2023年4月30日日曜日

主を誇る

 


「誇る者は主を誇れ。」(コリントの信徒への手紙二10:17

But he that glorieth, let him glory in the Lord.2 CORINTHIANS 10:17

 

今日は雨。

ノアちゃんとの散歩は雨の事で昨夜に済ませた。宮沢橋の所でノアちゃんより大きなゴールデンレトリーバーに遭遇した。二人も吠えず、観察していた。相手の70代と見えた飼い主のご夫婦も同じゴールデンレトリーバーに出会ったのは初めであったのか大きな声でこんばんは!と言葉をかけてくれた。それからうちらは川へ。気持ちよい風が吹いていた。少し川沿いの階段に座って語り合う。良い散歩であったことに感謝。

 


今日は4月最後の主の日であり、最後の日でもある。

人が誇るのは他人の存在があるからである。自分一人だけの世界であるならば別に誇ることもないし、誇ってもなにもならないからである。つまり、比べる相手がいてその人に比べて誇ることが出来、誇ることでうきうきとする変な生き物である。問題なのはその比べる基準である。背が高い、身体がスリム、顔が綺麗などでうきうきし、それで誇れる人は一番レベルの低い幼児型である。同じく財産、権力、社会的な地位で誇れる人もレベルの低い幼児型である。

 


貧しい家庭など、不利な状況、条件の中でも努力して成功した人が誇るのは周りも理解してくれる。納得できる誇りである。でもやはり本当に人々が喜び、尊敬する人の誇りとは自分のことではなく、自分をここまで導いてくれた助力者を誇る。そういう助力者がいなかったならば今の自分は存在しないと考える人。つまり、栄光を、誇りを他人に譲る人こそが本当に誇れる人と言えるかもしれない。

 


誇る者は主を誇れ。これが答えである。人間はそもそも誇ることが何一つない罪深い存在であるからだ。自分のみじめさを悟った人が神様の恵みに感謝し主を誇る者となる。自分を誇らずただ主にのみ誇る人生を歩むべし。

2023年4月29日土曜日

 


ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。(ローマの信徒への手紙11:33

O the depth of the riches both of the wisdom and knowledge of God! how unsearchable are his judgments, and his ways past finding out!(ROMANS 11:33)

 


33日に20kmのランニングを行った以来、今日は約2か月ぶりの20キロランニングを行った。昨日までは15キロだったけど再び20キロのランニングに取り戻した。この調子で走り続けたい。もちろん無理はしない。その日の調子に合わせて走ることにしている。

久々に走ると車が変わった家や空き地だったところに家が建ち変わった様子が目に入る。

時々走っているルートにある家の表札を覚えて言い当てながら脳トレを兼ねて走っている。

少し早かったか太白自然観察の森の駐車場には車が一台もなかった。今日は土曜日で、ゴールデンウイークでもあって人々や車も少ない。いい気分になって走り続ける。

 


神の道、神が決めたことや計画を誰が知り、理解できるのか?一人もいない。

場合によって人は人の考えや計画まで知りたがる。特に芸能人や著名人などに関しては病気と言われるほど強い関心をしめしそれらが普段の会話の材料になり話題になる。でも無関心の人もいる。人の事を知ってどうするの?人のことはやめて自分のことをしっかり考えて生きなさいと言う。その通りである。

 

キリスト者はイエス・キリストのことを常に考えて生きる群れである。しかしほとんど考えないで日曜日が来ると礼拝に出る。それが終わると教会のことは忘れてこの世のことで頭がいっぱいになる。この繰り返す人生を生きる。

 

ゴールデンウイークだ。関係のないウィークであるが、せめて心のゴールデンウイークにしよう。

2023年4月28日金曜日

友のように語る神様

 


主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。(出エジプト記33:11)

And the LORD spake unto Moses face to face, as a man speaketh unto his friend. And he turned again into the camp: but his servant Joshua, the son of Nun, a young man, departed not out of the tabernacle.(EXODUS 33:11)

 


今朝(?)は自分にとっては少し肌寒い感じだが、ノアちゃんにとっては快適な気温であろう。二人とも気持ちよく散歩が出来て感謝。そして今日もランニングをクリア。今日も15キロ以上走った。その内、20キロのランニングを再び行うことになる。苦しみを味わうことも良し。マイナスに捉えずその苦しみ、きつさ、しんどさが自分を強くさせる薬であると思い、乗り越えることだ。ずっと苦しみが続けることはないからだ。上り坂があれば、下り坂がある。人生も同じである。苦しみと悩みがあれば楽しみと平和の時もある。


 

神様が顔と顔を合わせて語られた人はモーセ以外にはいない。それだけモーセと言う人物は特別な存在であった。しかし聖書に記されている彼の出生から死ぬまでの過程をよく見るとどうして彼が神様にそのような特別な存在だったのかが分からない。人を殺し、怒りっぽいで、妬み、文句も言い、すぐ諦めるし、神様にも反抗した人だったのになぜ神様はモーセをそのように扱ってくださったのか?繰り返して聖書を読んでみるとその理由が分かる。その理由とは聖書が答えている。

 


神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。(ローマの信徒への手紙9:15-16

 


つまり、それは神様ご自身がそのように選んだからだ。人の態度や善さではなく、神様ご自身の一方的な恵みによってそのように扱い、彼は特別な存在として用いられたのである。

だから毎朝、私たちが祈るべきことは、求めるべきことは神様の慈しみ、恵みの内に生きられますようにとのことである。これはある意味、希望である。なぜならもしも人の態度や善さによって神様がそのように判断し、扱うならば自分は一生、それに近づけない者になるからだ。だから一方的な神様の恵みを褒め称えるべきである。今日も最後まで神様の恵みと慈しみの内に歩めますように祈るのである。

2023年4月27日木曜日

神の栄光を物語る

 


天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。(詩編19:2

Day unto day uttereth speech, and night unto night sheweth knowledge.(PSALMS 19:2)

 


雨上がりの空気は美味しい。

少し風が強い中、030分頃にノアちゃんと散歩。

今日は時間が早かったので広瀬川のハクチョウが寝てない姿を見た。

寂しくは見えなかった。そのように見えるのはおそらく人間の思い込みかも・・・

今日も工事現場は明るく、トラックの出入りも忙しく・・・・生きている。

 

自然は神様の栄光を物語るのに、御手によって造られた人間は無関心である。

不思議な事だ。

自然は御手の業を示すのに、御手によって造られた人間は知らん顔している。

不思議な事だ。

もしかしてこれは当然かも知れない。

 


罪に染められた人間は正しく考えることも、見ることも、聞くことも、感じることも出来ない患者であるからだ。しかし、もっと深刻なのはその罪によって無感覚になった自分の病を治そうとしないことだ。一番恐ろしいのは自分の病に気づかないことである。その意味でも人間が自分の罪に気づき、心を痛め、それを治そうとするのは大きな恵みである。

それを気づかせてくれるのは聖霊である。

 

今日も聖霊の導きによって生きるべし。

その助けを求めて祈るべし。

そして主の栄光のために精一杯に生きるべし。

2023年4月26日水曜日

絶えない慈しみ

 


主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。(哀歌322-23節)

It is of the LORD'S mercies that we are not consumed, because his compassions fail not.They are new every morning: great is thy faithfulness.(Lamentations 3:22-23)

 


新しいものはいつも新鮮で良い。

変わらないことも内容によっては良いことがある。

この世で変わらないものは?ないか?すべては変わってしまう。

時と共に変わって行く。これが真理である。

 


でも変わらないことがあると聖書は教える。

神様の愛、慈しみ、恵み、約束・・・・・・である。

だから神様を信じ続けられる。

その時の環境や状況によって変わる人間の心のようにではなく、そのどんな場合、どんな時にも変わらない神様が好きだ!!!

だから神様の栄光のために生きられる。

それが喜びであり、楽しみであり、感謝である。

アイドル!を敬うのではなく、真の神様を敬うのだ!

アイドルの事でわくわくするのではなく、イエス様のことでワクワクする日々を送るのだ。

この世の楽しみを探し求めるのではなく、天の御国での真の幸せを期待して生きるのだ。

苦しみも悩みも悲しみも痛みも孤独も怒りも妬みも憎しみも時と共に消え去る。

自分が死んだ同時に消え去るのだ。

しかし消え去らず永遠に伴うものがある。信仰と愛である。

信仰と愛によって永遠の命が与えられ、永遠の国で主と共に永遠に生きられる。

だからこの世でのキリスト者の死は終わりではない。本当の始まりである。感謝。

2023年4月24日月曜日

これで良いのだ!

 


お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」(ゼファニヤ書3:17

The LORD thy God in the midst of thee is mighty; he will save, he will rejoice over thee with joy; he will rest in his love, he will joy over thee with singing.

(Zephaniah 3:17)

 


07分に目が覚めた。起床、祈り、掃除、仕事。

2時半ごろ、説教看板取替、ゴミ出し、週報投函、散歩へ。今日は宮沢橋から広瀬橋ルート。

今日も寂しくハクチョウは一人で寝ていた。お~い!寂しくないのか?と呼び掛けると。

ハクチョウ:うるさいな!!!寝てるのに・・・・・

帰宅して仕事。そしてランニング。今日は少しいつものルートから離れて走ってみた。

これも良し。今日も生きる準備が出来たのだ!感謝。

 

娘を駅まで送った。今日は課外授業なので遅くなるという。

ではパパが美味しいものを作って置くわ!

楽しみしています!と言う。

帰ってきて何を作ろうかと考える。

そうだ!今日は久々に仙台朝市へ行こう!決まり。

出かける前に仕事をひと段落済ませてから・・・・

 

不思議な神様である。

言うことも効かず、反対に御心に反する事ばかり行っているのになぜ人間にそれほどこだわるのか?神様は何一つ不足することもなく、すべてに満たされていると聖書は教えているのに、なぜ人と関りを持ち続けるのか?よくわからない。

 

さらにその関係を何と親子の関係へと作ってしまったのだ。

奴隷と主人でも良いのに・・・

しかし神様はそれに満足することなく、親子関係へと近づけさせたのだ。

よく分からない。

 

そのために独り子イエス・キリストを十字架の死に引き渡したのだ。

よく分からない。

 

我々人間がその神様の心を理解することは出来ない。

だから理解することは止めて、ただ受け入れよう!これで良いのだ。

その言葉を信じよう!これで良いのだ。

その理解できない愛を受け入れよ!これで良いのだ。

そして生きよう!その愛の下で生きるのだ。

その愛を私たちも真似してみよう!これで良いのだ。

2023年4月23日日曜日

まず私たちを愛してくださった

 


わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

(ヨハネの手紙一4:19

We love him, because he first loved us.1 JOHN 4:19

 


散歩中にバックが落ちていた。しかし無視!落し物は拾わないと誓ったのだ!

今日は少し肌寒いが、ノアちゃんにはちょうど良いかも・・・・

今日もハクチョウちゃんは一人で寝ていた。

いつもサイクリングをするおじちゃん。

時々会う散歩のおじいちゃん。また今日もスマホおじいちゃんにも出会った。

いつもスマホを見ながら歩くのでスマホおじいちゃんと呼んでいる。

帰りは救急車の中で救命活動をしている救急団員がいた。

こうして今日も朝早くからそれぞれの人生を生きている。

 


先に愛を受けた。だから愛することは当たり前だ、という論理だが・・・

それについてこの世の人は言う、勝手に愛しやがて・・・・頼んでもないのに・・・

ほっといてよ!・・・でも、本当は人に愛されたことがない人の言い訳である。さらに本当の愛に出会ってない人が言う言葉である。

 

そもそも愛の本質を知らないからそのように言うだろう!人は最初から神様に愛されて、神様を愛して、人々を愛して、そしてその愛の中で生きるように創造されたのである。しかし本物の愛を失い、忘れたので心に穴が空き、その穴を埋めるためにさ迷い続けている。

それで見つけたのが富、名誉、権力、ドラック、セックス、スポーツ、趣味生活などである。でも愛の代わりになるものはひとつもない。だから満足することができず、次々と変えながら生き、結局、見つけずにこの世を去る。

 

だから本物の愛に出会ったのは大きな恵みである。さらにそれが本物であることに気づいたのは祝福である。だからいつも感謝して生きるべし。絶えず神様の恵みによって生きる存在であることを忘れずに生きるべし。今日も主を精一杯に礼拝し、愛し、頑張って生きる。

2023年4月22日土曜日

永遠に存続するもの

 


わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリント二4:18

While we look not at the things which are seen, but at the things which are not seen: for the things which are seen are temporal; but the things which are not seen are eternal.(2 CORINTHIANS 4:18)

 


ランニング。今日は13.3km

帰りのランニングで朝の白鳥を見るために走るルートを変えて広瀬が沿いへ。

まだまだ元気そうだ。

この辺を歩きながらこの白鳥のことを知っている人々は家庭でも話題になっているだろう。

ハクチョウを見た人々は家でその話をして、その話を聞いた家族はそれを知り、そして本当にハクチョウが一羽残されて広瀬橋の近くにいるんだと信じているだろう。直接、見たわけではないが信じている。なぜだろうか?それを知らせてくれた一人の家族の話が真実だと信じているからだ。

 


しかし主イエスの復活の知らせを弟子たちは信じなかった。目撃した婦人たちの話を信じなかったのである。なぜなら彼女たちを信用しなかったからである。不思議な事だ。同じく主イエスに従っていたのに、仲間たちの間で信用しない雰囲気が作られていた。今の教会も同じかも。お互いに信用しないキリストの弟子たちがここにもいるということだ。主イエスは信じるけれども、兄弟姉妹たちは信じない。これもまた不思議なことだ。しかしこれが現実である。

 

目に見えない主イエスは信じて、目に見える兄弟姉妹達は信じない。いったいどうなっているのだろうか?これが罪ある世界である起こり得る自然な出来事かも・・・・少なくとも家族だけは信じて生きよう。今日も生きる。

 

2023年4月21日金曜日

神の御心を行う人

 


神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。(マルコ3:35

For whosoever shall do the will of God, the same is my brother, and my sister, and mother.(MARK 3:35)

 


今日は暑かった。いつものように3時にノアちゃんと散歩。薄着だったけど歩くと熱くなる。今日はルートを変更して愛宕橋→広瀬川沿いを歩き、広瀬橋から帰宅。それから仕事。

三日ぶりにランニング。変わらず大年寺階段はきつい。坂道もきつい。でもそれが運動になる。だから走って上り続ける。やはり夏のランニングは厳しくなるだろう。

 

神の御心を行う人こそ!が大事であると言う。すると自然に神の御心とは?の問い出てくる。

神の御子イエス・キリストがそれを簡潔に教えてくださった。神を愛し、隣人の自分のように愛すること。結局、この愛がカギとなる。しかしこれを行うのが難しいことだ。もしも簡単だったならばこの世界は今のようにはならなかっただろう。さらにその愛を持つことさえ出来ないのが我々の罪人である。そもそも愛するという考えもないからだ。赦すことも出来ないのに愛するなんてもっと出来ないだろう。

 


だからイエス・キリストは聖霊を受けなさいと言われたのである。自分の力では出来ないことを聖霊の助けと力によって出来るようになることを教えたのだ。だから日々聖霊に満たされることが重要である。その聖霊に満たされる方法は祈りとみ言葉しかないという。毎日、み言葉を読み続けそして祈り続ける。またみ言葉を忘れずにいつも心に留めて生きるときに聖霊の助けと導きを得て人々を愛し、人々を赦し、人々を幸せにすることが出来るのだ。

 

今日も聖霊の助けと導きによって神様を愛し、人々を愛しながら生きよう!感謝と喜びをもって生きよう!わたしたちに命がある限り希望はある。その希望によって生きよう!私たちの真の希望は言うまでもなく、主イエス・キリストである。ハレルヤ!生きる。

2023年4月20日木曜日

わたしの軛を負い

 


わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、

あなたがたは安らぎを得られる。(マタイによる福音書1129節)

Take my yoke upon you, and learn of me; for I am meek and lowly in heart: and ye shall find rest unto your souls.(MATTHEW 11:29)

 


二頭の牛がくびきを負って畑を耕す時に二頭のうちどちらかがリードするか、あるいは一心同体になって一緒に動くかによって正しく畑を耕すことができるようになる。上記の二つの条件の内、どちらがしやすくなるのか?どっちになるのが確立が高いか?また楽なのか?

誰かがリードになって導き、あとはついて行くだけのほうが遥かに楽であり、問題なく最後までちゃんと耕すことができるのである。一心同体は長く続かないし、不可能であるからだ。

 


上記の聖書は各自自分のくびきを負うとは言わず、わたしのくびきであると明言している。

イエス・キリストのくびきである。そのくびきの中に自分の首がかけられてさえあればあとは主が導く方向へとついていくだけのことである。これがすべてがまんべんなく執り行われ、人生が進まれる道である。しかし人々は反対のことをしている。つまり、自分のくびきにイエス様の首を入れて自分がリードして行く人生を生きている。そのために人生の畑はまっすぐに耕さず、また障害物にぶつかり、それで苦しみ、痛み、悩みの日々が続くのである。

 

それらの苦しみと悩みから解放される道は、一つだけである。早くくびきのリードを変えることだ。自分のくびきを捨てて、イエス様のくびきに素直に首を入れて、イエス様をリードにし、自分はついていく立場になること、これが一番の道である。主は導いてくださる牧者であり、わたしたちは羊である。羊が生きるためには羊飼いに従うことのみである。幸せとは主が導いてくださる道から離れず主に従って行くことである。今日も主の御言葉に従って歩む一日でありますように・・・・ハレルヤ!アーメン。

2023年4月19日水曜日

真の宝はここにある

 


神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書316)

For God so loved the world, that he gave his only begotten Son, that whosoever believeth in him should not perish, but have everlasting life.(JOHN 3:16)

 


神は、世を愛された。独り子をお与えにったほどに。

神は、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないように。

神は、世を愛された。永遠の命を得るために。

 


しかし、人々は神様の愛を拒否した。

それで人々は、イエス・キリストを信じなかった。

それで人々は、滅ぼされた。

それで人々は、永遠の命を得ることが出来なかった。

なぜなら神の独り子、イエス・キリストを信じなかったからである。

 

過去、現在、未来において神様は一貫した愛を示して下さった。

しかし人は一貫してその愛を拒否した。

 


ではなぜ人々は神様の愛を拒否したのか。あるいは拒否しているのか。なぜならその神様の愛の価値を知らないからである。人々は価値あるものを追求する傾向がある。人生をかけてそれを手に入れるために頑張るほどだ。要は、その価値を知らないために拒否し続けている。

ではキリスト者はその価値を知っているのか?残念ながら多くのキリスト者さえもその真の価値に気づいていない。だからイエス・キリストを信じながらもこの世の中で価値ある物を探し求めている。最高の価値あるものが目の前にあるにもかかわらず、それをいつも接しているにもかかわらず目をこの世に向けている。

 

聖書は繰り返して神の愛の価値を、イエス・キリストの価値を語っている。聞く耳のある者は聞きなさい、と言う。SOLO DIOS BASTA。神様であるイエス・キリストのみ満足する人生を生きるべし。ここに真の答えがある。すべての答えがある。今日もイエス・キリストのために精一杯に生きる。真の主、真の神、真の牧者、真の宝、我が主イエス・キリスト。アーメン。

2023年4月18日火曜日

愛によって歩む

 


キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。(エフェソ5:2

And walk in love, as Christ also hath loved us, and hath given himself for us an offering and a sacrifice to God for a sweetsmelling savour.(EPHESIANS 5:2)

 


起床、祈り、掃除、散歩、ゴミ出し、仕事・・・・・・・二度寝・・・・起床、聖書、散髪、階段掃除、ノアちゃんの朝食、娘の見送り、聖書、仕事・・・・

こうして繰り返す日々はつまらないと感じる人々がいる。それで何か刺激を、新しいことを探し求める。

 


でもこうしたルーティンワークが重ねて人生を形づくり、自分を自分らしくさせるのである。日常の一つ一つのことが聖なる行為であると聖書は言う。特別な事よりは主と共に歩む日頃の働きが聖なる行為である。何か聖なる雰囲気を表す服や敬虔な場所にいるから聖なる者になるのではなく、どこにいても主と共に歩む場所、時が聖なるところ、聖なる時間になる。だから主を思いながら家族のために、人々のために洗い場に立った時もそこは聖なる場となるのだ。つまり、心が大事である。何を思い、誰のために行っているのかが重要である。

 


でもここで間違って考える人々がいる。自分のためにやるのはエゴイストで常に他人のために行うことが主の御心であると考えることだ。それは大間違いである。まず神様のために・・この順序は大事である。しかし自分のために美味しいものを食べ、自分のために趣味生活を行い、自分のために旅行に出かけることなどが悪いのではなく、その主な目的、主な関心事がいつも自己中心になる場合はエゴイストと言えるが、しかしいつもの関心事が神の義と神の国を考え、同時に隣人愛に関する神様の戒めを心に留めて機会があったら迷わず助けることが出来る人によっては自分のために行うことはかえって神様の栄光にもつながる大切な行為になるのだ。

 

主イエスに訪ねてきた金持ちの青年に対しても主イエスは全財産を売り払って貧しい人々のためにだけ施しなさいと言わなかったのである。その主な目的が何かを考えることが重要である。すべては神様の栄光のために行う。こういう確かな信仰があれば良いのだ。だから自分のためにも生きることは大事である。そしてすべては愛によって歩むべし。

2023年4月17日月曜日

主の恵みを追い求めよう

 


恵みと慈しみを追い求める人は/命と恵みと名誉を得る(箴言21:21

He that followeth after righteousness and mercy findeth life, righteousness, and honour.(Proverbs 21:21)

 


多くの場合、人は自分が何を追い求めているのかによって生き方が現れるのである。もちろん自分が追い求めるのとまったく違う生き方で生きている人々もいるが、・・・

普段、何を考えているのか、何を一番多く考えるのかによって生き方が形造られる場合が多い。泥棒はいつも人の物を盗むことを考える。研究者は寝ても起きてもいつも自分が取り組んでいる課題を考える。学生は勉強のことを考える(?)スポーツ選手は自分の分野のことを考え、いつもトレーニングを行う。牧師は毎日、教会の人々のための祈りと霊の糧である聖書の言葉を吸収し、自己研鑽のために聖書研究に取り組むべし。

 


今日も与えられた命、時、場所で精一杯に主の栄光のために生きる。少なくとも悔いのない今日の人生を生きるべし。食べるのも、見るのも、聞くのも節制して時間を有効に用いるべし。欲張らず、妬まず、憎まず、怒らず、すべてに感謝して生きる一日でありますように。

2023年4月15日土曜日

信じて委ねよう

 

すべて重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。



人は休息を必要とする。今、背負っている人生の重荷を代わりに背負ってくれることを望んでいる。体も、心もさらに魂も休息を求めている。

そのためにイエス・キリストはお出でになったのである。

けれども人々はそのイエス様を拒否し、迫害し、十字架につけて殺したのである。なぜならその休息の正体が気に入らないからだ。人々は今のまま自分たちの生き方が崩されず、



その上に与えられる休息を望んでいる。しかし聖書はそれは不可能であると言う。土台を変えないと真の休息を得ることが出来ないと言う。罪と欲と憎しみと妬みの上に立てられた土台を完全に取り壊してその上にまったく新しい土台であるイエス・キリストを設けなさいと言う。そのイエス・キリストを信じる信仰の上に真の休息は豊かに与えられるようになる。それでも多くの人は今のままの人生、生き方がかりに不満であるとしても変えようとしない。勇気がないからである。今の土台を壊すと自分が壊されるかもしれない、と思い、それを恐れている。だから信仰を持つことをためらうのである。それで聖書は恐れるな!と365回も繰り返して語っている。



神の言葉である聖書がわたしたちに要求するのは理解ではなく、決断である。しかし人々は聖書の言葉をただ理解するために読んでいる。その目的が食い違うために完全な答えを得られずに通り過ぎる人々が多い。それでさ迷い続ける人生を送る。人生は短い。私たちに与えられた時間はそう長くない。明日、何が起こるかも分からない。生き残る保障もない。それで聖書は毎回、私たちに決断を要求する。

信じるか否か、受け入れるか拒否するか、神の国に入るかお墓に入るか、・・決断するのは本人である。

呼び続けよう

 


主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし、主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。主を愛する人は主に守られ/

主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。(詩編14518-20節)

The LORD is nigh unto all them that call upon him, to all that call upon him in truth.He will fulfil the desire of them that fear him: he also will hear their cry, and will save them.The LORD preserveth all them that love him: but all the wicked will he destroy.PSALMS 145-18-20

 


普段、主を呼ぶ人は少ない。

当たり前のことだが、主を知らない人は主を呼ぶことができない。

しかし、主を知る人々の中でも主を呼ぶ人は少ない。

なぜならその呼び方が分からないからだ。

また神様に対して親しみを感じないからだ。

誰のせい・・・・言うまでもなく人間のせいである。

なぜなら主なる神様はいつも人々から呼ばれるのを待っておられる方であるからだ。

 


でも、中には呼ぶのはまれであるが、たまに呼ぶ時がある。自分が困っている時だ。

それ以外には呼ぶことも、探すことも、考えもしない。

こうした形だけのクリスチャンが多い。

そのために教会は真の力を失い、弱い存在になり、社会に、そして人々に何の影響も与えることができず、反対に社会から、この世から悪い影響を受けながら歩んでいる。だから神様は嘆くのだ。

 

目覚めよう!

そして主なる神様を呼び続けよう!

神様に近づき、いつも祈り求めよう!

毎日その御声に耳を傾けながら歩み続けよう!

そういう人に主が共におられることを信じて生きよう!

主の栄光のために精一杯に生きよう!

ハレルヤ!

2023年4月14日金曜日

よく考えて生きよう

 


「約束なさったとおり、その民イスラエルに安住の地を与えてくださった主はたたえられますように。その僕モーセによって告げられた主の恵みの御言葉は、一つとしてむなしいものはなかった。(列王記上8:56

Blessed be the LORD, that hath given rest unto his people Israel, according to all that he promised: there hath not failed one word of all his good promise, which he promised by the hand of Moses his servant.1 KINGS 8:56)

 


今日の月は約半分欠けていた。そのように見える半月。しかし本当は欠けているのではなく、太陽の光に照らされている昼の半分しかい見えないためにそのように見えるだけのことで、月は丸い形をしている。つまり、月を見る角度によって満月、半月、三日月のように見えること。

 


自分が中心になると物事はいつも私見によって判断される。人々の姿や行動も自分が中心になると勝手な解釈が生じるのである。誰の立場から物事を考えるかによって解釈は天と地の差を生み出す。ある人々は相手の立場から考えるようにと言う。しかし相手がどんな立場にあるのかを正しく把握しなければとんでもない結果を招くことがある。無条件に相手の立場から考えるのではなく、中立的な立場を維持して考えることが重要である。どちらにも偏らないで両方の立場から考えて見て、それから一般的な倫理、秩序、道徳、常識から考えて見る。そしてキリスト者ならば最後に主イエスの言葉に耳を傾けて考えることが重要である。

今日も新しい命が与えられた。どうせ生きるならば楽しく、感謝して、笑って生きよう。

楽しいことはない、感謝することもないと言う。しかし楽しく生きることはいくらでも可能であり、考えて見ると感謝することもいっぱいあるはず。生きよう!




 

シャワーラン

  あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。(マルコ 13 : 37 )   今日は雨の中を走り続けた。シャワーラン。 22 キロ完走。 雨にぬれてもまだ気持ち良い時期である。 これが一気に寒く感じるようになる。 それを常に意識...