに、心から感謝いたします。

 


家族がそれぞれの場所で元気に務めを果たし、愛犬のノアも健やかに過ごしてくれました。私自身も目標の距離を走りきり、家族のために料理を作るなど、充実した日々を送れたことに感謝しています。

 


妻は早朝からのアルバイトを、娘は一週間の実習を、それぞれ本当によく頑張ってくれました。(妻はこの時間、まだ朝のアルバイト中ですが…)

 


大きな出来事があったわけではありませんが、こうして日々の穏やかな歩みが守られていることは、まるで奇跡のようです。この奇跡を与えてくださった主なる神様に、深く感謝いたします。

 


今週は合計で140km、今日は久しぶりに30kmを走りました。心地よい疲労感に包まれており、少しゆっくり休もうと思います。

 

2025年6月26日木曜日

休む勇気と、満ちる喜びと、世界の色

今日は、走らないことを選んだ。

いつもの朝、ランニングシューズの紐を結ぶ代わりに、私は静けさを選んだ。それは「休みたい」という怠惰な囁きに負けたのではない。「休むべきだ」と叫ぶ、体からの真摯な要請に耳を傾けることに成功したのだ。

 

走り続ける力も、重い体を叩き起こす力も、確かに一つの強さだ。しかし、猛進しようとする自分を、内なる声を聞き届けて「待った」をかける力。それはもっと繊細で、もっと難しい、真の自己コントロールなのかもしれない。今日の私は、その静かな強さを手にした。体との対話に成功した朝だった。

 

体の声に耳を澄ませた一日は、自然と、心と体の喜ぶものを求める時間へと続いていった。

 

キッチンに立ち、私は鮮やかなオレンジ色の人参を刻んでラペを作る。ひんやりと喉を潤す、きゅうりとわかめの冷たいスープ。そして、食欲をそそる香りと音を立てて揚がっていく、いつもの韓国風フライドチキン。一つひとつに手をかける時間は、単なる作業ではなく、自分自身をもてなし、慈しむための儀式だ。

 

そして、その食事がもたらしてくれた満腹感は、昨日までの「とりあえず」とは全く違う質を持っていた。

 

ただ胃が満たされるだけの満腹は、時に虚しさを伴う。しかし、心から美味しいと感じる食事は、味覚の喜びが脳の深い部分を震わせ、生理的な満足感がホルモンとなって全身を駆け巡り、幸福という名の衣でそっと心を包み込んでくれる。それは、栄養補給という行為を超えた、総合的な「生の充実感」そのものだ。休むことを選んだ体が、今度は最高の栄養と喜びで満たされていく。この循環こそが、健やかさということなのだろう。

 

満ち足りた心で窓の外を眺めながら、ふと、曜日と色のことを思った。

今日の木曜日は、惑星ならジュピター、色で言えば黄色。輝きと豊かさの色だ。月曜の銀、火曜の赤、水曜の緑。私たちは、古代の人々が宇宙に見出したリズムの中で、知らず知らずのうちに生きている。そう思うと、日々の営みが壮大な物語の1ページのように思えてくる。

 

走らないことを選んだ朝。

心を満たす食事を作った昼。

世界の色彩に思いを馳せた夜。

 

それぞれは点のような出来事だったかもしれない。けれど、それらは「自分自身と世界に、丁寧に耳を傾ける」という一本の線で、確かに結ばれていた。そうして、私の特別で、何でもない、素敵な一日が静かに終わっていく。

 

2025年6月25日水曜日

様々な道

 


これまで様々な道を歩んできましたが、まだ足を向けたことのない道もたくさんあります。そのため、常に新しい道を見つけて歩み続けています。新しい道を進むと、新しい風景や新しい人々との出会いが待っています。そうした新鮮な発見は、心に小さな喜びをもたらしてくれますね。

 


慣れ親しんだ道を歩むのは確かに安心です。しかし、そこからは新たな発見や出会いは生まれてきません。常に変化ばかりを求めるのには抵抗を感じることもありますが、時折感じる新しい風は、固定化された日常に新鮮さと思いがけない喜びを運んでくれます。

 


予測のつかない人生において、突然の変化や自ら変えようとする意志は、時として心のビタミンのような役割を果たし、生きがいを与えてくれるのです。

二年目の夏

 


2025624日(火曜日)の朝も、ハクチョウはいつもの場所にいました。その姿を見ながら走り過ぎる一瞬、「この子がいつかいなくなったら、ここに銅像を建ててあげたいな」なんてことを思います。川沿いを歩く人々に、この一羽がどれほどの励ましと安らぎを与えてくれていることか。厳しい夏を越すのは、今年で二度目でしょうか。自分なりに生き抜こうと奮闘しているように見えます。正直に言えば、私はこの子について何一つわかっていません。わかっているようなフリをしているだけなのかもしれません。オスなのかメスなのか、何歳なのか、どこで生まれ、なぜ一羽だけになり、なぜ北へ帰らなかったのか…。でも、そんな情報は分からなくても、何の問題もないのです。ただ、ありのままの今の姿、そして、これまで生きてきたその姿だけで十分。神様に造られた同じ命として、今日という一日を精一杯に生きること。それが何より尊いからです。

 

「一羽で、寂しくないのだろうか?」

そう思うこともありますが、きっとそれも余計なお世話なのでしょう。この子にとっての「今日」は、神様から与えられた新しい一日であり、新しい世界であり、新しい出会いに満ちているはず。だから、私たちはそっと見守り、過度に干渉せず、ただ共に歩んでいく。それぞれの生きる道を、そのまま認め合うことが大切なのです。そして、たった一つだけ。これだけは心に留めて生きていきたい、と思うことがあります。人にも、このハクチョウにも、それぞれの人生があり、それぞれの生き方がある。しかし、その全ての命にとって最も大切なのは、命の創り主である神に頼り、イエス・キリストによって与えられる、新しい人生を歩むことだということです。

2025年6月21日土曜日

休息日

 


疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書1128-30節)

 


人生の荷について

人はこの世に生まれると、背負うべき荷があるようだ。問題は、その荷を自分が背負えるかどうかである。必ず負わなければならないのなら軽い荷がいい、と考える。しかし、自分一人では背負いきれない重荷もある。これも運命なのだろうか……。キリスト者は運命を信じないというが。

 

思考と創作について

毎日、自分の頭で思考し、物語を書き記している。これは良いトレーニングになる。AIばかりに頼らず、自分の頭で考えて物事を判断し、実行していくことが大切だ。

 

休息への願い

ゆっくり休みたいと思う時がある。毎日の日課が忙しいからではない。毎日のようにロングランをしているからでもない。自分の今の立場や、いる場所のせいかもしれないと考えてみるが、答えは見つからない。それでも、ゆっくりと休みたいと思う。

 

今という実在

自分は今、ここにいる。これが実在だ。そして今日も生きている。とりあえず11月を楽しみにしながら、頑張って生きよう。今を大事にして生きることが何より重要だ。

 

日常の喜び

今朝は卵チャーハン、ランチは焼き豚料理を作った。最近は人参ラペをよく作って食べている。楽しく作って、美味しく食べることも人生の良いことの一つだ。

 

移動への想い

今思えば、一か所に長くとどまるのが苦手かもしれない。高校の時から家を離れて暮らしているためかもしれない。仙台前の町での9年間が一番長かったかも……9年が自分の限界なのかもしれない。

2025年6月20日金曜日

生き続ける意味

 

1【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】

2神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。

3わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも

4海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ

5大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。

6神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。・・・

 


自然災害、社会不安、個人的な困難など、世界が激しく揺れ動くように感じる現代。上記の詩編46編は、どんな混乱の真っ只中でも「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ず

そこにいまして助けてくださる。」と力強く語ります。環境がどう変わろうとも、神は変わることなく、私たちを守る堅固な砦です。真の平和と安心は、状況の安定ではなく、揺るがない神への信頼のうちに見出されます。

 


多忙と喧騒の中で、意識して立ち止まり「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」との声に耳を傾けましょう。万軍の主は私たちと共におられます。そこにこそ、どんな嵐にも耐えうる不動の希望があるのです。今、頼れる方がいますか? 苦しい時、泣きたい時、不安な時、寂しい時、あるいは、いらだちを感じる時。そんな時、心の内を気軽に打ち明けられる人はいますか?主イエスは、いつでもあなたの言葉に耳を傾けてくださるお方です。そして、あなたが抱えるすべての問題の解決の道を教えてくださいます。何よりも、いつもすぐそばに寄り添ってくださる、そんなお方なのです。

 


今日も一日を走り抜き、生き抜きました。

こうして生きた日々が積み重なり、やがて年を重ねて、還るべき場所へと旅立つ。この世に永住することはできないと、誰もが知っています。しかし、人々はその旅立ちの準備をしないまま、ある日突然、この世を去ってしまうのです。

 


だからこそ、悔いが残る。

けれど、その悔いさえも人生の一部なのでしょう。悔いのない人生など、あり得ないのですから。それが、私たち人間のこの世での営みなのかもしれません。

 


ただ、大切なのは、悔いだけでなく、誇れるものを残すこと。

諦めずに家族を愛し続けたこと。嫌なこともあったけれど、最後まで共に暮らしたこと。一緒に笑い、共に泣き、手を取り合って歩んだこと。そうした人生の確かな足跡を刻むことが、何よりも大切なのです。

 


今日も2時に起き、祈りと掃除から一日が始まりました。愛犬ノアの散歩、ランニング、家族のためのサンドイッチ作り、アパートの階段掃除、会堂の除湿器のタンクの水を捨て、礼拝の説教準備、夕食の仕込み、妻を職場へ送り、買い物、洗濯物をたたむ。そして夜は、再び教会の仕事。


 

これらはすべて、生きているからこそできることです。繰り返される単調な日課かもしれませんが、これこそが人生。そして、どんな単調な毎日の中にも、主が共にいてくださることを感じます。

 


ただ食べて、飲んで、眠るためだけに生きているのではありません。この一日一日が、天の御国へと向かう大切な道のりの一部だと知っているからこそ、愛おしいのです。人生の意味と価値を、天にある主への信仰のうちに見出す者は、最も幸せな人です。

 


明日のことは誰にも分かりません。しかし、今この時をどう生きるべきかは分かります。だから、ただ今を精一杯に生きる。それだけです。

 


この8月、娘が成人を迎えます。「美味しいお酒を味わってみたい」と言うので、今から楽しみです。当日は私が腕を振るってご馳走を作り、色々なお酒を揃え、ノアも一緒の家族四人で、ささやかなお祝いをする予定です。感謝。

2025年6月18日水曜日

変わらない

 


「変わりない」という言葉は、安定を意味するとともに、時に停滞や苦しみを内包することもあります。

「お変わりありませんか?」と尋ねられ、「変わりませんね」と答えるその言葉の奥には、時に暗い影が潜んでいることもあるでしょう。

しかし、人生は日々の闘いの中にありながらも、私たちは生きることを選び、主が備えてくださる今日の恵みに感謝して歩むことが大切なのです。それこそが、キリスト者の姿――わたしたちの本国は天にあるという確信のもとに生きる者の歩みです。

本国の暮らしを夢見ながら、与えられた今日の人生を精一杯に生きること。その希望の中で、一歩一歩前へ進み続けるのです。


2025年6月17日火曜日

真夏日

 

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ。大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。・・・・・・(詩編46編)

 


新しい命、新しい太陽、新しい空、新しい風――その中を走り出す。

今日は初めてのコースを走った。何度も歩いたことはあったが、走るのは初めてかもしれない。

教会から、水戸整形外科、ヨークベニマル仙台西の平店の坂道を駆け抜ける。八木山動物公園駅まで約6キロ。そこから朝鮮学校、みやぎ霊園へと続く森の道を走り、青葉山駅、仙台城、東北学院大学、愛宕大橋、広瀬橋を通って教会へ。このルートで約20キロ。

夏場は20キロだけを走ることにした。無理はしない。

 


今日は真夏日になるという。

我が家の気がかりはノアちゃんだ。毛がふさふさのノアちゃんにとって、夏は厳しい季節。何とか乗り越えられるように対策を考えよう。(とはいえ、毎年特別なことはしていないのだが……)

 


久しぶりにハクチョウの姿を確認。今のところ元気な様子で、感謝。

 


娘は今日から実習。

朝、「美味しい夕食をよろしく」と言われた。母ではなく、僕に向かって。

今日は暑いから、夏らしい料理を考えよう。まずは娘の好きなカルパッチョ。それに加えてもう一品。妻をバイト先まで送り、帰りにロピアで買い物をする予定だ。

 


世界は戦争や争い、暴動などで騒がしい。

けれど、こちらは夕飯のメニューを考えている。

不条理な世界の中でも、人はそれぞれの場において精一杯生きていく。

主のために、人々のために、家族のために――憎まず、妬まず、争わず、欲張らず、感謝して生きる。明日のためではなく、今を生きる。

今日も、自分に与えられた人生の道を歩み続ける。

朝ランから見えた真の指導力:歴史が教える支配の本質

  朝ランから見えた真の指導力:歴史が教える支配の本質   海の日の山道で 今朝、海の日にも関わらず私の足は山の方向を向いていました。 20 キロ走った翌日は休息日と決めていたはずなのに、体が自然と外へと押し出してくれる。この感覚は不思議なもので、まるで何かに導かれる...