2023年5月31日水曜日

主を褒め歌う

 


地の王国よ、共に神に向かって歌い/主にほめ歌をうたえ〔セラ(詩編68:33

Sing unto God, ye kingdoms of the earth; O sing praises unto the Lord; Selah(PSALMS 68:32)

 


今日は21.93キロを走った。

今日は色々あって、少し忙しかった・・・・それでも感謝。

学校まで迎えに行き、ノアちゃんのシャンプーなど・・・・・生きている感じだ。

でも何のために、誰のために忙しかったのかが重要である。常に神様の栄光のために、家族のために、人々のために・・・・・ノアちゃんのためにも・・・・

今日は5月最後の日でもある。5月も無事に終わることが出来て感謝。

 


どう生きるかは常に聖書が答えている。何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。神の国と神の義のために生きることである。神の国と神の義のために生きるとはどういう意味なのか。神様の御心に従って生きることである。では神様の御心とは何か。神を愛し、自分のように隣人を愛することである。この愛をもって憎しみ、妬み、欲望、快楽などを打ち破り、その神様の愛を土台にして神の国を建設することである。

 

今日も最後までこの愛をもって生きることである。神様の愛こそ、真の力である。

2023年5月30日火曜日

喜び祝う人生

 


神に従う人は誇らかに喜び祝い/御前に喜び祝って楽しむ。(詩編68:4

But let the righteous be glad; let them rejoice before God: yea, let them exceedingly rejoice.(PSALMS 68:3)

 


毎日がいつも喜び祝う人生だったらどうだろうか?経験したことがないために分からない。

飽きるかも知れない。どういう喜びであり、何を祝うかによって違ってくるかもしれない。

でも人生には喜びも悲しみも涙も笑いも苦しみも嬉しいこともあるからこそ人生だと言えるのではないか。喜びばかりの人生は望まない。だからといって苦しみばかりの人生も望まない。それぞれが時に適って訪れる。それを拒否せず受け入れる。そして耐え忍び、乗り越えて、少し成長して前に進む。こういう人生を望んでいる。今日もそういう人生を生きる。

 


今日のランニングは記録更新。27.27km2:31:515:33kmを走った。時間は早くないが何とか頑張って4分台で走れるように・・・・朝ランは30キロを目指して走り続けることにした。今年の9月まで朝ラン30キロは走れそうだ。諦めずに走り続け、挑戦し続ける。

 

今日も主の栄光のために精一杯に生きるべし。精一杯に愛し合いながら生きるべし。今日も悔いのない一日を過ごすべし。

2023年5月29日月曜日

日々、私たちを担って下さる主

 


主をたたえよ/日々、わたしたちを担い、救われる神を。〔セラ(詩編68:20

Blessed be the Lord, who daily loadeth us with benefits, even the God of our salvation. Selah.(PSALMS 68:19)

 


一時、雨が止んで散歩へ。2時過ぎである。

ゴミ出し、週報投函、今日はサトー商会ルートを歩いた。外の気温は17℃と記されていた。

一人のランナーを発見。今度のハーフマラソンに出るのかな?と思いながら僕らは歩き続ける。こうして一日が始まった。感謝。

 

救いの出来事は一回のみである。イエス・キリストの十字架の救いの業も一回のみであった。

それで完全であったために主イエスは成し遂げられたと言われたのである。しかし私たちが置かれているこの世界で生きるためには毎日の救いが必要である。それは悪から守られ、誘惑に陥ることなく主の御心に従って生きるための救いである。そのために絶えず聖霊の助けと導きを得なければならない。そのために聖霊の助けを求めて祈り、み言葉による生活が必要である。

 


私たちが主を忘れると、いつの間にか悪が潜んできて憎しみ、妬み、不平不満、非難批判する心が座を設けるのである。だから常に自分自身の心の状態を調べることが重要である。悪魔に隙間を与えてはならない。み言葉と祈りの壁で徹底的に防衛し、そして襲ってくる悪の働きを一騎打ちで破壊することである。これは毎日我々が行うべき聖なる戦いである。しかし主が私たちのために戦って下さることを忘れないように。これが大事である。

今日も主の栄光のために精一杯に生きるべし。

2023年5月28日日曜日

神を畏れ敬う

 1【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。歌。】2神がわたしたちを憐れみ、祝福し/御顔の輝きを/わたしたちに向けてくださいますように〔セラ3あなたの道をこの地が知り/御救いをすべての民が知るために。4神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞって/あなたに感謝をささげますように。5諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように/あなたがすべての民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれることを。〔セラ6神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞって/あなたに感謝をささげますように。7大地は作物を実らせました。神、わたしたちの神が/わたしたちを祝福してくださいますように。8神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで/すべてのものが神を畏れ敬いますように。(詩編67編)

 


不思議にも人間だけは食べることや飲むことや着るもの、住まいなど生きるための基本的な条件が満たされても心にぽっかりと穴が空いているような感じがする時がある。すべてが満たされても満たされないのが人間である。なぜなら人間は獣と違って永遠を思うように造られた存在であるからである。聖書がそのように教えている。だから時々満たされない自分に気づき、憂鬱な気分になるのである。その意味でも信仰生活は大事である。

 


変わりなく走り、掃除をし、買物や説教準備や料理をして一日を過ごしている。感謝。

この変わりない日頃のルーティンワークが重要である。そしてそれを感謝して生きるのが大切である。日頃の感謝を忘れると不平不満が顔を出す。そして周りで起こる物事をネガティブに考え、結局、イライラする自分に出会い、周りの人々まで嫌な気分にさせるのである。

 


良い事が一つもないと言う人がいる。良い事はいかに自分が良いように生きるかにかかっていることであって自然に訪れるものではない。同じ事柄を、同じ出来事をどう見て、どう受け止めるかによって幸福も不幸も味わうことが出来るのである。どうせ生きるならば幸福を選んで、そのように受け止め、考えて生きるべきである。

 


習慣は第二の天性なり。良い考え方を習慣化することが大事である。自分のために。

 


先日から25キロの朝ランを行っている。これも慣れるまでが大変で、慣れれば大変なことでもない。しかし慣れるまではきつい訓練が必要である。それを乗り越えるかどうかがカギとなる。苦しみを楽しみとして受け止めて生きる事も出来る。何でもできるかも知れない。

悪いこと以外には善い事は何でも行うべし。人々が喜ぶことを行う事も重要である。共に生きるために。

2023年5月27日土曜日

祈りを聞いて下さる主

 


わたしが心に悪事を見ているなら/主は聞いてくださらないでしょう。しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け/聞き入れてくださいました。(詩編66:18-19

If I regard iniquity in my heart, the Lord will not hear me:But verily God hath heard me; he hath attended to the voice of my prayer.(PSALMS 66:18-19)

 




生き物の中で祈るのは人間だけである。少なくとも自分はそのように考えている。

しかし大事なのは祈ることができる人間ではなく、その祈りを聞いて下さる神様である。

独り言で終わる祈りではなく、返事があり、応答がある祈り、確かな対象がいて聞き入れられる祈りが重要である。聖書は繰り返して人間に祈ることを勧め、そして祈りの対象となる主なる神様を教えている。

 

しかし大切なのは聞き入れられるための祈りはどういうものかを正しく知って祈ることである。まるで空を打つような祈りではなく、ピンポン玉のように跳ね返される祈りである。

そのために行うべき最初の段階は悔い改めである。なぜなら神様は罪人の祈りを聞いて下さらないからだ。聖書はそれが重要であると教えている。悔い改めて清められた心で祈ることが大切である。

 

絶えず私たちは自分の心の状態を確認すべきである。人を憎み、妬み、悪事を働いていないのかを確認することである。絶えず主に向かっているのかを確認することである。主の助けと導きを願い求める心なのかが重要である。神様はご自分を探し求める者にご自分を表す方である。ご自分を切に求める者を主は探しておられる。

 


この世は神様から私たちの関心を奪い、むなしいものに向けさせようとして働いている。サタンの働きである。私たちは毎朝、目が覚めるとまず神の国と神の義を求めて祈り、主を賛美し、主の栄光のために生きることが出来るように聖霊の助けと導きを祈り続けることである。そのために毎日聖書を読み、祈り続けることである。他の方法はない。これが最善で最高の神様に近づける道であり、私たちが誘惑に陥ることなく、信仰によって生きられるカギである。今日も最後まで主の栄光のために精一杯に生きることである。ハレルヤ!生きる。

今日も21キロを走ることが出来て感謝。25キロも自由に走られるようになるまで走り続ける。諦めずに走り続け、祈り続ける。

2023年5月26日金曜日

愛するがゆえに

 


神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。(詩編66:10

For thou, O God, hast proved us: thou hast tried us, as silver is tried.(PSALMS 66:10)

 


生徒さんに聞くと、一番嫌いなのはテストだという。

確かにテストは好きではない。でもテストによって自己能力を知り、力が増すための機会になるのも事実である。人には限界がある。しかし自分の限界がどこまでかを知る人は案外知らない。なぜならそれが本当に分かるまで努力をしないからだ。自分の能力は自分も分からないかも知れない。死ぬほど勉強をしたことがないので限界が分からない。つまり、自己能力はどこまで耐えられるのかにかかっている。その意味でも出来ない人はいないかも・・・

ただやらないだけ、努力しないだけ、忍耐力が足りないだけのことである。でもこれが大事である。努力する事、忍耐する事、やる気を引き起こす事・・・・

 




信仰も似たような部分がある。

信仰が試されないと自分の信仰は本物かどうかが分からない。平和の時には信仰が分からない。でも突然苦難が襲ってきた時にようやく自分の信仰がどういうものかが試される。そこで人によって信仰が強められるか、あるいは捨てるかが決まるのである。実際に試練に耐えられて信仰が強くなった人がいれば、信仰することを止めて教会から離れ去る人がいる。

その主な要因は自分の知恵と力で信仰生活をしようとする人は試練に出会うと教会から離れ去るが、聖霊に頼って信仰生活をする人は試練に耐えられ、最後まで教会に留まるのである。そもそも試練は愛する子供の信仰が強められるために神様が許すことである。その受け止め方によって最後まで耐えられるようになる。

 


神様は愛の神様である。愛するがゆえに試練を許すのである。

2023年5月25日木曜日

一人よりは二人が良い

 


ひとりよりもふたりが良い。 共に労苦すれば、その報いは良い。 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。 倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。コヘレトの言葉 4:9-10

Two are better than one; because they have a good reward for their labour.

For if they fall, the one will lift up his fellow: but woe to him that is alone when he falleth; for he hath not another to help him up.Ecclesiastes 4:9-10

 


一人がいい、という人がいる。

一人より二人がいい、という人もいる。

いつもではなく、その時の状況によって一人がいいし、また、二人がいい、と言う。

人間は変わりやすい生き物である。

良し悪しではなく、人間だから仕方ない。

だから人間をいつまでも信じることは出来ない。

相手が悪いのではなく、そもそも人間はそういう生き物であるからだ。

これが分からないと人間に躓き、失望し、相手を憎むようになる。

人間は変わりやすい生き物だ。

これは真理である。

だから人間を信じることは出来ない。

信じるのは神様のみである。

 

人間はむしろ弱い存在であるために助けと支えが必要である。励ましと褒めることが必要である。弱い者同士が集まって人間社会を作り、今の世界を作った。それで強くなったと勘違いしている。高慢になる。しかし、突然起こる自然の力の前で破壊され、無力な存在であることに気づかされる。再び弱い存在であることを認める。しかしまた高慢になる。それでまた破壊され、みじめな存在であることを認める。人間の世界はこの繰り返しである。

 

全能なる神様を認めようとしない人間は、結局、滅ぼされる。人間は主なる神様を褒め称えるために造られたのに、自分自身を褒め称える。神様を知ることが私たちが生きられる道である。今日も神様を知るために聖書を読み、祈り、黙想をする。絶えず神様を認めて生きることが大事である。主なる神様こそ、褒め称えるべき唯一の方である。

2023年5月24日水曜日

御言葉が豊かに宿る生活を

 


キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイ3:16

Let the word of Christ dwell in you richly in all wisdom; teaching and admonishing one another in psalms and hymns and spiritual songs, singing with grace in your hearts to the Lord.(Corossian 3:16)

 

白鳥ちゃんは少し衰えていた様子だった。

雨上がり、しかし曇りである。

ノアちゃんにとってはちょうどよい気温かも知れない。286号線を歩くと看板に12℃であると記されていた。今日は広瀬川沿いの道は止めて街の中を歩いた。雨の時や雨が止んだ後は街を歩いている。なぜなら草のところを歩くとノアちゃんの毛に泥がついて汚れるからだ。本人は別に気にしないが、掃除をしているこちらは気にするところだ。これは飼い主の特権である。でもたまにノアちゃんが行きたがっているところへ方向を変えて散歩する時もあるので決して不公平ではない。神様のみ分かることだが・・・・・・

 

今日は約21キロをランニングを行った。今日から5日間走り、1日は休むことにした。そして3日間は太白自然観察の森方面21キロを走り。2日間は太白小学校を一回りして、富沢駅方面へ走り、名取川、そして広瀬川沿い約25キロを走ることにした。何よりも続けることが大事である。

 

キリストの言葉がわたしたちの内に豊かに宿るようにするためにはまず聖書を読まなければならない。繰り返して読み、み言葉が示している生き方に従って歩み続けることである。

そこで欠かせないのが聖霊の助けと導きである。結局、聖霊の助けと導きも聖書と祈りの生活から生み出されることになるので基本は同じである。しかし問題はこの基本的なことを多くのキリスト者は行わない事だ。

 

今日もみ言葉と祈りによってスタートする一日である。そして精一杯に愛し、生きることである。今日も悔いのないように時間を大事にして生きよう。食べる事、飲む事、見る事、聞く事にも節制して生きよう。時には沈黙の時が必要である。毎日、沈黙の時を設けて生きよう。意識的にイエス・キリストを忘れずに覚えて生きよう。ハレルヤ!

2023年5月20日土曜日

恐れない

 


主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。(詩編118:6

The LORD is on my side; I will not fear: what can man do unto me?(PSALMS 118:6)

 


今日のランニングは久々にみやぎ霊園へ。5時ごろスタートして6時ごろ着いた。誰もいない。静かな場所である。誰一人文句も言わない。誹謗中傷もしない。批判したり、悪口を言ったりもしない。喧嘩もなければ、戦争もない世界である。ある意味、死がもたらした平和?である。掃除をして再び走って帰宅。約25キロ。

 


神様に逆らって罪を犯した人間にすぐ現れた現象は恐れである。それ以来、人間は恐れる存在となった。病気を恐れ、死を恐れ、ばれることを恐れ、失敗を恐れ、負けを恐れ・・・

しかし聖書は神の民に対して恐れるな!と語る。この恐れるなという言葉が365回も出てくる。恐れることなく、神様の御前で正しく歩みなさい、という。なぜならイエス・キリストによって人間が恐れる根本的な原因を解決されたからである。イエス・キリストは死を打ち破り、復活なさったからである。だから我々もその復活の主イエス・キリストによって死を恐れず生きることが出来るようになった。恐れるな!病気を恐れるな!失敗を恐れるな!負けることを恐れるな!死ぬことも恐れるな!命のある限り、主の栄光のために精一杯に生きなさい、という。

2023年5月17日水曜日

御子を信じて生きる

 


わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネによる福音書6:40

And this is the will of him that sent me, that every one which seeth the Son, and believeth on him, may have everlasting life: and I will raise him up at the last day.(JOHN 6:40)

 


今日も走ることが出来たことに感謝。

大年寺階段が一番きつく、その他にも坂道はきついけど苦しみを楽しみながら走り続ける。

八木山、日本平大橋、太白小学校、山田自由ケ丘、イオンスーパーセンターの山田交差点

286号線、トヨペットから脇道へ、笊川、富沢駅、名取川、広瀬川沿いを走り続ける。そして広瀬橋を渡り、宮沢橋の下を走り続け、最後に286号線から大年寺の下のトンネルをくぐって教会へ。すると約27キロなる。今月は30キロを目指して走り続ける。感謝。

広瀬川でハクチョウを見て、今日は暑いよ!覚悟しな!と声をかける。

 

聖書を読むと神様の御心を知ることが出来る。

しかし神様の御心を頭で知る人と心で知る人がいる。

頭で知る人は忘れるが、心で知る人は忘れない。

 


大事なのは知ったことを心から受け入れ、そして御心に従って生きることである。

つまり、行いが伴う信仰が重要である。

 


人々はこの世のことで思い煩い、本当に大切なことを見逃して生きている。知るべき事、受け入れるべき事、信じるべき事、従うべき事には関心がなく、本当は重要でないことに心を寄せて生きている。そのため人生に満足を得ることが出来ないままいつも探し求める人生を送るのである。そして年を取り、最後は悔いながら死んでいく。あわれな人生を生きる。

 

だから目覚めて生きるべし。主を知り、永遠の命を得て、復活の希望をもって生きるべし。

2023年5月16日火曜日

罪を思い出さない主

 


わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。(イザヤ書43:25

I, even I, am he that blotteth out thy transgressions for mine own sake, and will not remember thy sins.(ISAIAH 43:25)

 


お風呂に入るのは体が汚れているからである。きれいだったら別に入らなくても良い。

教会の礼拝に行くのは罪人であるためである。罪がないのなら別に行かなくても良い。

なぜならイエス・キリストが来られたのは罪人のためであるからだ。教会は清い人々が行くところではなく、罪人が行くところである。そして悔い改めて罪赦され、清い生活を送ることになる。しかしこれはこの地上で生きる限り毎回行うべきことである。だから教会は毎週礼拝がある。本当は毎週1回も足りないのだが、繰り返して悔い改め、罪赦され、主の御心に従って生きることである。神様が喜んで祝宴を開いたのは悔い改めて立ち帰った放蕩息子のためであった。悔い改めて立ち帰る者を主は喜んで迎えてくださる方である。愛の神様であるからだ。そして悔い改めた罪は二度と思い出さないという。赦しの神様であるからだ。

だから父なる神様は善い方である。

 


今朝のランニングは途中、新しいコースを走ってみた。21キロとなる。命がある限り走り続ける。生き続ける。愛し続ける。

 


久々にノアちゃんのところのマットを洗濯した。床も吹いた。疲れた。でも感謝だ。これで半年は持つ。

 

今日もそれぞれの場で神様の栄光のために勉強し、仕事をし、生きている。今日も笑って生きる。くよくよしない。希望の人生を生きる。今日も最後まで悔いのないように精一杯に生きる。ハレルヤ!

2023年5月15日月曜日

生まれ変わる

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネによる福音書3:3

Jesus answered and said unto him, Verily, verily, I say unto thee, Except a man be born again, he cannot see the kingdom of God.(JOHN 3:3)

 


雨が降る前に昨夜ノアちゃんの散歩に出かけたけど、帰りに降り出して少し濡れた。

曇りの朝、雨の朝、晴れの朝・・・

やはり晴れの朝を迎えることが一番良い。

生き物は光を浴びると元気になる。

光りが心まで差し込んで内側から元気が出るのである。

だから毎日光を浴びるべし。

 



今日は高校の墓前礼拝説教。北山に行く。

その時間帯は雨の模様だ。それでも良し。

すべてを良し、と考え、受け止めて、内で作りかえて新しく生み出す。

創造の作業を心中で行い、そして生まれ変わる日々を送るのである。

すべては周りの環境や状況や人々ではなく、自分の心の中で決めて行う時にまったく変わった状況を作り出し、生み出すことになる。それを行うのが聖霊の働きである。だから毎日聖霊の助けを求めて祈り、み言葉を黙想し、頼って、期待して、希望をもって歩みべし。

 


今日はノアちゃんの9歳の誕生日である。

精一杯にお祝いし、愛し、感謝し、生きるべし。

命は神様が与えて下さったものである。

だから大事にして生きるべし。

楽しく、笑いながら今日も歩み続ける。 

2023年5月14日日曜日

定められた人生を生きる

 


主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。(詩編37:23-24

The steps of a good man are ordered by the LORD: and he delighteth in his way.

Though he fall, he shall not be utterly cast down: for the LORD upholdeth him with his hand.(PSALMS 37:23-24)

 


定められた人生。

しかし誰一人知らない人生である。

だから人生は謎である。

 


でも生き方によってその人生が謎に包まれ、わくわくさせる人生へと展開されるのか、

それともありきたりのつまらない人生へと進まれるのかが決まる場合がある。

人生がつまらないと考える人はつまらない人生を生きる。

人生が楽しいと考える人は楽しい人生を生きる。

なぜなら自分の人生の主体が環境や状況や他人ではなく自分自身であるためである。

 

自分がそう決めたためにそういう人生を送ることになる。これは99%当たる真理である。

幸せな人生を生きたいならば幸せな生き方が必要である。物事を考える時にも人のせいにせず、環境のせいにせず、ネガティブに考えず、いつもプラス思考で生きることである。駄目だと考えるならば、駄目になる。出来ないと考えるならば出来ない。当たり前のことで人々は苦しみ、悩み、思い煩い、苦しんで生きている。人間は元々複雑に考える癖がある。

 

シンプルに考えながら生きることは案外重要である。


 

明日は雨のようだ。

学院榴ヶ岡高校の墓前礼拝だ。説教のために行く。感謝。

 


明日はノアちゃんが9歳になる。元気にいてくれて感謝。明日は誕生パーティーにする。

でも娘からのリクエストは自分が好きなものばかりだ!ノアちゃんが悲しむかも・・・・

とにかく命がある限り、精一杯に生きる。楽しく生きる。笑って生きる。くよくよしない。

今日は今日で終わる。明日は明日の太陽が昇る。新しい自分を期待して生きるべし。感謝。

今晩は南蛮漬けを作った。


2023年5月12日金曜日

新しく変えられる罪人

 


自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。(ヨハネの手紙一1:9

If we confess our sins, he is faithful and just to forgive us our sins, and to cleanse us from all unrighteousness.(1 JOHN 1:9)

 


自分が犯した罪を否定する。

あるいは黙秘権を行使する。

罪を認め、告白して報いを受ける。

この世の姿である。

 

しかし

自分の罪を認め、告白し、赦しを乞い求める。

その結果、罪赦され、過去を問われない人生を生き、さらに天の市民として迎えられる驚く世界がある。神の国である。

 


ただ罪赦された者ではなく、聖なる者として迎え入れられるという。

犯罪者の身分から、聖なる身分へと変わった者になる。

だから人々は理解できない。

人々が理解できないことを聖書は関心を持たない。

なぜなら人の理解を求めないからだ。

ただ事実だけを語り、それを受け入れる者は受け入れなさい、という。

ここに希望がある。

これが福音である。

2023年5月11日木曜日

回復なさる主

 


主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。(詩編126:1-3

 


2時半起床。祈り、掃除、散歩。

今日の日課が始まる。

日課を楽しむことが重要である。

変化のないことで不満をもち、つまらない人生だと考えるのではなく、どれだけこれが恵みの時で、祝福の時であるかをよく考えて感謝し、その感謝を神様に対して、そして周りの人々の対する愛と奉仕で現すことである。

今も戦場の中で一日一日が奇跡のように考えながら生きている人々がいる。あるいは食べ物がなく、最後の食事を終えて涙を流す人々いる。医師から告知を受けて残り僅かな日を大事にして生きている人々がいる。生きる希望を失い、死を考える人々がいる。この世界には実に多くの人がそれぞれ異なる考えをもって今日という新しい日を迎え、過ごすことになる。

 


生きると考える人は生きる道が開かれる。

死ぬと考える人は死ぬ道が開かれる。

生きるか死ぬか、自分次第だが・・・・生きて後悔することはない。しかし死んだら後悔するだろう(?)本人は分からなくても周りはそういうに違いない。案外この世界は壊れたと思いがちだが、しかし生きる価値はある世界である。なぜならこの世界を造ったのは他ではなく、主なる神様であるからだ。人間の不従順によって壊れたけれども主なる神様は回復をなさる方である。決して見捨てず、回復なさるだろう。それを地上の教会を通して行うことをお決めになったのである。どれだけ光栄なことだろう。しかし多くのキリスト者はその事実を知らない。繰り返して聖書が教えていてもきかない。どうしようもない。気づいた者が行うしかない。神様は大勢の人々を求めない。一人の正しい人を通しても世界を回復することは出来るからだ。今日も生きよう。主のために、人々のために精一杯に生きるのだ。

ハレルヤ!

シャワーラン

  あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。(マルコ 13 : 37 )   今日は雨の中を走り続けた。シャワーラン。 22 キロ完走。 雨にぬれてもまだ気持ち良い時期である。 これが一気に寒く感じるようになる。 それを常に意識...