人がどう生きようが、時は必ず流れて行く。戦争の中でも、平和の中でも、争いの中でも、パンデミックの中でも、時間は止まることなく、進んで行く。その流れる時の中で人間の歴史は一ページ、一ページ書き記されている。同時にわたしたち一人一人の人生の足跡も残されている。別に人の見せるための人生ではないのでどう生きようが関係ないかも知れない。ただそれで自分自身は良いのか、満足するのかが問題である。満足しないために人はあらゆる生き方を試す場合がある。
しかし何一つ満足することが出来ず、ただ時だけが流れていつの間にか年を取ってしまった、と言う。
これ以上、年を取る前に何とか自分の人生を正しい方向へと、少しでも満足でき、納得できるように形造って行こうとするけれどもそれが出来ずに同じ人生を繰り返されていることに気づく。それで得た結論、人生や生き方は簡単に変わるものではない、と言いながら自分に納得させるのである。もはや変える力も勇気もない。流れる時に任せて生きて、後は墓場入りを待つだけとなる。いかに悲しい人生だろうか。
希望も、喜びもない。・・・・・これは神様が望んでいる人生ではないことを聖書は語っている。
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。(エレミヤ書29章)
1月の最後の日である。
祈って、語って、走って、歩いて、料理をして、愛して頑張って生きてきたと思う。感謝。
特に大きな出来事はなかったけど日々の歩みが守られたこと、導かれたこと、そして希望が与えられたことに感謝して明日からの2月の歩みに臨む。