2026年1月31日土曜日

「日常」という名の、最も静かな祈り

 


「日常」という名の、最も静かな祈り

凍てつくニュースと、温かな洗濯物

一月最後の日。窓を開けると、北国特有の刺すような冷気が部屋に流れ込み、眠っていた意識をシャープに目覚めさせます。ふと開いたニュースの画面には、耳を疑うような強盗事件や、終わりの見えない異国の争い、そして各地を白く閉ざす大雪の報が並んでいます。世界は依然として、解きようのない複雑な結び目のように混沌としており、私たちの心にそっと不安の影を落とします。

そんな騒がしい世界の音を背中に聞きながら、私はいつものように、ごく普通の「今日」を始めます。


 


繰り返される、名もなき儀式

私たちの家を飾るのは、特別な事件ではなく、ごくありふれた風景の積み重ねです。

  • 起床と祈り: まだ暗い部屋で、静かに今日という日を委ねる。
  • 愛犬との散歩: 霜の降りた道を歩く、小さな足音と吐息。
  • ゴミ出しと洗濯: 昨日の汚れを払い、また新しい一日を整える。
  • ランニング: 氷点下の空気を吸い込み、身体の芯から熱を生み出す。
  • 買い物と料理: 誰かの健康を思い、旬の食材を選び、スープを煮込む。

聖書を読み、掃除をし、時には家族と笑い合い、明日への準備をする。 傍から見れば、それはどこにでもある、何の変哲もない日常かもしれません。けれど、この一つひとつの「名もなき動作」こそが、荒れ狂う嵐のような世界の中で、私たち家族が倒れずに立ち続けるための、最も力強いエンジンの回転音なのです。


 


混沌に抗う「普通」の力

なぜ、私たちはこれほどまでに「普通」を繰り返すのでしょうか。 それは、世界が複雑であればあるほど、シンプルに生きることこそが最大の抵抗であり、祈りになるからです。

かつて、大きな嵐の中で弟子たちが怯えていたとき、主はただ静かにそこに居られました。 特別な魔法で世界を一変させることよりも、今日、目の前にあるパンを分け合い、共に歩むこと。神様が私たちに託されたのは、壮大な成功物語ではなく、**「今日という一日を、愛を持って丁寧に造り上げること」**だったのではないでしょうか。

「あなたがたの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたがたは命を得、幸いになり、あなたたちのものとなる土地に長く住むことができる。」(申命記 533節より)

大きなニュースの裏側に、私たちのささやかな食卓があり、祈りがあります。その「普通」を積み重ねること。それこそが、神様から与えられた命を最も誠実に、大切に扱うということなのだと、冷えた空気の中で確信しました。


 


希望を編む、あなたの手へ

もしあなたが今、世界の混沌に押しつぶされそうになっていたり、「自分は何も特別なことができていない」とため息をついているなら、どうか思い出してください。

あなたが今日、誰かのために淹れたお茶、丁寧に畳んだ洗濯物、そして静かに捧げた祈り。 それらすべてが、この世界に灯される小さな、けれど決して消えない希望の光です。

一月が終わり、また新しい月が始まります。 特別なことはなくていい。ただ、与えられた今日という器を、あなたの誠実さで満たしていきましょう。

 

1月は18日間で450キロ完走

 


冷気を熱に変えて —— 四百五十キロの軌跡と、昇る朝日

氷点下四度の呼吸、白く弾ける生命

今朝の五時。玄関のドアを開けた瞬間、マイナス四度の冷気が容赦なく肌を刺しました。 街はまだ深い眠りの中にあり、街灯の光だけが凍てつく路面を静かに照らしています。

肺の奥に吸い込んだ空気は氷のように冷たく、一瞬、身体が縮こまるのを感じます。けれど、走り出して数キロ。足裏が地面を叩き、心拍が上がっていくにつれ、その冷気は自分自身の内側で「熱いエネルギー」へと変換されていきます。 吐き出す息は白く、けれどその中身は、生命の燃焼そのものです。



「四百五十キロ」という道のりの意味

今日、二十一キロを走り終えました。 これで今週は百七キロ。そして、一月という一ヶ月を振り返れば、十八日間で約四百五十キロという距離を駆け抜けたことになります。

人は、「なぜそこまでして走るのか?」と問うかもしれません。 確かに、凍える朝に温かい布団を離れるのは、意志の力だけでは難しい時もあります。けれど、走り続ける中でしか出会えない景色があるのです。二十一キロの終盤、視界の先からゆっくりと顔を出した朝日。 それは、単なる自然現象ではありませんでした。夜の闇を切り裂き、凍える世界を赤々と照らし出すその光は、私の内側に眠る「希望」と「勇気」に再び火を灯してくれる、神様からの合図のように感じられたのです。


 


命がある限り、私たちは「動詞」を生きる

走り続けることは、私にとって単なる運動ではありません。それは「祈り」であり、「愛」の告白でもあります。私たちは、一度きりの命という贈り物を預かっています。 その命をどう使うか。聖書は、私たちがただ立ち止まっているのではなく、与えられた道を走り抜くことを求めています。

「走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(テモテへの手紙二 47節より)

人生という長い道のりには、マイナス四度の冷風が吹き荒れる日も、足が動かなくなるほど疲弊する日もあるでしょう。けれど、その冷たさをエネルギーに変え、一歩を刻み続けること。

  • 走り続けること。
  • 祈り続けること。
  • 語り続けること。
  • 愛し続けること。

これらはすべて、私たちが「今、ここに生きている」という証です。明日から始まる二月も、道は続いていきます。どんな天候であっても、昇る朝日は変わらず私たちを待っています。


 


新しい月を迎えるあなたへ

あなたは今、どんな冷気の中に立っているでしょうか。 もし、心が凍えてしまいそうな場所にいたとしても、大丈夫です。まずは一歩、踏み出してみてください。 その小さな動きが、あなたの内側にある熱を呼び覚まします。 四百五十キロという大きな数字も、始まりはたった一歩の踏み出しからでした。

主の光は、すでにあなたの行く先を照らしています。 その光を信じて、共に新しい月へと足を進めましょう。

 


今日も、精一杯に生きることです。命がある限り・・・

2026年1月30日金曜日

GOLDEN

 


2026年の幕開けとともに世界を席巻している『KPOPデーモン・ハンターズ』。華やかなダンスと、影で繰り広げられる死闘のコントラストは、単なるエンターテインメントの枠を超え、私たちの「生き方」に鋭い問いを投げかけています。牧師、そして一人のランナーとしての視点から、この作品と主題歌『Golden』を深く読み解いてみましょう。


 

1. キリスト教的視点による「二重生活」と「犠牲」の考察

劇中のガールグループ「Huntrix」が送る、煌びやかなアイドルと孤独なハンターという二重生活は、実はクリスチャンの歩みそのものを象徴しているように見えます。

  • 「世にあって、世のものではない」存在: 聖書は、私たちがこの世で生活しながらも、同時に神の国の市民(天の国に属する者)として、目に見えない霊的な戦いの中にいることを教えています(エフェソの信徒への手紙 6:12)。彼女たちがステージで見せる笑顔の裏で剣を振るう姿は、私たちが日常の穏やかな顔の裏で、心の闇や罪と戦い続けている姿と重なります。
  • 「仕えられる者」ではなく「仕える者」としての犠牲: 本来、アイドルはファンから「崇められる(Idol=偶像)」存在です。しかし、彼女たちはその特権を捨て、人知れず他者の命を守るために傷つきます。これは、王としての栄光を捨て、最も低い者の姿をとって十字架にかかられたイエス・キリストの自己犠牲の姿の再投影といえます。
  • 隠れた徳の価値: 誰にも賞賛されない戦い(ハント)こそが、彼女たちの本質であるという設定は、「あなたの父は隠れたところを見ておられ、報いてくださる」(マタイによる福音書 6:4)という聖書の教えに通じます。

2. 主題歌『Golden』の歌詞に込められたメッセージ

劇中で流れる『Golden』は、単に「輝かしい成功」を歌っているのではなく、**「試練を経て精錬される魂」**を歌っています。

  • 「火を通り抜けた輝き」: 歌詞の中には「Flashlight(一瞬の光)」と「Golden(不変の金)」を対比させる一節があります。これは、旧約聖書ヨブ記2310節の**「神はわたしの行く道を知っておられる。わたしを試せば、わたしは金(Golden)として出てくるだろう」**という言葉を彷彿とさせます。
  • 弱さを受け入れる強さ: サビの「We are golden, not despite the cracks, but because of them(ひび割れがあるからこそ、私たちは黄金なんだ)」というフレーズ。これは、自らの弱さを誇り、そこに神の力が完成されるという、パウロの「弱さの中にある力」の思想と強く共鳴しています。
  • 「愛」という名の武器: デーモンを倒す最後の鍵が、技術や魔力ではなく、メンバー間の「信頼」とファンへの「愛」であるという結末は、キリスト教の核心である「愛こそが最大の勝利である」という真理を、現代のポップカルチャーの言語で見事に表現しています。

希望を持って、ステージ(日常)へ

44キロを走り抜く時、あるいは巡礼の道で一人歩む時、自分もまた、目に見えない「デーモン(疑念や疲労)」と戦うハンターなのかもしれません。

映画の中の少女たちが、ボロボロになりながらも再びマイクを握り、ステージに立つ姿。それは、挫折や痛みを経験しながらも、主の愛によって再び立ち上がり、今日を生きようとする私たちの姿そのものです。私たちの人生という物語もまた、主の手によって、最後には最も美しい「黄金(Golden)」へと仕上げられていくことを信じましょう。

今日も、精一杯に生きることです。

 

同じ屋根の下の、遠い島々を繋ぐもの

 


👨‍👩‍👧‍👦同じ屋根の下の、遠い島々を繋ぐもの

湯気の向こうに、沈黙が流れる季節

昨夜は、23時ごろに娘のバイトが終わるのに合わせて迎えに行きました。車の中で交わした何気ない会話が、思いがけず心を温めてくれました。その時間を持てたことに、ただただ感謝しています。

睡眠時間は少し削られましたが、まったく問題ではありません。睡眠よりも大切な誰かのために時間を使えることは、むしろ喜びであり、生き甲斐です。 

人生の中で、こうした小さな「尊い時間」を積み重ねられることこそ、幸せなのだと思います。今この瞬間、窓を叩く冷たい風が、冬の深まりを静かに知らせています。

一日の終わり、家路を急ぎ、玄関のドアを開ける。そこには温かな明かりが灯っているはずなのに、ときどき、家の中が外の空気よりも静まり返っているように感じられることはないでしょうか。そんな静けさの中でこそ、人はふと、自分の心の声に耳を澄ませるのかもしれません。

そして、誰かと交わした小さな会話や、温かな時間の意味を、そっと思い返すのだと思います。けれども、キッチンのテーブルに置かれた、誰かの食べ終えたあとの食器。 廊下の向こうの閉まったドアから漏れる、わずかなスマホの音。 かつて一家団欒の象徴だった「茶の間」の風景は、いつしかそれぞれの個室という「島々」の集まりへと姿を変えてしまったようです。


 


効率のなかで、こぼれ落ちた「不自由な愛」

現代の家族は、核家族化が進み、さらにその中でも一人ひとりが自分だけの世界を造り上げるようになりました。 SNSでの繋がり、個人の趣味、あるいは深夜まで続く仕事や勉強。私たちは「自分の時間を大切にする」という名目のもとに、家族という最も身近な他者の存在を、どこか遠くに追いやっているのかもしれません。「自由に決めていい」 「干渉しないで」

そんな言葉が尊重される一方で、私たちは気づかないうちに、**「共にいることの不自由さ」**から逃げ出しています。食事の時間を合わせること、今日あった些細な出来事を報告し合うこと。それらは確かに効率が悪く、面倒なことかもしれません。けれど、その「面倒くささ」こそが、バラバラに漂う島々を繋ぎ止める、唯一の錨(いかり)だったはずなのです。

いったい、何が起きたのでしょうか。私たちは便利さを手に入れる代わりに、相手の心の温度を感じる機会を、少しずつ手放してしまったのかもしれません。


 


孤島に橋を架ける、たった一言の勇気

聖書は、私たちに「隣人を自分のように愛しなさい」と教えます。 この「隣人」とは、遠い国の人だけではありません。むしろ、一番近くにいて、一番その内側を知るのが難しい、扉の向こうの家族のことではないでしょうか。家族とは、最初から一つである「完成品」ではありません。 すれ違う心、言葉足らずな寂しさ、ぶつかり合う個性を抱えながら、それでも「共に生きる」ことを諦めずに選び続ける。そんな祈りにも似た日々の積み重ねによって、ゆっくりと「造り上げられていく」共同体なのです。たとえ生活のリズムがばらばらでも、 たとえ共有する時間が少なくても、 相手の世界を無理に壊すのではなく、その境界線にそっと腰を下ろしてみる。

「おかえりなさい」 「今夜のスープ、温かいよ」

そんな、見返りを求めない小さな優しさが、冷え切った家の中に一筋の光を通します。愛とは、理解すること以上に、**「そこにいることを喜び、待ち続けること」**なのかもしれません。



 

希望を持って、扉をノックするあなたへ

今夜、もし家族の誰かと顔を合わせる瞬間があるなら、ほんの少しだけ視線を合わせてみませんか。 答えを求めない問いかけ、ただそこにいることを肯定する眼差し。 それだけで、凍てついた島々の間に、温かな海流が流れ始めます。愛とは、特別なドラマではなく、今日という一日の「平凡な誠実さ」の中に宿るものです。 あなたの守る食卓の温度が、誰かの凍えた心をそっと解かしてくれますように。

今日も、精一杯に生きることです。

 

心の「停滞期」を、聖なる休息に

 


心の「停滞期」を、聖なる休息に

「空っぽ」のままで、主の前に

祈りの言葉が出てこない、心が枯れた井戸のように何も湧いてこない――。そんな「心の停滞期」が誰にでも訪れます。周りの人々が皆、光に向かって軽やかに走っているように見えるとき、立ち止まっている自分にがっかりしてしまうこともあるかもしれません。けれど、聖書に登場する預言者エリヤもそうでした。大きな働きをした後、彼は疲れ果てて木の下に座り込み、「もう、これで十分です」と、生きる気力さえ失ってしまいました。

 


「やる気」に相談するのをやめる

そんなとき、一番の処方箋は「やる気が出るのを待つ」ことではありません。むしろ、やる気という頼りない感情に相談するのを一度やめてしまうことです。

神様が疲れ切ったエリヤに最初に与えられたのは、説教でも励ましでもなく、「パンと水と、深い眠り」でした。やる気が出ないのは、心が怠けているからではなく、あなたの魂が新しい恵みを溜めるために「待機」している証拠です。

「今日は、これだけでいい」 そう決めて、コップ一杯の水を丁寧に飲む。窓を開けて外の空気を吸う。あるいは、一分だけ目を閉じて主の静かな臨在に身をゆだねる。

 


弱さの中に注がれる愛

私たちの価値は、何かができる「やる気」や「成果」によって決まるものではありません。私たちが「からっぽ」で、一歩も動けないときにさえ、主は変わらぬ愛の眼差しで隣に座ってくださっています。停滞期は、あなたが自分の力で走るのをやめ、神様の力によって「生かされている」ことを思い出すための、大切な聖なる休息の時間なのです。

答えが出なくても、霧が晴れなくても大丈夫です。今の重たい身体のまま、主の御手の中に身を預けてみてください。

今日も、前進です。

命という器を、慈しむリズム

 


命という器を、慈しむリズム

🌅 朝の冷気と、足裏に響く鼓動

今日は大年寺階段トレーニングの日。 決めているわけではないのに、走った翌日は自然と階段と散歩へ向かってしまう。 頬を刺す冷たい空気、白く立ちのぼる吐息。 一歩ごとに路面を蹴るたび、足裏から伝わる振動が、眠っていた体と心をゆっくりと目覚めさせていきます。走ること、歩くこと、食べること、休むこと、祈ること、そして眠ること。 一見バラバラに見えるこれらの営みは、私の中で一本の細い糸のようにつながっています。 命の糸です。問題は、その糸がどこにつながっているか。 本来、命は命の源である主なる神様につながるべきもの。 けれど現実には、私たちの糸はしばしば「自分の意志」「欲」「お金」「名誉」「力」へと向かってしまいます。そこからは、真の命のエネルギーは流れてきません。 一時的な喜びや達成感はあっても、長く続くことはない。 なぜなら、それらは命を育む本当の泉ではないからです。

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネによる福音書146節)

 


🌿 「健康」という言葉の、その先にあるもの

私たちはつい、健康を「数値」や「体調」で測ってしまいがちです。 けれど、毎日350段の階段を上り、何十キロもの道を走り続ける中で、ふと問いが浮かびます。

「なぜ、私はこの体を動かそうとしているのだろう」

もし健康そのものが目的になってしまったら、 体が動かなくなったとき、私たちは生きる意味を見失ってしまうかもしれません。でも、視点を少し変えてみる。 この体、この呼吸、この鼓動は、すべて自分のもののようでいて、 実は神様から預かった 命という器 なのだと。そう思えた瞬間、日々のルーティンは義務ではなく、 与えられた命への「お礼」 に変わっていきます。

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。(ヨハネによる福音書53940節)

 


🔧 聖なるメンテナンスの時間

激しい走りのあと、30分以内にプロテインを飲み、バナナをかじる。 一時間後には、温かなご飯と納豆、卵をいただく。 それはただの栄養補給ではなく、 使い切った器に再び命を満たしていく、静かな儀式のようです。

そして夜の静けさの中で、あるいは朝の光の中で祈る。 祈りとは、神様との対話の中で魂の呼吸を整えること。 御声に耳を澄ませること。 だから瞑想とは違うのです。

体と心は、私たちが思う以上に深く響き合っています。

  • 走ること:命の躍動を喜び、感謝すること
  • 食べること:与えられた恵みを、感謝して受け取ること
  • 休むこと:弱さを認め、すべてを委ねること
  • 祈ること:命の源である神様へ心をつなぎ直すこと

この四つのリズムが重なり合うとき、 私たちは「健やかさ」という調和の中に身を置くことができるのだと思います。

 


🌤 今日を歩み出すあなたへ

もし今、心や体のバランスを崩し、足取りが重く感じられるなら、 どうか自分を責めないでください。器が少し欠けていても、ひびが入っていても、 そこからこそ、別の光が差し込むことがあります。

まずは深く一つ、呼吸をしてみてください。 そして今日、あなたが口にするもの、あなたの体が動くことを、 そっと慈しんでみてください。立派な走りでなくてもいい。 特別な食事でなくてもいい。

「生かされている」という温かな温度を、あなたの体で感じること。 それこそが、何よりの健康への近道です。あなたの命の器が、今日も穏やかな愛で満たされますように。

今日も、精一杯に生きることです。

 

2026年1月29日木曜日

迷路を抜けるために

 


迷路を抜けるための、たった一つの「座標」

凛とした寒さと、絡まり合う思考

今朝の仙台は、空気が研ぎ澄まされた刃物のように冷たく、肌を刺します。でも自分はこれを美味しく味わっています。いつものように走り出すと、足元から伝わる硬いアスファルトの感触が、複雑に絡まりがちな思考を少しずつ解きほぐしてくれるのを感じます。私たちは、なぜこうも「シンプル」を求めて「複雑」に迷い込んでしまうのでしょうか。 吐き出す息が白く濁っては消えていくように、私たちの悩みも、本来はもっと形のない、シンプルなものだったはずなのです。


 


「賢さ」を強要される世界の仕組み

今の世界を見渡すと、まるで「考えない者は、容赦なくダメージを受ける」という厳しい仕組みが出来上がっているようです。 情報の洪水、複雑な社会システム、突然訪れる環境の変化。 賢く、柔軟に立ち回らなければ生き残れない……そんな焦燥感に、私たちは背中を押され続けています。

  • シンプルな人生を、わざわざ複雑に生きている自分。
  • 複雑な出来事を、驚くほどシンプルに受け流せるあの人。

その違いは、どこにあるのでしょうか。 私たちは皆、「何が大事で、何が大事でないか」を一瞬で見極め、迷わず一歩を踏み出せる人になりたいと願っています。けれど、現実は思うようにいかず、ささいな選択に迷い、状況に振り回されては自分にがっかりしてしまう。

この「どうすれば幸せに、賢く生きられるか」という問いは、人類が何千年も解けずにいる、永遠の課題なのかもしれません。


 


嵐の真ん中で、針を固定する

人生のハンドルを握り、荒波を越えていくために必要なのは、優れたテクニックや膨大な知識ではありません。 それは、どれほど船が揺れても、常に「北」を指し続けるコンパスの針です。

聖書は、私たちの人生を複雑にしている「恐れ」や「欲」を、たった一つの愛で貫いてみせます。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイによる福音書 633節)

あれもこれもと抱え込み、すべての「もしも」に備えようとするから、人生は複雑になります。けれど、**「主イエス・キリストを信じ、その愛の中に留まる」**という一点に座標を定めるとき、世界は驚くほどシンプルに姿を変えます。信じるか信じないかに関わらず、これは一つの事実です。

「主が共におられるから、大丈夫だ」という確信。これこそが、どんな突然の出来事にも恐れず、迷わず、柔軟に対応できる「本当の賢さ」の正体ではないでしょうか。


 


希望を胸に、今日を造り上げる

人生は短いけれど、時に重く長く感じられます。 けれど、あなたが「大切なもの」をたった一つだけ握りしめているなら、その道はもう迷路ではありません。立派な答えが出なくてもいい。 今日という一日の中で、「これは本当に大切だろうか?」と自分に問いかけ、愛のある方を選び取っていく。その繰り返しのなかに、満足と幸せは静かに宿ります。冷たい風の中を、まっすぐに。 あなたを愛し、導いてくださる主と共に、新しい一歩を踏み出しましょう。

今日も、最後まで精一杯に生きることです。

 


今日は久々に豚キムチ炒めを作りました。ご飯が進む一品料理です。

繰り返される嵐のなか、たった一つの「北極星」を見つめ

 


繰り返される嵐のなか、たった一つの「北極星」を見つめて

凍てつく風と、変わらない足音

今朝も、頬を刺すような冷たい空気が街を包み込んでいます。 深く息を吸い込むと、肺の奥まで冬の静寂が染み渡り、一歩一歩踏みしめる地面の硬さが、自分の存在を確かに教えてくれるようです。

季節は巡り、冬が来ればまた春が来る。そんな変わらないリズムの中に身を置きながら、ふと、私たちの歩んできた「歴史」という名の長い道に思いを馳せてみました。


生き残ってきた誇りと、拭えない「影」

振り返れば、人類の歩みは壮絶な「生き残りの記録」でもあります。 数えきれないほどの戦争があり、大地を揺るがす地震や、すべてを飲み込む津波、街をなぎ倒すハリケーンが幾度となく私たちを襲いました。それでも、人は生き残りました。 倒れても立ち上がり、瓦礫の中から新しい芽を見つけ、今日まで命を繋いできました。その生命力の強さには、ただただ敬意を覚えずにはいられません。

しかし、その一方で、私たちの心には一つの重い問いが居座り続けています。

 「私たちは、本当に成長しているのだろうか?」

どれほど過酷な経験をしても、私たちはまた同じ場所で憎しみ合い、同じ過ちを繰り返してしまいます。文明がどれほど進歩しても、人の心の奥底にある「影」は、何千年も前から変わっていないのではないか。そんな葛藤が、冬の霧のように視界を遮ることがあります。


 


歴史の螺旋を突き抜ける「希望」

動物たちは本能に従って生きますが、人間は「悩み」ながら、そして「意味」を求めながら生きる存在です。同じ過ちを繰り返す自分たちに絶望しそうになるとき、私たちはどこに視線を向ければよいのでしょうか。そこで私は、一つの確かな光を思い出します。 それは、私たちが自力で到達できる「進歩」の先にあるものではなく、向こう側から差し込んでくる光。救い主、イエス・キリストという希望です。

  • 変わらない愛: 私たちが何度つまずいても、変わらずにそこにいてくださる存在。
  • 救いの手: 私たちが自らの過ちで沈みそうになるとき、真っ先に手を伸ばしてくださる方。

私たちの成長は、自分の力で完璧になることではなく、「自分は一人では歩けない」と認め、その救いの手を握りしめることから始まるのかもしれません。世界がどれほど揺れ動いても、歴史がどれほど残酷に繰り返されても、その光だけは決して揺らぐことのない「北極星」のように、私たちの進むべき道を照らし続けています。


 


今日を歩むあなたへ

歴史という大きな流れの中で見れば、私たちはほんの小さな点に過ぎないかもしれません。 けれど、その小さな点の一つひとつを、主はかけがえのない宝物として見つめておられます。過去の過ちに縛られず、未来の不安に怯えすぎず。 今、隣にいてくださる救い主を信頼して、今日という一日を丁寧に

編み上げていきましょう。 私たちが生き残ってきたのは、単なる偶然ではなく、この愛の中で「新しく生きる」ためなのですから。

一歩、また一歩。 光の差す方へ、共に歩んでいきましょう。

今日も、精一杯に生きることです。

見えない道が教えてくれたこと

 


🌅 見えない道が教えてくれたこと

1. 日常のフック(導入)

午前5時。まだ夜の名残が空に薄く残る時間、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みながら走り始めました。 今日は楽天球場のあたりまで足を伸ばし、気づけば21キロ。 静かな街に、靴音だけがリズムを刻んでいました。



途中、仙台で一番長い(たぶん)歩道橋を初めて走って渡りました。 貨物列車の終点に、こんな歩道橋があったなんて。 毎日のように走っているのに、まだ知らない道がある。 その事実が、なんだか嬉しくて、胸の奥がふっと明るくなりました。

 


2. 葛藤と気づき(展開)

走り続けるうちに、普段なら気づかない細い道や、誰も通らないような裏道にも目が向くようになりました。 「こんなところに道があったんだ」 「こんな景色が隠れていたんだ」 新しい発見は、いつも足を前に出したその先にありました。

ふと見上げると、カラスの群れが朝の空を横切っていきました。 彼らはただ、生きるために飛んでいる。 食べるため、仲間のため、今日を生きるために。

その姿を見ながら、ふと考えました。 なぜ人間だけが、こんなにものことを考えるのだろう。 誰もがいつか迎えると知っているのに、なぜそこに心がとらわれてしまうのだろう。

 


3. 普遍的な真理への昇華(核心)

聖書には、こんな言葉があります。 「わたしが来たのは、羊がいのちを得、しかも豊かに得るためである。」 (ヨハネ10:10

命は、死ぬために与えられたのではない。 生きるために、しかも豊かに生きるために与えられた。

カラスが空を飛ぶように、 木々が光に向かって伸びるように、 私たちもまた、生きるために存在している。

死を考えるより、 「どう生きるか」を考えるほうが、ずっと大切なのだと、 朝の風がそっと教えてくれました。

 


4. 「生きる」への派遣(結び)

僕は、主のために生きる。 家族のために、教会のために、人々のために生きる。 そして、今日という一日を、できるかぎり丁寧に、誠実に歩みたい。

見えない道は、歩き出した人にだけ開かれていく。 その先に何があるかは分からなくても、 一歩を踏み出すたびに、世界は少しずつ広がっていく。

どうかあなたの今日にも、 小さくても確かな光が差し込みますように。

今日も、精一杯に生きることです。

2026年1月28日水曜日

夜食を食べながら思いついたこと

 


「私には、何があるのか」という問い

転職を考えたり、予期せぬ挫折を味わったりしたとき、私たちは決まって自分自身を厳しく「検品」し始めます。

  • 「私に、誇れるキャリアはあるだろうか?」
  • 「誰かに胸を張って示せる実績が、何か一つでもあるだろうか?」

そうやって「持っているもの」のリストを作っては、空白の多さにため息をつく。履歴書の一行を埋めるために、必死で「残せるもの」を探し回る。けれど、そうして何かを積み上げても、心に空いた小さな穴が塞がることはありません。

人生は、瞬きをするほどに短い。 けれど、悩みの霧の中にいる夜は、果てしなく長く感じられます。 その短さと長さの狭間で、私たちは「結果」という名の果実を急いで収穫しようと焦ってしまうのです。


 


「何を残すか」ではなく「何を造るか」

しかし、少しだけ視点を変えてみませんか。 聖書が教えてくれるのは、神様が私たちの「完成品」を欲しがっておられるのではなく、今この瞬間、私たちが共に歩んでいる「プロセス」を愛しておられるということです。人生とは、何かを倉庫に貯蔵していく「蓄積」ではありません。 それは、目の前の土を耕し、名もなき種を植え、まだ見ぬ明日へと向かって道を切り拓いていく**「創造」**の営みです。

  • 立派な肩書きを残すことより、今日、隣人に優しい言葉をかけたこと。
  • 大きな富を遺すことより、誰かの痛みに身を重ね、共に祈ったこと。

たとえ世間からは「挫折」と見える場所であっても、そこであなたが自分と向き合い、誠実であろうと努めるなら、あなたは今、最高に貴い人生を「造り上げて」いる最中なのです。誇れるものは、目に見える成果である必要はありません。 「今日、私は精一杯に愛しようとした」というその意志こそが、あなたの人生を形作る最も美しい光の糸になります。


 


希望を持って、新しい風の中へ

人生は短いからこそ、愛する人を愛する時間を慈しみたい。 人生は長く感じるからこそ、ゆっくりと時間をかけて、良きものを育んでいきたい。「誇れるものがない」と下を向く必要はありません。あなたが今、その足で大地を踏みしめ、悩みながらも「前進」しようとしている。その姿そのものが、神様が造り上げようとしている一つの壮大な物語なのです。完成図が見えなくても大丈夫。主があなたの手を取り、一歩ずつ、新しい色を編み込んでくださいます。

「前」「進」

 


🌅階段の上に待っていた言葉と、朝の光の中で見つけたもの

昨日は44キロを走り切った体をいたわるように、今朝は大年寺の階段トレーニングと散歩に切り替えました。 255段の階段を一気に駆け上がると、息は上がっているのに、心のどこかがすっと前に向く。 そこに待っているのは「前進」という言葉です。

 


そのまま歩き続けると、広場では8人のお年寄りがラジオ体操をしていました。日曜日以外は毎朝集まり、体操をし、そのあと軽食を囲みながらおしゃべりをする。体を動かすだけではなく、 言葉を交わし、笑い合い、心を満たす時間。 きっとこれこそが、彼らの健康の源なのだと思います。 人は、体だけでなく、心も誰かとつながることで元気になる。 その姿を見ながら、大切なことを教えられた気がしました。

 


ふと空を見上げると、今日も太陽が昇っていました。 赤々とした光が、誰をも選ばず、差別なく、すべての人に降り注いでいます。 走る人にも、階段を上る人にも、ラジオ体操をする人にも、 そして、今日を少し不安に感じている人にも。太陽はいつも同じように光を届けてくれる。 その光のように、私たちもまた、 小さくても誰かに温かさを届けられる一日でありたいと思いました。

今日も、前へ。 ゆっくりでも、一歩ずつ。

2026年1月27日火曜日

朝ラン44キロ完走

 


心の曇りを突き抜けて —— 四十四キロの先に見えた「理由」

暁の冷気と、路面を叩くリズム

今朝の仙台は、肌を刺すような冷気が街を包み込んでいました。 まだ星が眠りの中に留まっている早朝、私はシューズの紐をきつく締め、特別な思いを胸に四十四キロという距離に挑みました。

一歩、また一歩。 フルマラソンをも超えるその道のりは、肉体の疲労だけでなく、自分自身の内面と深く向き合う静寂の時間でもありました。吐き出す息が白く弾け、心拍の鼓動だけが自分の存在を証明するように響きます。


 


本当の敵は「雨」ではなく「霧」

長い距離を走る時、私たちの足を止める一番の原因は何でしょうか。 凍てつくような雪でしょうか。降り続く雨でしょうか。あるいは、容赦なく照りつける太陽でしょうか。

実は、そうではありません。 ランナーの心を最も挫けさせるのは、外側の天候ではなく、**内側の「心の曇り」**です。

  • 「なぜ、自分はこんな苦しいことをしているのか」
  • 「この一歩に、一体どんな意味があるのか」

走る意味が曖昧になったとき、心の中に深い霧が立ち込めます。すると、わずかな向かい風さえも絶望的な壁のように感じられてしまうのです。反対に、「なぜ走るのか」という理由が岩のようにしっかりと定まっていれば、雪が舞おうと、嵐が来ようと、足は自然に前へと進みます。外側の条件は、もはや「走らない理由」にはならないのです。


 


「生きる理由」が、今日を支える骨組みになる

これは、私たちの人生という長い道のりにおいても、全く同じことが言えるのではないでしょうか。

なぜ、今日も働くのか。 なぜ、机に向かって勉強するのか。 なぜ、この困難な世界で生き続けなければならないのか。その「確かな理由と目的」を見失うとき、私たちは人生の天候に振り回されてしまいます。上手くいっている時はいいけれど、一度逆風が吹けば、立ち上がる力を失ってしまう。

聖書は、私たちが「たまたま」ここにいるのではなく、神様の確かなご計画と愛によって、この時代、この場所に「遣わされている」ことを教えてくれます。

主はわたしたちに「生きよ!」とおっしゃいます。

私たちが生きる最大の理由は、私たちが神様に愛され、必要とされているからです。その目的が魂の錨(いかり)として深く下ろされているなら、どんなに人生の季節が厳しくても、私たちは歩みを止めることはありません。


 




今日を歩むあなたへ

今、あなたの前にはどんな景色が広がっているでしょうか。 もし、足元が見えないほどの霧の中にいたとしても、大丈夫です。

まずは、「今日、生かされている」というその事実の中に、神様の招きを見出してみてください。大きな成功や立派な成果でなくていい。ただ、与えられた今日という一日を、愛する誰かのために、あるいは自分自身の成長のために、一歩ずつ進めていく。

その「理由」さえあれば、あなたはどんな嵐も突き抜けていくことができます。 主は、あなたの伴走者として、今も隣を走っておられます。



今日も、精一杯に生きることです。

2026年1月26日月曜日

自由?

 


今日は朝から、4月の教会総会、そして5月の教区総会に向けた提出書類の作成に没頭していました。パソコンのキーを叩く音が、静かな部屋にリズムを刻みます。

ようやく全ての文書を書き終え、教会の月報「EL CAMINO(道)2月号」の印刷も完了しました。 刷り上がったばかりの紙の、かすかなインクの匂い。この一枚一枚が、明日には手紙と共に教会員の方々のもとへ届けられます。その一連の「務め」を終えたとき、私の心には小さな安堵の風が吹き抜けました。


 


「自由に決めていい」という冷たさ

一息ついた合間に、ある映画を観ました。 離婚を決めた両親が、一人息子にこう告げるシーンがあります。 「お父さんとお母さん、どっちと暮らすかはあなたが自由に決めていいのよ」その言葉を聴いたとき、胸の奥がチリりと痛みました。 「自由に決める」。一見すると、子どもの意志を尊重しているように聞こえます。けれど、まだ小さな背中の少年にとって、それはあまりに過酷な「重荷」ではないでしょうか。どちらを選んでも、もう片方を傷つけてしまう。その責任を子どもに背負わせることは、果たして本当の自由なのでしょうか。私たちの日常には、そんな「突き放された自由」が溢れている気がします。 「好きなようにしていい」という言葉の裏側に、時として無関心や、責任の放棄が隠れていることがある。選ぶための道標も、支える手もない中での自由は、時に暗闇の中に一人放り出されるような心細さを伴います。


 


選ぶ力を与える「温度」

映画を観終え、私は妻を送り出し、その帰りに夕食の買い出しへ向かいました。 今夜の献立は、シシャモと白菜のスープ。 そしてテスト期間中で机に向かっている娘のために、何か元気の出る美味しいものを作ってあげようと考えながら、スーパーの棚を歩きます。

ふと思いました。 娘が安心して勉強に集中できるのも、私がこうして教会の仕事に打ち込めるのも、そこには「帰る場所」があり、「待っている温もり」があるからではないか、と。

聖書は、私たちが自分勝手に迷い出る「自由」ではなく、愛という大きな枠組みの中に守られている「自由」について教えてくれます。 それは、**「あなたは独りではない。私が共にいるから、安心して歩みなさい」**という確信です。月報と一緒に送る手紙の一筆一筆。 娘のために選ぶ食材の鮮度。 妻を送り届ける車の温度。

それらの「ささやかな責任」の積み重ねこそが、人を真の意味で自由にします。愛されているという安心感があって初めて、人は自分の人生を力強く選んでいくことができるのです。


 


希望を持って、食卓を囲むあなたへ

私たちは、大きな決断に立ちすくむことがあります。 けれど、人生の答えは、案外今夜のスープの湯気の中に隠れているのかもしれません。

誰かのために美味しいものを作る。 誰かのために丁寧に手紙を書く。 そんな「誰かのための不自由」を喜んで引き受けるとき、私たちの心には、どんな映画の台詞よりも確かな「生きる力」が宿ります。今夜は白菜スープが、家族の心と体を温めてくれることでしょう。 明日届く月報が、誰かの孤独を癒す道標になることを願いながら。

今日も、精一杯に生きることです。