2022年7月30日土曜日

気仙沼からの祈りの旅・・・しかし

これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(創世記15:1

神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう。(詩編56:12

恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。(イザヤ書41:10

イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。(マルコ5:36

皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。(マルコ6:50

 


― 気仙沼からの祈りの旅・・しかし・・・-

最初の人、アダムとエバが神様の命令に逆らい善悪を知る知識の木の実をとって食べた後、二人に現れた一番大きな変化は神様を恐れることでした。彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」(創世記3:10)それ以来、人間は生まれつき罪ある者(原罪)とされ、恐れが身について生まれるようになりました。さらにその恐れは生まれてから死ぬまで一生人間に付きまとう厄介なものになりました。その恐れや不安な気持ちになる人間の姿は現在の数多い保険内容を見ればわかります。今現在あらゆる種類の保険による商品が販売されています。そういう生まれつきの人間の弱点を用いて金を儲けているのは保険会社(保険会社が悪いのではなく、罪を犯して恐れるようになった人間が悪いですが・・・)です。しかしいくら頑張っても、いくら学習してもなくならないのがその恐れです。そのことを知っている神様は聖書の中で恐れるな、と命じています。聖書の中で神様が命令形で語った言葉の中で一番多いのは「恐れるな」という言葉です。なんと365回も出てくるからです。その恐れを克服する秘訣は祈りと神様の約束の言葉を忘れずに心に留めて生きることです。それには毎日の実践が必要です。つまり、毎日祈り(毎日祈らないキリスト者がいるだろうか?)、そしてみ言葉を毎日読み続けることです。それによって今の恐れを、そして急に訪れる恐れにも惑わされず主の御手に委ねて安心し、平安の内に過ごすことが出来るのであります。


 

さて、28日(木)2030分に仙台駅発盛岡行きの新幹線に乗りました。そして21時ちょうどに一ノ関駅で下車し、気仙沼行きのワンマン列車に乗り換えました。仙台に来て初めて乗った新幹線(東北方面)と気仙沼までのローカル線でした。気仙沼駅には2235分到着。乗車した人も少なかったのですがその時間帯の駅周辺も静かでした。自分はグーグルマップに頼ってスマホを見ながら歩きました。


 

夜だったので町全体の雰囲気は把握することが出来ず、ただ歩いている道の左右の光景だけが目に入りました。気仙沼市を抜け出すのに大分時間がかかりました。途中、大谷海岸では誰もいない海辺で波の音を聞きながら一休みをしました。大体3時間歩いたら56分休憩をとります。その休憩の時に靴を脱ぎ、足を乾かし新しい靴下で履き替えます。すると足に豆が付きにくくなります。それで履き替え用の靴下を8足用意して来ました。

 


自分にとって祈りの旅は子どもたちを始め、教会全員とその家族を覚えて祈る大事な時であります。気仙沼から45号線を歩き続きました。気仙沼を抜け出し、しばらく歩き続くと急に岩手県の看板が・・・ここは街灯一つもない真っ暗な道でした。しかしまた宮城県登米市の看板が出てきました。その内、夜明け始まりました。少し気持ちが晴れる時でした。それまでずっと暗闇の道を歩き続いたので・・・・

 


大分時間をかけて登米市街を歩き続けました。そして米山市を通り過ぎると今度は涌谷町が出ました。今回の祈りの旅で一番大変だったのが涌谷町で、さらにそれが原因(?)で長町まで歩いてくることが出来ませんでした。

 


涌谷町の中心街に入るためには山を越えなければならなくなり、その山道は長く、また歩道がないために走り車が僕のそばで風を引き起こしながら走って行きました。約5キロ以上の道が続き、休むこともできなかったので坂道を頑張って歩きました。するとトンネルが!!!これを通りぬくと下り道との意味です。

 


その山道を登り続けたのでそれが全体的な体力を消耗する原因になりました。そして涌谷町街を歩き続けた時は一番暑い時間帯となり、さらに木陰一つもない長い道が続いたので途中気分が悪くなり、少し頭がボーとする状態になりました。これは危険信号だと感じ、途中、地元の青果売り場に立ち寄り、タクシー会社の番号を知り、連絡して来たタクシーに乗って近くの小牛田駅まで乗せてもらい、小牛田駅からの電車で長町に帰って来ました。

 


熱中症で気を失い、倒れる前兆というのがどういうものかを教えてもらった気がしました。反省!

よく思い出したら歩くときに周りを見てもバックを背負って歩く人はほとんど居なかった気がします。日に焼けて黒い顔がさらにクロスケになり、まるで海水浴場でも行ってきた人のようになりました。(実際に気仙沼で大谷海水浴場には行ったことになりますが・・夜中に)


 

今後、夏の祈りの旅はやめることにしました。我が家では100回は言ったと思いますが・・・



今回の祈りの旅は約80キロの旅となりました。教会に帰ってきて一休みし、夜ノアちゃんと散歩をしたら10万歩になりました。倒れずに生きて帰ってきて感謝。周りが困ることになるので今後少しは注意して、よく考えて行動するように、と家の二人に厳しく言われました。やはり反省。

  

2022年7月22日金曜日

終業式

 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケの信徒への手紙一5:14-18

 


昨日は三者面談。

今日は終業式。

無事に終わり感謝。

そして雨。

今日のランチと夕食のために先ほどまでインドカレーを作った。

起床して約10時間となる。

 


世界は変わりなく動いている。

絶えず悲しみと喜びが交差し、涙と微笑みが繰り返している。

苦しむ人は苦しみ続け、喜ぶ人は喜び続ける。

・・・・でも終わりがある。

 


いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する人生を送りたい。

そういう環境や状況が訪れたら、とのことではない。

どんな場合でもそうすることを命じている。

神様の命令には従うしかない。

さらに、それが命の源である神様が望んでおられることだと言う。

つまり、それは私たちの幸せになるからだということでしょう。

この神様の御心が理解できず、わからないとすべての言葉が無意味であり、夢の話しのように聞こえてしまう。これが信頼関係の大切さである。相手を信頼しているがゆえにその言葉を快く受け入れられる。

そしてその言葉に従って生きることが喜びとなる。しかし関係がねじれてしまうとすべての言葉がとげのように聞こえ、また不信感を抱き、耳を塞いでしまう。

 


だから言葉は耳ではなく、まず心で聞くべきである。つまり、集中して聞こうとする姿勢が大事である。

すると相手の言葉がちゃんと聞こえるようになり、理解できるようになり、受け入れることが出来るようになる。これは家族や友達の間でも適用できる重要な話である。まず自分のことを言うより、相手の言葉を聞くことを優先すれば会話が楽しくなり、最後まで有意義な時間になることが多い。もちろん100%とは言わないが、大体、そのようになることは事実である。

 


今日は学校から持って帰って来る荷物が多いと言うことで終業式にはいつも学校まで迎いに行く。

妻は仕事、ノアちゃんは寝ている。こうしてそれぞれ自分の居場所で今日の歩みを歩んでいることに感謝。何よりも精一杯に生きることだ。

2022年7月19日火曜日

感情に委ねず愛し続ける

 イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。(ヨハネによる福音書131節)

 


すべての人間関係の中で一番難しいのは赦すことと愛することであると思う。家族さえ愛し続けることは難しいと言う。それでいつも失敗し、傷つけ合い、共に苦しむのである。その原因はなにか?その主な原因の一つは感情による愛し方であると思う。感情に頼るといつも失敗し、長く続かないからだ。実は人間の感情ほど頼りにならないものはない。これを知っておくこと、認めることが大事である。その時の状況と環境によって、さらにその日の天気によってもころころと変わってしまうのが人間の心であり、感情である。その意味でも人を愛する事には順番が必要である。

 


まず愛する理由を明確に知っておくこと。それは人間を創造なさった神様の命令である。人間が守るべき一番大切な掟である。その上、人は共に愛し合い、助け合い、支え合うことによって誠に人間と言えるからである。そういうことで私たちは人を愛すべきであり、愛する事を何よりも大切にし、優先順位の第一において生きることである。だから何があっても愛し続けることを決断し、強い意志をもって愛の業を行うことである。相手の態度によって変わる愛ではなく、相手の態度に関係なく、自分はこの愛を最後まで全うしていく、という意志が重要である。すると愛はすべての障害物を乗り越えて人の心に入り込み、芽生え、花を咲き、実を結び、最後まで愛し続けてよかったと思うようになる。

 


その時、はじめて愛する感情が豊かになり、嬉しくなり、感激し、もっと愛する感情がわいて来るのである。つまり、感情は一番最後に現れるものでなければならない。この順序が間違うと必ず失敗するのである。真実な愛に対抗できるものはない。憎しみも妬みも暴力も真の愛の相手にはなれない。愛は原子爆弾のような想像を超える威力をもっているからだ。ただその本当の力を知らないために人々は愛よりは憎しみや妬みや暴力を選んで生きている。実はその愛する力は神様によって与えられる賜物である。だからその愛する力を絶えず祈り求めることが重要である。今日も愛する事を諦めず主に祈って助けられ喜びと感謝の一日を過ごすことである。マラナ・タ!(主よ、来たりたまえ)

 


神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。



愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。(ヨハネの手紙一4912節)

2022年7月18日月曜日

少しは余裕をもって生きる

 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書133435節)

 


久々の月と星・・・・・

ノアちゃんも久しぶりの散歩らしい散歩になったかも・・・・

いつものように2時半に出発。宮沢橋を渡って広瀬川沿いを歩き千代大橋へ。橋を渡り、教会に戻ると約1時間半。途中、夜明けが始まる。新しい一日を照らしてくれる太陽が昇って来る。感謝。

ちなみに人々の心の闇も照らして明るい心で一日をスタートできればと考える。

中には朝が来るのが不安で、怖いと考える人がいるからだ。

今の戦場で暮らしている人々がそうかも知れない。早く戦争が終わりますように・・・・・・

 


ノアちゃんとの散歩から帰ってきて自分一人で再び散歩へ。4時出発。

大年寺階段から向山、八木山、桜木町、青山、緑ヶ丘、蘆の口小学校ルートを歩き途中、西友で買物。

いつものように慣れた道を歩くのは安心である。迷うことがないからだ。

でも最初は迷いながらルートを開拓したのである。

地元の人しか知らない隠れた道などを発見して歩くと良い気分になるときがある。

とにかく止まらずに歩き続ける。汗がびっしょり・・・・・・・今日も良い汗をかいた・・・・・

休日なので人も車も少ない。

 


こうして一日をスタートした。

今日はカボチャプリンとゴーヤーチャンプルーを作った。そしてきゅうりの漬物も。

 


人との関係を正しく保つための秘訣はいろいろあるが、その中で重要なのは相手との距離である。

あまり離れても行けないし、近づけても行けないのが人間の間柄である。この距離をいかに正しく保つかがカギである。これに失敗して関係が崩れ、まずくなるケースが少なくないからだ。これは社会人やある組織の中での人間関係だけに適用されることではない。家族の間でも、親子や夫婦間でも重要視される事柄である。干渉しすぎて嫌われるケースもあれば、無関心で寂しい思いをさせてしまう場合もある。

この世で一番難しい関係は人間関係であるからだ。これには知恵が必要であり、さらに愛と忍耐も必要である。昔の修道士たちは日頃からスタティオ(statio)という訓練を行っていた。これは他の仕事に取り掛かる前に今までやっていたことを一度停止することである。一つの事を行ってそのまますぐ他の事に移るのではなく、ちょっとの間、ストップしてその前後の二つの時間を考えてみることである。

 


しかし現代人にはなかなか出来ないことであるかも知れない。なぜなら今はスピードが大事であるからだ。だからマルチタスクという言葉が生まれたのである。今のスピード社会で我々が失ったのは心の余裕である。真の安息である。笑顔と譲り合いまで失ったのである。おそらく後戻りはできないだろう。すでに形造られ、ますますスピードを加速化させているからだ。それでも大事なのはやはりスピードよりは心の余裕をもって生きることである。決して焦らずに、周りの環境や状況などに惑わされずに自分の道を黙々と歩き続ける余裕。これを追及して生きる人が多ければ多いほど、その国は、その社会は本当に心豊かな国と社会になるだろう。今日は少し余裕をもって歩み続けることにしよう。

2022年7月17日日曜日

面倒くさいけど生きなければならない

 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』(マタイによる福音書6章9~13節)

 


今日も無事に礼拝が終わり、静かな時(?)が与えられ感謝。

小さな子供がいる家庭では静かな時というのは子どもたちが皆眠りについている時かもしれないが・・

中には一年365日毎日静かな時を過ごしている人々もいる。

唯一相手になるのはテレビやラジオをつけている時だけ・・・・・

ペットでもあれば話し相手になるかも知れないが・・・・それも楽ではない。

何かしら世話をしなければならないからだ。

だからこの世で生きることは楽ではない。

生きるための力が必要である。

しかしその前に生きる意味を知ることが生きるための力につながることは否定できない。

生きる目的、生きる意味、生きる価値・・・・・・

あ~面倒くさい!と考える人々もいる。

ただ生きればいいさ!と言う。

それじゃ人間と獣と違わないことになる。

 


人間としての生き方があるからだ。

少なくとも周りの人々を傷つけない。

迷惑をかけない。

自分の欲のために家族を、周りの人々を犠牲にさせないことである。

しかし人々を傷つけ、迷惑ばかりかけ、自己欲と夢のために周りを犠牲にしてしまうケースが少なくない。何と不条理な世界だろう・・・この世界は。

 


この不条理な世界での人生が200年、300年、500年、1000年、10000年まで続かないことに感謝している。だから真の国を求めざるを得ない。それが神の国であると聖書は教えている。それを信じて生きている。これも大きな恵みである。理性では到底理解できないことが信じるようになるのは奇跡であるかも知れない。これで良いと自分が思えばよい。それは責任も伴うYESである。結果を受け入れられるYESである。ランチの後、週報投函と散歩。大年寺山公園に上って、愛宕神社、広瀬橋ルートの散歩であった。

 


明日は?明日は明日に任せる。自分は今日の一日を最後まで精一杯に生きることだ。目の前にいる家族を愛し、精一杯に最善を尽くして奉仕することである。今日は、朝はフレンチトーストを作り、礼拝後はランチで冷やしそばを作り、夕食は鶏の胸肉を使った一品料理を作った。感謝。K長老が持ってきてくれたビールを飲んで休もう!!!

2022年7月16日土曜日

仙台朝市へ

 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネによる福音書14814節)

 


小さい子どもと一緒に遊ぶときにはその子供の世界に入らなければ楽しく遊ぶことができない。さらに子供たちとのきずな、良い関係を作ることもできない。大人の考え方ややり方では子供たちの世界で一緒に遊ぶことはできない。そして遊び仲間、友達として受け入れられることもできない。頭では子供たちの世界を理解することは出来る。幼児教育や子供たちに関する一般的な知識も簡単に得ることができる。

しかし彼らの心を得ることはそう簡単ではない。それは一緒にその世界に入って彼らの言語や考え方や感じ方などを通してはじめて彼らを理解し、受け入れられるのである。ある意味、それは大人にとって苦痛である。

 


例えば宇宙という計り知れない広い空間で過ごした人が地球という小さなボールの中に入り込んで過ごすことになるのと同じである。または鷲のように自由に空を飛んでいた鳥が鶏のように狭い空間の中で歩き回ることしかできない鳥になったのと同じであるかも知れない。やはりそれは苦痛である。

 


しかしその苦痛を自ら選んでこの世界に入り込んだのが神の御子イエス・キリストである。その理由は私たちを罪から救い出すためであると聖書は教えている。永遠の命を与えるために神様は自らその苦痛の道を選んだのである。そのことを聖書は繰り返して語っているが、しかし人々はそれが理解できず、思いのまま生き、罪の中に留まりながら歩んでいる。教会は神が人となった理由を語り伝えるために存在している。

 


今日は大雨のために娘の学校の文化祭が中止になった。残念。

一生懸命に準備をしたのだが、仕方ない・・・・・しかし大事なのは過程である。準備過程の中で友たちとのやり取り、物事の進み方などを決めるにあたって話し合ったことなども大事な時であったに違いない。でも楽しい思い出が半分しか作れなかったことは残念かも・・・・・

 

雨の中、僕は歩いて仙台朝市へ。

野菜と果物を買ってきた。

生きる。

2022年7月14日木曜日

今を生きる

 しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。(ガラテヤの信徒への手紙6章)

 


今日は久々にノアちゃんと大年寺山公園、愛宕神社、河原町ルートを歩いた。昨日の雨で広瀬川の水位は上がっていた。また降り続くだろう・・・・・

二人で散歩したのは雨が止んでいた115分ごろだった。雨が降り続くときには少し小雨とか、一時的に止んでいた時を狙って出かけるので夜の22時~夜中の4時ごろの間が一番多いかも・・・・

だから目が覚めると、まず雨が降っているかどうかを確認して散歩の時間を決めている。こういう生活は、後どれぐらい続くだろう。ノアちゃんが生きている間だけの生活になる。そのあとは、僕も普通に生きることになるかも・・・・・

 


10年過ぎて不具合が生じていた給湯器を新しく取り替えるために注文して約半年。部品がないことで需要が追いつかない、という。しかしそれが今日、やっと取り付けられた。これで追い焚き機能がちゃんと使えるかも・・・・・・・感謝。

 


取付工事が終わり、業者さんが帰った後、再び散歩。夜中の散歩ルートと同じ道を歩いた。明日も一日雨の予報だ。娘は学校の文化祭。大切な青春時代の思い出がちゃんと作られるように・・・・

 

命がある限り精一杯に生きる。

毎日が楽しい事ばかりではなくても、頑張って生き続ける。その内、楽しいことがきっと起きるから。

思い煩いは止めて、心配こと悩みことも何もかも捨てて、今を精一杯に生きることだ。

2022年7月8日金曜日

世界はここから変わっていく

 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。(ローマの信徒への手紙832-35節)

 


来週は4時間だよ、木・金は文化祭。

お弁当は持っていくでしょう?

大丈夫!

じゃー、おにぎりにしようか。

再来週は三連休だし、

うちは火曜日も休みだよ!

四連休になるのか!

そして夏休み!

早いね!

その内、3年になり、受験生。

大学か!

だから一日一日を大事にして、楽しく過ごすことだね。

そうだね。

今朝、車で娘を駅まで送るときの平凡な親子の会話である。

 


環境や状況に影響されやすい人間にとって苦しい状況や環境が訪れた時には忍耐が必要である。しかしただの忍耐では耐えることができない。そこには希望が必要である。希望があるからこそ、忍耐して乗り越えられる。この苦しみも過ぎ去るだろうと信じて我慢し、希望の一歩を踏み出せるのである。問題はその希望というものが確かな希望なのか、ただの幻なのかが重要である。必ず訪れる希望なのか、途中、消えてしまう希望なのかが問題である。確かでない希望には今の苦しみに耐えられる力がないからだ。

 


希望というものを自分の力で引き寄せることが出来るのか?そもそも希望とは何か?何を希望と考えて待っているのかが大事である。目に見えない、まだ手に届かないところにあるもの。しかし自分にとって絶対に必要としているもの。今の最悪な状況と環境を変えてくれるもの。喜びを、笑顔をもたらせてくれるもの。多くの人はそれを希望と考える。僕自身もそう考えている。少しでも今の厳しい状況を変えてくれるもの。せめて自由に、快く息をし、悩まず、心配せず無事に過ごす日を望みながら生きている人々も大勢いる。しかし、思う通りに、自分の期待している通りの日が続かず、再び悩みと苦しみと不安な日が予告なしに突然、訪れることだ。この世の人生がそういうものならば運命として受け入れる人もいる。

あるいは運命を開拓して生きる人もいる。運命を信じないのがキリスト者である。すべてを神様の御手に委ねて生きる人がキリスト者である。ある意味、これは一番楽な生き方かもしれない。自分で悩まず、心配せず、思い煩うこともなく、生きられるからだ。重荷を主に委ねよ、と聖書は繰り返して教えている。

ならば委ねて与えられた今日の人生を精一杯に生ればいい。神様を愛し、隣人を自分のように愛し合いながら生きることである。明日のことも主に委ねて生きる。明日の事まで悩み、心配することはない。心配したからと言って何かが起こることもない。今を生きることが大事である。与えられた24時間の時を正しく、よく用いて生きることである。前にも話したように大義とはこういうことである。少しは自分と周りの人々に優しく、笑顔で生きるように・・・・・・世界はそこから変わり始まるからだ。生きる!

2022年7月7日木曜日

礼拝し続ける信仰

 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。(ヨハネによる福音書2026-28節)

 


キリスト者の居場所は神様を礼拝する場であります。それは必ずしも教会堂を指すのではありません。

教会の真の意味は主にある兄弟姉妹たちの集いを指しているからです。常に神様を礼拝する心と姿勢で生きることが大事であるのです。そして何よりも主にある群れの中に留まることが重要であるのです。

しかしその群れの中には強い信仰者ばかりではありません。信仰の弱い者、主の約束を疑う者、信仰から離れようとする者などいろいろな人々がいるのです。でも仮に疑う心があったとしても、信仰が弱くなったとしてもその群れの中に留まることが大事であるのです。その理由を上記の聖書が教えているからです。イエス・キリストの復活を疑っていたトマスは疑いながらも、しかしその群れから離れず留まっていたのです。その結果、彼は再び主によって信仰が与えられ、主を告白することが出来ました。そして最後はインドで主の福音を宣べ伝えていたときに殉教したと言われています。

 


大事なのは留まり続けることです。どんな場合でも決して主の群れから離れず留まり続けることです。毎回、恵み豊かな、感動の礼拝ではなくても、その場から離れず礼拝し続けることです。すると再び信仰が与えられ、恵み豊かな時が訪れるのです。そういう信仰によって生きるのがキリスト者であるのです。現在、教会の礼拝から遠ざかっている兄弟姉妹たちがいるならば彼らのために祈り続けることです。彼らに必要なのは執り成しの祈りであり、主を信じることが出来る信仰であるからです。わたしたちの祈りを必ず聞いて下さる神様を信じて祈り続けることです。それが主から与えられた私たちの使命でもあるのです。マラナタ!

人生の一番大事なことを知って生きる

 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。(ヘブライ人への手紙11:6

 


それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。(ヨハネによる福音書315-20節)

 


ギュイヨン夫人(Jeanne-Marie Bouvier de la Motte-Guyon1648413 - 171769日)は

「あなたの人生の問題に関する回答を得ようとする心が湧いてきたとしても、決してその旅程を始めてはならない。おそらくあなたは成功しないだろう。なぜならそれは回答が得られない旅程であるからだ。答えのない質問、なぞ、到底理解できない事柄、出来事、そして何よりも不公平な事柄、これらのことは誰でも分からない。」と言いました。

 

聖書をよく読んでみますと、人の人生の問題について聖書はほとんどが答えないことが分かります。

身体にハンディをもって生まれた人々、突然の災難、家族の死、不幸な出来事(例えばヨブ)などについても聖書は不思議に沈黙しているのです。わたしたちが期待し、ほしがる明白な答えを避けているのです。人は不幸に遭うと神様に怒りをぶつけることがあります。特にクリスチャンの中によく見られる姿です。ちゃんと(?)信仰生活をしていたのになぜ自分にこういう不幸が訪れたのか?と文句を言います。ときには神様を呪う人もいるのです。それでも神様は沈黙なさいます。それは感情の問題ではないからです。またこの世の考えとははるかに異なるからです。善を成す人は祝福され、悪を行う人は不幸になることでもありません。

 


事実、悪人がどれだけ豊かに暮らし、幸せそうに見えるのか・・・反対にあんなに良い人がなぜ病気がちで、不幸で、貧しく暮らしているのか・・・・この世の基準でも図れないことがいっぱいあるのです。こういう世界になったことを聖書は簡潔で、明確に答えています。人間が神様の御前で罪を犯したこと、その結果、死が訪れたこと、その死後には裁きが待っていることを語っています。だから罪から産み落とされた人間に苦痛が伴い、不幸な出来事が訪れるのは当たり前だと言うのです。

 けれども聖書はこの人間の問題を、人生の謎を解くのが目的ではなく、人間の力では決して解くことのできない人生の根本的な問題を解決できる道を提示しているのです。それがイエスキリストによって与えられた福音です。しかしこの根本的な人生の問題には関心がなく、ただこの世での幸せだけに目をとめて生きるために、人はさらに不幸な人生を生きるようになるのです。聞く耳のある人は聞きなさいと、今日も主イエスは私たちに語りかけているのです。福音に耳を傾けることを、そしてもっと大事なことを考えて生きることを、他人の言葉や姿に惑わされず、命の言葉と主イエスの姿を見て生きるようにと。こういう言葉を語り合い、美味しい料理も提供しながら過ごすペンションは日本ではなく、スペインのサンティアゴの巡礼の街のどこかで開くことを考えている・・・ほんの小さな夢である。

2022年7月6日水曜日

家族の幸せのために

 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。

シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネによる福音書66769節)

 


台風の影響で雨が降り続く・・・・・

今朝は娘を駅まで(夏場と雨の時はいつもだが・・・)、しばらくして妻を仕事先までそれぞれ車で送り、仕事をし、11時過ぎに仙台朝市にへ。大年寺階段から歩く続ける。雨の良し、歩くのも良し、汗をかくのも良し、生きている証拠だから・・・・・精一杯に生きる。

 


仙台朝市ではキュウリ、グレープフルーツ。トマトを買ってきた。やはり、長町の周辺のお店よりは安い。

最近はきゅうり漬けにはまっている・・・・・・簡単で美味しい・・・・トマトも美味しいドレッシングのレシピを見つけたのでそれを作って毎日のように食べている。

 


昨日は妻から仕事先でズッキニー一本をもらってきて渡された。いつの間にか家の料理は僕の担当になっているようだ・・・・・いつか「癒しのペンション」を開くのを考えているのでそのための料理の腕を鍛えるための準備の時として毎日のように料理をしているのだが・・・・すべてを良いように受け止めて生きているので感謝。

 


出来るだけ笑顔で、楽しく、感謝して生きる。それが難しいと思うのは、そういう環境は訪れるものではなく自分で開拓していくものであることを知らないからだ。自然に訪れる幸せは存在しない。今日も家族の幸せのために生きる。

2022年7月5日火曜日

大義

 


「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8:31-32

 


雷、人身事故、二人をそれぞれ駅まで、仕事先まで車で送る、やまびこ湯、買物、ランチ、掃除、読書、ビール、ケンタッキー・フライド・チキンの料理、散歩、きゅうり漬け、説教準備、週報のコラム・・・・・・昨日の出来事の中で・・

 


今日も繰り返される日常の出来事が進行中である。

これが人生である。

大義のための働きではなくても、

国を動かす力がなくても、

今、与えられた家族のための小さな奉仕、優しい一言、笑顔、美味しい料理、掃除・・・

そして主にある兄弟姉妹たちのために祈るひと時は、かけがえのない大切な時間であることを覚えて生きることが重要である。神様は私たちに命と共に使命も与えてくださったことは確かである。ただ生きるためではなく、目的があるがゆえに命が与えられ、同時に使命も与えられたのである。



その使命とは愛する使命である。なぜなら人間は自然に愛する事が出来ない存在であるからだ。人を選び、環境と状況によってその愛は頻繁に変わってしまうからである。だからこの世界で一番難しいのは愛する事である。しかし愛する事こそ、我々人間に与えられた本当の大義である。



神を愛し、隣人を自分のように愛する事こそ、本当の大義であるかも知れない。自分の小さな犠牲を通して家族が喜び、微笑、幸せを感じるならばこれ以上嬉しい事はないはず。主にある兄弟姉妹たちのための執り成しの祈りが彼らを支える力であるならばそれ以上の嬉しい事はない。これこそ真の大義である。今日も最後まで主の栄光のために精一杯に生きることだ。今日も自分の道を歩み続ける。

 

シャワーラン

  あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。(マルコ 13 : 37 )   今日は雨の中を走り続けた。シャワーラン。 22 キロ完走。 雨にぬれてもまだ気持ち良い時期である。 これが一気に寒く感じるようになる。 それを常に意識...