2022年10月31日月曜日

慰めよ

 


慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。 エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。 罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。 呼びかける声がある。 主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。 険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。 主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る。 主の口がこう宣言される。(イザヤ書40:1-5

 

マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ヨハネによる福音書11:32-35節)

 

人が突然の出来事によって命を失うと悲しむよりはその原因分析をする人々がいる。横断歩道で渡ればよかったのに、と言う。その現場に行かなかったら良かったのに、と言う。でも人間の死は突然訪れるものである。予告なしにやってくる。危険を感じることもあるだろう。それでも人間の死は誰一人予想できないものである。聖書で主イエスは人が死んだ時、その死の原因分析や責任を問わなかった。ただ遺族と共に涙を流し、共に悲しみ、その痛みに寄り添って下さったのである。今、我々に必要なのは共に悲しみ、遺族のための慰めと祈りである。神様が私たちに求めるのは憐みの心である。つまり、相手の立場で悲しみと涙、そして共に祈ることである。

2022年10月30日日曜日

秋保まで自転車

 


だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒言行録2:36-39

 

今日も精一杯に生きたかも・・・・

 

夜中はノアちゃんとの散歩と週報投函。

夜明け前にはランニングでK病院までの祈りのひと時。

礼拝後には秋保に住んでいる兄弟のところまで自転車で行ってきた。

90歳の兄弟で、温泉仲間である。二週連続礼拝に見えず、自宅の電話にもつながらなかったので礼拝後に週報発送作業をしてから午後2時半ごろ出発。坂道はきつい!!いっぱい汗をかいた!ナビに頼って行ったけど番地の表札がない家がほとんどだった。仕方なく、人がいるそうな家の人に声をかけて聞いてみたらすぐ教えてくれたので無事に訪問が出来た。健康の問題ではなく娘夫婦が先週と今日、大掃除に来てくれていたので礼拝には行けなかったという。

それでひと安心した。感謝。

玄関先でお祈りをして帰ってきた。帰りは夕焼けが綺麗だった!

今日もいっぱい祈り、いっぱい歩き、いっぱい走り、いっぱいペダルをこいだ。

明日は東北学院榴ケ岡高等学校の宗教改革記念礼拝だ。820分まで行くことになり、そのためには

6時前に出ないと・・・・約13キロ。

すべてに感謝して生きよう!

でも疲れた!寝よう!!!

2022年10月29日土曜日

愛する姉妹を天に送って

 


いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

どんなことにも感謝しなさい。

これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

(テサロニケの信徒への手紙一51618)

 


木曜日からの一連の出来事があっという間に終わった。

人生の中で起こる突然の出来事はいつも平和と自由を追い立てて行く。しかし物事が進むにつれて追い出された平和と自由は次第に戻って来る。それも倍になって戻って来る。しかも仲間まで連れてくる場合がある。喜びの仲間、感謝の仲間である。

 


今回の姉妹の召天と葬儀までの出来事がそうであったかも知れない。

 

今日までの三日間、寝たのか、寝てないか、わからない日々を送りながら過ごした。

すべてを終えて8月から飲んでないアルコールだったが、今日は感謝と喜びのために乾杯!

先日、K兄姉に頂いたイタリアのワインを開けて皆さんが帰られたあとお昼と共に久々に飲んだ。


 

斎場に向かう時、葬儀屋のバスがM姉が過ごされた施設の前を通って行ったのでしばらく昨年からの歩みを思い出した。さらにバスは自分がノアちゃんと歩いた茂庭台の前も通って行ったので最初の雪の日も思い出した。何に引かれてここまで歩いて行ったのかはわからないが、これは他の人々が感じることのない牧会の感覚(?)愛(?)責任(?)義務(?)・・・・

 


自分の意志ではなく、おそらく主に導かれて行ったことだろう。しかしそのためには犠牲が伴う。これなしには出来ないことが分かっている。でも不思議にその犠牲が喜びに変わる。感謝に変わる。だから大変であっても歩き続け、祈り続けながら訪ねて行く。

 


今、教会の中は、お花の香りでいっぱいだ。姉妹の香りだろう。美しい香りだ。ありがとう!と姉妹はこの香りで語っている。天にいる姉妹も、天に送った家族も、教会の皆さんも、ありがとう!と互いに言う。

ありがとう!

 

上記の聖書は姉妹の愛唱聖句である。最後はこのみ言葉通りになったのだ。だから感謝であり、喜びであり、それらを覚えて祈り続けるのである。今夜はゆっくり眠れるだろう、と思ったところ。しかし・・・

明日は礼拝の日。説教の仕上げが残っている。・・・・・・・やはり眠れない・・・・・

 

日付が変わるとまた祈りの旅が始まる。今度はK病院までの祈りの旅だ。そこでの生活が長引かず、元気になって早く教会で会えますように、と祈るひと時である。

前夜式を終えて


 

昨日は前夜式だった。

無事に終えて感謝。

鹿野会館での前夜式は初めてであったけど、悪くなったかも・・・

今のようにコロナ禍の中で人が参列者が多いのもあれだけど、人が少ないのも寂しく感じる。

でも昨日はちょうど良い人数であったかもしれない。感謝。

日付が変わり、今日は7時半に出棺式、9時に火葬、13時に葬儀礼拝の予定だ。

すべてが無事に終えますように祈る。

木曜日から始まった一連の出来事は月曜日まで続く。

今回は恵みが盛りだくさんだ(?)

とにかく月曜日までは気を緩めない。

しっかり頑張って自分の使命を果たそう!

絶えず主に頼って行こう!

今日も最後まで主の栄光のために精一杯に生きるべし。

ハレルヤ!

生きる。

2022年10月26日水曜日

笑って生きる

 


私は今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。(ルカによる福音書13:33)



冷え込んだ今朝もノアちゃんと散歩の道を歩き続ける。しかし大年寺の階段を上ると体が熱くなる。だから厚着はせず寒くても適当な服装で散歩に出かける。今日もノアちゃんとの散歩、ランニング、サイクリングをクリアして与えられた日を生きている。


 

今、戦場では生きるか死ぬかという緊迫した状況の中で過ごしている人々がいる反面、今日の夕食は何を食べようかな?と考える人々がいる。不条理な世界だと考える人もいれば、仕方ないと考える人もいる。今日、新しい命の誕生で喜ぶ人々がいる反面、家族を亡くして悲しむ人々もいる。ある意味、これが人間に与えられた人生の回し車で、繰り返される人生の姿である。すると虚無感が襲ってくる。

 


このまったく希望のない回し車で誰が楽しむだろうか?誰が幸せを感じるだろうか?しかし不思議なことにそれを楽しみ、そこで幸せを感じる人々が多いのである。我々が生きている世界は回し車である。

同じことが繰り返される。生と死、幸福と不幸、涙と笑い、喜びと怒りが繰り返される世界で人々は生きている。同時に人間は特別なことを求める願望を持っている。ありきたりの生活から離れて新鮮な出来事、まったく経験したことのない出来事を求めるときがある。しかしその出来事のためには勇気がいる。覚悟が必要である。結局、何もできず平凡な、いつもの人生を生きることになる。これも人生である。

 


自分の人生がつまらないと考えるので多くの人は他人の人生をのぞき込む。それでアイドルや人気者の目に見える表面だけの姿に憧れて彼らの人生をお金で買い取るのである。でも最後に残るのは虚しさである。自分の人生を生きることが重要である。他人の人生にお金をかけず、自分の人生にお金をかけるべきである。しかし言ってもわからない。それも人生である。結局、自分はどういう人生を選んで生きるかである。この選びが重要である。だから自分は信仰の道を選んで悔いのない人生を生きている。感謝。

 


妻は来月からの新しい仕事のための研修会も無事に終えて残り3回の仕事に励んでいる。感謝。今日の夕食はバターカレーにすることにした。この二日間はかぼちゃグラタンを作ったので別の新メニューにすることに・・・


 

特別なことはないけれどもこうして家族のために夕食を作ることもありがたいことである。11月も外部の説教依頼がはいっていて忙しくなるが、これも感謝である。命がある限り、生き続ける。頑張って生き続ける。楽しく生き続ける。笑って生き続ける。できれば美味しい人生を生き続ける。これらは造り上げることである。決して自然に訪れるものではない。ならば造り上げよう!今日も、明日も、そして次の日も・・・・

2022年10月21日金曜日

ゆっくり歩む

 


ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。(ルカ172630節)

 


現在、自分がどういう状況の中にいるのか?をちゃんと把握しながら歩むことは重要である。また自分が今、歩んでいる道は正しい道なのか?家族が喜ぶ道なのか?応援してもらえる道なのかもよく考えながら進むことが大事である。特別なケース以外に人々が反対する道を固執して歩んで成功することはそれほど多くない。そういう場合にはもう一度考えてみることである。出来れば周りの人々の意見を聞くことも良いかもしれない。一人で考え、一人で計画し、一人で実行して最後は皆が滅びる。普通は一人で始めたのだから一人で滅びればよいのに、周りの人々まで巻き込んで結局、皆が苦しむことになる。

 


一国の指導者の間違った判断によって国民が苦しむことがある。今のロシアがそうかも知れない。一人の経営者によって会社全体が窮地に追い込まれるケースもある。今は真のリーダーが不在の時代である。本当にリーダーらしいリーダーがいない。その代わりにボスはあふれている。つまり、権威と力で人々を操り、支配するのがボスである。しかしリーダーは率先して行い、先頭に立って導いて行く。今、我々は

サーバントリーダーシップが乏しい時代で生きている。そもそも上記で述べたリーダーになろうとする人がいない。皆ボスになりたがっている。今の政治も、社会の組織も、何もかも皆ボスになろうとする。

そこから不幸が始まる・・・・・・・

 

今日は二人をそれぞれ駅まで、そして仕事場まで送り、久々に若林区中倉の教会員のところに週報投函。

その足で新寺通りルートで仙台朝市へ。早いスピードで買物を済まして地下鉄で帰って来る。

今日もいっぱい歩き、走った一日であった。感謝。

夕食はお好み焼きを作っておいた。

こうして自分の一日は終了。

最近、18時に寝ると必ず20時過ぎに目が覚める。今日もそうである。

すると二階に上がって二人と少し会話をし、再び降りてきて寝るか、あるいはこのまま起きてしまう。

妻も11月から新しい仕事が決まったようで感謝。焦らずにゆっくり歩むことだ。時間は同じスピードで回るからだ。御手にゆだねて自由に生きることである。

今日も前進

 


その時、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいません。(マタイ11:25-27

 


今日も新しい命が与えられ感謝。生きるための命である。そして時間である。

2230分起床、会堂で祈り、説教準備、ノアちゃんとの散歩。

今日は真っ暗な大年寺階段から愛宕神社、広瀬川沿い、広瀬橋から帰ってきた。約90分の散歩。広瀬川へ降りて行く階段で躓いて転び血だらけ・・・・人生の歴史に残る出来事となった。ノアちゃんに心配される状況に・・・・帰宅して消毒・・・・・感謝。

 


聖書読みと11月の学院での礼拝説教テーマ選びと準備の時を過ごす。今度も土樋キャンパス、そして初めての多賀城キャンパス礼拝である。多賀城まで約3時間だ。でも歩いて行く。これで多賀城まで歩くのは3度目だ。仙台に来たばかりに多賀城の教会員宅をナビに頼って歩いて行ったことがある。懐かしい。

 


4時半に今度はランニング。大年寺階段から八木山、日赤病院、鈎取バス停、ベガスルートで約12キロ。約1時間でクリア。感謝。だんだん早くなる。でも欲張らずゆっくり積み重ねて行こうと言い聞かせる。


妻の今の仕事も後5回だ。約半年間頑張ったと思う。自分も毎回送ったので頑張ったかも。感謝。来月からの新しい仕事を探しているようだがゆっくり委ねてやれば大丈夫だと伝えることに。これも感謝。与えられた今日の命に感謝して精一杯に生きることに。今日も前進である。自分一人だけではなく、皆と一緒の前進だ。これが意味ある前進となる。



2022年10月19日水曜日

話し合うことがカギである

 


イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ(Compassion)。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。(マタイ15:32)

 


相手の立場から物事を考えるのはそう簡単な事ではない。また誰でも出来ることでもない。特に今のように他人の事には関心がなく、自己中心的な生き方で生きている人々が多い世界ではめったに見られない姿である。さらに家族の間ですらそれはあんまり見られない姿である。いつも自分の都合と自分の立場から相手を判断し、行動するからである。先日買物のためにスーパーに行ってレジで計算してもらっていたが後ろの中年の夫婦の言い争いが聞こえてきた。朝から・・・・・それも買物の品物のことでの争いだった。世界の飢餓や紛争や不公平な社会のシステムのためではない。ただの買物の品物のための言い争いだった。・・・・・

 


しかしこれは我々人間社会で起こっている姿である。いつでも見られる、どこの家庭でも起こっている、起こり得る姿である。世界の平和のために、大義のために喧嘩する夫婦はあんまりいない。考えて見ればつまらないことで喧嘩し、お互いに傷つき、苦しむのである。喧嘩して愉快な気分になるのは悪魔だけであるかも・・・喧嘩をしたら嫌な気分になる。それが分かっているけれども喧嘩してしまう。口を滑らし、我慢することが出来ない。大目に見てあげることも出来ない。言わなければ気が済まないからだ。結局、根本的な問題は自分にある。しかしそれを認めないで相手にその問題があると思い込んでしまう。

 


そのために改善されずに同じことが繰り返されている。それが人生だと考えている人々もいる。しかしそれは人生ではない。そういう人生のために生まれたわけではない。人生は長いと考える人もいれば短いと考える人もいる。でも人生は短い。聖書は短いと定義しているからだ。笑って、笑顔で、愛し合って生きるための人生はそれほど長くはない。明日、何が起こるかもしれない。はたして自分が生きているかもわからない。突然の事故や事件に巻き込まれてこの世を去り人々は少なくない。自分にもそういう可能性は100%ある。だから一日が最後の日のように生きることである。相手の欠点ばかりに目を止めないで、良いところに目をとめて生きることも重要である。しかし限界が・・・・・・

 


多くの場合、これらの問題が爆発する要因は、普段から会話なしに生活しているからである。自分の気持ちを相手に伝えないからである。多くの場合、人々は勘違いして生きている。相手が自分の気持ちを分かっていると思い込んでいるために問題が爆発するのだ。いくら夫婦でも言わなければわからない。いくら親子でも言わないとわからない。これが全ての人間関係における定義である。自分の気持ちを正しく、明確に伝える習慣がない、それに慣れてない家族は苦しみを味わっている。

 


まだ共に生きることを考えるならば、守って行こうと決めたならば話し合うことを止めないことだ。諦めずに自分の気持ちを、心を相手にはっきりと伝えることが家族や職場や社会をより平和に保たせるカギとなる。生きることを考えるならば話し合うことである。これは自由に、平和の内に、笑顔で生きるためには欠かせないことである。今日も精一杯に生きることである。なぜなら我々は生きるために生まれたからだ。

2022年10月18日火曜日

特別な存在として生きる

 


「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。(マタイ6:25

 


眠りから目が覚めると、まず考えるのは生きることが許されたことに対する感謝。

そして祈り、聖書、カーペットクリーナーで掃除(含ベッドメイキング)、説教準備、読書などを行う、日によって順番は異なるが必ず行う日課である。それからドリップコーヒー一杯を飲んで、ノアちゃんとの散歩に出かける。その前に現在の外の気温を確認して服装を決める。昨日まではいつも短パンだったが、今日からは長ズボンにした。外に出ると夜空を見上げて今日の散歩コースを考える。肌寒く感じる時は大年寺階段からの散歩コースが主なスタート時点となる。

 


階段を上ると体がすぐ熱くなるからだ。そこから八木山の方向か、愛宕神社と広瀬川沿いの方向になるか、それとも一度も歩いたことのない道に進むかが決まる。こうして人間は眠りから起きた時、常に、その日に行うことは何かを決めて生きる存在である。けれども何かを決めることは大事であるが、その決めたことを行うことがもっと大事である。さらに言うならば、何を決め、何を行うかによってその日の人生が大きく変わることである。もちろん平凡な人が決めて行うのは何か世界や国を動かすような大きなことではない。ごく普通の小さな営みである。しかしそれが一人の人間の生き方や人生を決めることになることなら、それは大きなことである。決して小さなことではない。普通の事でもない。それは特別なことである。


 

実は、我々人間は一人一人が特別な人生を生きている。なぜなら同じ人間はこの世にいないからである。同じ人間が100人いて毎日同じことを行うのであればそれは特別なことではなく、いつものことであり、普通のことであり、ありきたりのことであり、平凡な姿である。だがこの世界に70億以上の人々の中で自分だけのDNAをもって存在し、生きる世界での姿は特別なことになる。だから誰でも特別な存在として、特別な生き方で、特別な人生を生きなければならない。この宇宙でいくら探しても同じ人間は存在しないからである。それを教えてくれたのは天地創造の造り主であり、我々人間を創造なさった主なる神様である。だからこういう論理は信頼できるのである。今日も特別な存在として、特別な生き方で、特別な人生を生きる。今日も最後まで精一杯に生きることだ。

2022年10月17日月曜日

感謝する事を選んで生きる

 


そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕える為に、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイによる福音書2025-28)

 


今朝720分ごろ出発。

歩きで学院泉キャンパスまで行ってきた。

前回は榴ヶ岡高校のペンテコステ礼拝のためにそこまで歩いて行ったことがあるが、今日は別のルートで歩いて行った。しかし暑い。スーツ姿で歩くのは少し不便であるが、でも一石二鳥ということで感謝して歩いて行った。途中、上着を脱いで歩き続ける。礼拝は1020分からで着いたのは10時ごろ。

しかし礼拝堂は使えないために講義室で礼拝が行われた。無事に礼拝も終わり、泉中央駅までまた歩く。

今日は0時にノアちゃんとの散歩で90分、4時ごろには約1時間ランニング。7時過ぎには泉まで歩き。

結局、今日は42,000歩を歩いたことになる。しかしただ歩くのは意味がない。自分の歩きは祈りの時である。だから意味があり、ありがたいことになる。

 


帰ってきてお風呂さんへ。

この時間帯に行くのは初めてだが・・・・少しは疲れが取れた。感謝。帰りに買物。

今日はひき肉とキャベツ炒めの料理をする。前回、娘に好評だったので先ほどまた作った。

妻も帰ってきたが・・・・・・お店から上着を忘れたとの連絡が・・・・・・・

もう一回忘れたら富士山に連れて行ってあの森の中で捨ててくるからな!!!!と言い聞かせた。

仕方なく一緒にお店まで行ってきた。

今日は色々な意味で疲れた・・・・・・

なんか生きている感じがする。感謝。

 

31日には、また榴ヶ岡高校の宗教改革記念礼拝に行く。この脚がなくなるまで歩き続ける。

でも今度は車で行く。

 

感謝して生きよう。よく考えたら数え切れないほど感謝することは多い。そのことに目をとめて生きよう。感謝することを考えるとたくさん出てくるのと同じく、不平不満なことを考えるとそれも数え切れないほど多く出てくる。要はどちらを選んで生きるかである。自分は感謝を選んで生きることにした。

すると本当に感謝することがいっぱい出てくる。今日も感謝の一日である。

2022年10月16日日曜日

生き生きとした希望の下で生きる

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。(ペトロの手紙一1:3-4

 



先日、金曜日にみやぎ霊園に行ってきました。秋も深まりつつあります。季節の変わりは自然の様々な姿を通して伝わってきます。特にお花は新しい季節の配達員であるのです。お花は生き生きとした姿で精一杯に使命を果たしています。自分の生きている姿でメッセージを語っているのです。そして次第に枯れて行くのです。永遠に生きる花は存在しません。生きものは必ず枯れて、落ちて、消え去ります。これが真理です。もう一つの真理があります。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ、という真理です。みやぎ霊園に行きますと、枯れたままのお花が飾ってあるお墓がたくさん目に入ります。枯れて死んだ人々のお墓である、と物語っているような気がします。しかし生き生きとしたお花が飾ってあるお墓を見ると、生きているとの感じがするのです。しかし、外観はどうであれ、実際に教会のお墓は生き生きとした希望の下で天に召されている主の民がこの地上で最後に立ち寄る場であるのです。天の御国におられる主の民を思い出しながら過ごしたひと時でした。


 

私たちは信仰によって生き、そして最後には信仰によって死ぬべき主の民です。我々の国籍は天にあるからです。

  

完全なセキュリティー

 


わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。 わが助けは、天と地を造られた主から来る。 主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。 見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。 主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。 昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。 主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。 主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。(詩編121編)

 


先日、3年一度行われる消防点検がありました。4名の消防士たちが会堂を含む教会の消防設備点検や色々と見て回りました。最後に、「この教会には何かセキュリティー会社に依頼しているのでしょうか?」と言われました。それで「もちろんです!!!!!完ぺきで、100%信頼できる方に依頼しています。夜昼寝ずの番をして24時間、365日守ってくれる方です。天地創造の神様で、我々の父なる神様でもあります。」と言いたいところでしたが、いいえ!と答えました。問題なく、点検は終わりました。

一つ、10年目となるので消火器の取替が今年中行われる予定です。おそらく12月に行われると思います。セキュリティー会社は朽ちる、消え去る、なくなるものしか守ってくれないですが、それも100%と言えない不完全な防犯のシステムですが、我々の神様はなくならない、消え去らない、朽ちない永遠の魂を守って下さる方です。何が重要であるかをしっかり覚えて生きることが大事です。肉体が重要でないとの意味ではありません。私たちが本当に守るべきものは信仰であるとのことです。マラナタ!

2022年10月14日金曜日

命がある限り歩き続ける

 


わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。(ヘブライ6:11-12

 



今日はサンティアゴ祈りの旅並みの歩きであった。感謝。みやぎ霊園に行くいつものルートが地震と雨で通行止めになり、少し遠回りになったので時間がかかった。ベニーランドから仙台城、そして東北大学、宮城教育大学、青葉森林公園の入口を通ってみやぎ霊園へ。坂道はトレーニングにもなるので喜んで、同時に汗もいっぱいかいて歩き続ける。感謝。



秋を味わいながら、祈り、皆の事を覚えながらまた祈る。その内、みやぎ霊園に到着。清掃の後、しばらく過ごす。今度は天に召された皆さんとの思い出を味わう。感謝しか出ない。全てに感謝。

 


今度は茂庭へ。ひたすら歩き続ける。トンネルをくぐると茂庭台入口。間違って何回もこの坂道を上ったことか?それでも感謝。

夕日がきれいだ。この時間帯に歩くのは久々かも。いや、ほとんどないかも。それで街の様子が、人々の様子が少しわかった。病院を見て祈り、そして歩き続ける。今度はパンセでパンを買った。結構、喉も渇いたのでお店でお水をいっぱい飲んだ。感謝。最後の1時間だ。歩き続ける。

 


そして無事に17時半ごろ到着。今日はトータルで約6万歩、約50キロの祈りの旅であった。感謝。来年3月のサンティアゴ祈りの旅のためにも良い運動になったかも。

 


少し休んで仙台駅まで娘を迎いに行く。昨日から学校の修学旅行(?)で東京に行って今日帰って来る。雨だったと言ったが友だちといれば関係なく、すべてが楽しいはず。

 


特別なことがなくても生きる喜びは生まれてくる。よくよく考えればそうなるはず。よく考えないで感情に左右されるので感謝がなく、不平不満が多くなる。生きることだ。どんな理由であれ命があるのは神様が生きることを許して下さったからである。だから生きることである。どうせ生きるならば楽しく生きることである。それはある意味、自分で創造する事である。楽しい人生は自然に訪れないからである。

造り上げることだ。そのための努力も惜しまず払うことである。すべてが面倒くさいと思う時があるかもしれないが、しかし少し努力することによって雰囲気は変わって来る。常に出来ることを考えて生きることである。生きることは、出来ることである。そう信じて最後まで歩み続ける。

 

シャワーラン

  あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。(マルコ 13 : 37 )   今日は雨の中を走り続けた。シャワーラン。 22 キロ完走。 雨にぬれてもまだ気持ち良い時期である。 これが一気に寒く感じるようになる。 それを常に意識...