2025年1月31日金曜日

強風

 


強風の中、今年一番しんどい21キロのランニングを完走しました。お年寄りたちはゲートボールに興じており、その中でも右腕が不自由な男性は、誰よりも早く来て準備をし、一人で練習する姿をよく見かけます。彼は不自由な体でありながら、誰よりもゲートボールに打ち込む情熱を持っています。寒さの中でのランニングでしたが、彼らの姿を見て、頑張ろうという気持ちになりました。

 


人生における行動のほとんどは、心の持ちようで決まります。モチベーションを高く保つことが、人生を充実させる鍵となります。

 


モチベーション向上の秘訣

目標達成までの道のりを細分化し、それぞれのステップで小さな成功体験を積み重ねることで、モチベーションを維持しやすくなります。大きな目標を掲げることも重要ですが、達成可能な小さな目標を設定することで、着実に前進している実感を得ることができ、モチベーションの向上に繋がります。

人の栄光を超えて

 


"Beyond Human Glory - The Transient Nature of Worldly Fame"

『人の栄光を超えて - 世の名声の儚さを問う』

 何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時 殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時 泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時 石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時 求める時、失う時 保つ時、放つ時 裂く時、縫う時 黙する時、語る時 愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。 人が労苦してみたところで何になろう。 わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。(コヘレト3章)

 

ベルナール・ロワゾーの悲劇的な最期は、人間の評価と名声に依存する生き方の危うさを鮮明に示しています。27年もの間、ミシュランの三ツ星を維持し、世界的な名声を得ながら、たった一度の評価の下落で人生を終えることを選んだ彼の決断は、深い問いを投げかけます。

 

人間の能力は、年齢と共に自然に衰えていきます。どんなに優れた技能を持っていても、その頂点に永遠に留まることは不可能です。27年という長期にわたって最高峰に君臨したことは、それ自体が驚くべき功績であり、感謝をもって受け止めるべき祝福だったはずです。その経験と知識を次世代に伝え、新たな喜びを見出す道も開かれていたはずです。

 

しかし、ロワゾーの心には自分しか存在しませんでした。数多くの客人を迎えながらも、誰とも真の意味での関係を築くことなく、自己満足だけを追求する人生を送ったのです。この生き方は、現代のアイドル文化にも通じる問題を提起しています。常に人気と評価を追い求め、時の流れを無視しようとする姿勢は、いつか必ず現実との激しい衝突を引き起こします。

 

人間への過度の依存や信頼は、必然的に失望をもたらします。なぜなら、人間は本質的に不完全な存在だからです。環境や状況は私たちの思い通りにはならず、人間関係もまた変化していきます。

 

コリント人への手紙二が教えるように、「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する」のです。私たちが真に信頼を置くべきは、永遠に変わることのない神の約束です。イエス・キリストに信頼を置く時、私たちは評価や名声の変動に左右されることなく、深い満足と平安のうちに歩むことができるのです。

 

この物語は、現代社会における成功の定義と、真の充実した人生とは何かについて、私たちに深い洞察を与えています。永遠に変わらない価値に目を向け、それを土台として生きることの重要性を教えているのです。

 

2025年1月30日木曜日

生きるリズムに乗って

 


26キロ走り抜けた後の朝の風景は、どこか特別なものに感じられる。いつもと同じ景色のはずなのに、26キロという距離を自分の足で刻んだ達成感が、この世界を少しだけ違う角度から見せてくれるからだろう。朝日が地平線から顔を出し、ハクチョウたちが雪の降り積もる道に佇む姿。薄く積もった雪が、まるで世界全体をそっと包み込むように舞い降りている。それは尊い静けさと優しさに満ちている。

 


多くの人々は、この朝の風景の中で自分だけの物語を紡いでいる。ランナーたちは新しい一日を迎えるために汗を流し、犬と飼い主たちは共に歩む喜びを味わい、道路を走る車や自転車は通勤ラッシュという生活のリズムを刻む。それぞれが一人ひとり、無数の思いや目的を抱えてこの同じ時間を生きている。

 


しかし、ふと周囲を見渡せば、一人ぼっちの白鳥が目に留まる。その孤独がどこか、自分自身の内面と重なる瞬間がある。「みんな他者と繋がりながら生きているのに、自分だけが取り残されているのではないか?」そんな気持ちを、この孤独な白鳥に投影してしまう。しかし、この世界は同時に、自然の大きな仕組みの中で誰もが繋がっていると気づかせてもくれる。一人きりに見える白鳥も、流れゆく川や降り積もる雪、その周囲の命たちと共に生きているのだ。


 

地球は、今日も確かに一回転した。太陽は、確実にまた昇ってきた。そして明日もまた、同じように回転を続け、太陽は昇るだろう。この繰り返しに秩序を見いだすということは、一種の美しさだ。けれども、それを「退屈だ」と感じる人もいる。そして、その退屈さの中で、「生きるとは?」という問いを抱くことがある。

 


決まったパターンの中で、それでも私たちは何か意味を見出そうともがく。朝、目を覚まし、働き、そして眠る。そのリズムは単調に見えるけれど、それぞれの日々には、微細な違いが積み重なっている。26キロ走った後に見える朝日や風景が少し違って見えるように、一つひとつの出来事が私たちに新しい何かを見せてくれる。ルーティンの繰り返しの中に、ほんの小さな喜びや満足を見つけることが、生きるということなのかもしれない。

 


「生きるとは?」という問いは、単純な言葉で答えられるものではない。しかし「生きている」という事実そのものが、何よりも確かな証拠ではないだろうか。26キロを走るその足取り、薄く舞い降りた雪の冷たさ、冬の川の流れる音、それらすべてが「いま、ここで生きている」というリアルを教えてくれる。未来のことも過去のことも、たったこの一瞬の「生」の前には霞んでいく。

 


だからこそ、この繰り返しの中に、たった一つの新しい風景や感覚を見つけていこう。白鳥の静かな孤独の中にも、生きるリズムの一部が宿っているように、私たちもまた、この決まりきった世界の中で、少しずつ形を変えながら生きていく。それが、生きる意味の一端なのではないかと思う。

 

目に見える成功を超えて

 


"Beyond Visible Success - Faith in God's Invisible Economy"

『目に見える成功を超えて - 神の見えない経済における信仰』

 

現代社会は、「お金がすべて」という物質主義の法則に支配されています。政治は政治資金によって動き、企業は利益追求のために倫理を踏みにじり、その結果として社会の歪みは深刻化の一途を辿っています。この世界は、まさにお金を通じて悪魔に支配されているかのようです。

 

しかし、御坊はこぶね教会と幼稚園の改築の物語は、この世の法則とは異なる原理が働くことを証明しています。「それは無理だ」という人間的な判断に対して、「私たちがするのではない。神様が建ててくださるのだ」という信仰の宣言は、目に見えない神の経済の原理を示しています。

 

多くの献金が与えられ、予想以上に建築費が抑えられ、適切な仮園舎が提供されたことは、人間の計算を超えた神の働きを表しています。これは単なる偶然ではなく、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した」という聖書の真理の具現化です。

 

しかし、より重要な教訓は建築完成後にあります。教会建築は確かに会衆を一つにまとめる力を持ちますが、それだけでは真の霊的成長は得られません。なぜなら、目に見える成功だけでは、持続的な信仰の成長をもたらさないからです。

 

真に成長する教会は、建物の完成後も継続的に発展します。それは、彼らの関心が目に見える成功ではなく、目に見えない霊的な実在に向けられているからです。彼らは常にキリストに焦点を合わせ、物質的な成功を超えた価値を追求し続けるのです。

 

「光は暗闇の中で輝いている」という御言葉は、この世の暗闇の中でも、神の原理に従って生きることの可能性を示しています。私たちは、この世の物質主義的な法則から解放され、神の霊的な法則に従って歩むように召されているのです。それは、目に見える成功を超えた、より深い満足と成長への道なのです。

 

2025年1月29日水曜日

命より大事なもの

 




"Faith Under Fire - The Living Witness of North Korean Christians"

『迫害下の信仰 - 北朝鮮のキリスト者たちが示す生きた証し』

 

義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10-12

 

北朝鮮における現在のキリスト教迫害の実態は、初代教会時代を彷彿とさせる厳しいものです。崔さん親子の地下教会での逮捕、聖書所持により命を落とした善さん、そして讃美歌を歌って処刑されたと思われる信仰者の証言は、現代においても信仰のために命を賭けなければならない現実を私たちに突きつけます。

 

北朝鮮当局による「宗教は麻薬である」という考えの下での徹底的な弾圧にもかかわらず、約4万人のキリスト者が信仰を保持しているという事実は驚くべきものです。しかし、より注目すべきは、この数の問題ではありません。自由な環境で信仰生活を送る何百万、何千万というキリスト者たちと比較して、彼らの信仰の質の違いにこそ、私たちは目を向けるべきです。

 

彼らが過酷な迫害下でも信仰を守り続けられる理由は、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」という使徒パウロの言葉に表される確信にあります。彼らの望みは、この世での長寿や繁栄ではなく、永遠の命という揺るぎない希望に向けられているのです。

 

黙示録に記された「神の幕屋が人の間にあって神が人と共に住み、人は神の民となる」という約束は、彼らにとって生きる力の源となっています。涙がぬぐい取られ、死も悲しみも嘆きも労苦もない世界への希望は、現在の苦難を耐える力となっているのです。

 

彼らが求めているのは、単純でありながら本質的なことです:主と共に生き、死に、復活し、永遠の命にあずかること。この純粋な信仰の姿は、私たち自身の信仰のあり方を問い直す鏡となります。

 

この証言は、現代の教会に対する重要な問いかけとなります。私たちは、快適な環境の中で信仰の本質を見失っていないでしょうか。北朝鮮のキリスト者たちの生きた証しは、真の信仰とは何かを私たちに教えているのです。

 

 

2025年1月28日火曜日

白鳥の舞う朝に

 


冬の朝空が淡い光を帯び始めた頃、私は15キロの朝ランに出発した。凛とした空気が肺に染み渡り、足音だけが静寂を刻んでいく。新たな挑戦として、週6日のランニング計画を立てた私の心は、期待と決意で満ちていた。

 




距離を重ねていくうちに、川辺に差し掛かった。そこで思いがけない贈り物に出会う。朝焼けを背に三羽の白鳥が、まるで紙細工のように優美な姿で水面に降り立とうとしていた。その瞬間をカメラに収められたことは、この日の特別な恩寵だった。

 


白鳥たちの翼は、まるで神の御手のように大きく、しなやかだった。彼らは完璧な調和を保ちながら、鏡のような水面に近づいていく。その姿は、私たちの人生にも通じるものがあるように思えた。私たちもまた、日々の歩みの中で、このような優美さと確かさを目指しているのではないだろうか。

 


15キロ、20キロ、25キロ、30キロ、35キロ、そして40キロ。月曜日から土曜日までの毎週の目標として設定したこの数字は、ただの距離ではない。それは、主の栄光を現すための、家族への愛を表現するための、そして教会に仕えるための私の祈りでもある。

 


休息日として定めた主の日。それは新しい週への備えであり、感謝を捧げる時でもある。今日も走れたことへの感謝、生かされていることへの感謝、そして明日への希望を胸に抱きながら、また新たな一歩を踏み出そう。

 


水面に映る白鳥の影は、私たちの人生の反映のようだ。天を仰ぎ見つつ、地上を歩む存在である私たちは、日々の営みの中で、少しずつでも高みを目指している。今日という日が、そんな歩みの中の大切な一歩となることを願いながら、私は朝日に向かって走り続けた。

 


この瞬間を与えられたことに感謝しつつ、明日もまた、主の栄光のために、愛する人々のために、そして自分自身の成長のために、一歩一歩を大切に刻んでいこう。白鳥たちが教えてくれた優美な生き方を胸に刻みながら。



2025年1月27日月曜日

苦難を超えた希望



"Hope Beyond Suffering - Moltmann's Theology of Joy"

『苦難を超えた希望 - モルトマンの喜びの神学』

 

モルトマンの神学的洞察は、彼自身の戦争捕虜としての苦難の経験から生まれました。その体験を通して見出された十字架の苦難と復活の希望は、彼の「希望の神学」の礎となりました。彼の思想は、現代の苦難に満ちた世界におけるキリスト教的喜びの本質を探求しています。

 

神の喜びについて語る時、モルトマンは創造の喜び、救い主の誕生、神の受肉、そして復活の栄光という聖書全体を貫く喜びの主題を指摘します。しかし同時に、キリスト教の中心的なシンボルが十字架―すなわち苦難―であるという逆説にも注目します。この見かけの矛盾の中に、深い真理が隠されているのです。

 

彼は霊的な喜びと感覚的な喜びを区別しながらも、両者が人間存在に不可欠であることを認めています。特に、感覚的な喜びが霊的な領域と結びつく時、それは環境に左右されない真の喜びとなり得ると説きます。

 

モルトマンの独特な洞察は、喜びと悲しみを対立的に捉えるのではなく、キリストの愛という文脈の中で理解することです。この愛の中では、幸福も傷つきも同じように存在し得るのです。さらに彼は、存在(Dasein)が非存在(Nichtsein)に先立つように、喜びは苦痛よりも根源的であると主張します。

 

十字架の苦難の中にさえ喜びを見出せる理由は、復活の光が死の闇を照らすからです。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」というパウロの言葉は、この真理を力強く表現しています。

 

信仰とは、復活のキリストの現存の中に生きることであり、神の国への希望を持って「マラナ・タ(主よ、来たりたまえ)」と祈りつつ歩むことです。この希望があるからこそ、現在の苦難や罪の現実の中でも、赦しと回復を信じて前進することができるのです。

 

希望のない時代にこそ、この希望は一層輝きを増します。それは単なる楽観主義ではなく、十字架と復活という歴史的現実に根ざした確かな希望なのです。この希望を持って、私たちは最後まで信仰の道を歩み続けることができるのです。

 

  

夜明けを走り出す

 


冷たさが肌を刺す冬の朝、目覚めたばかりの世界の中で私は足を踏み出す。まだ暗い空、その冷たささえも私を拒むかのような風の音。だが、この冷たさもほんの序章に過ぎないことを知っている。ペースを刻む足音が少しずつ身体を温め、心を目覚めさせていく。それは、眠りから覚める世界と共鳴する旅路だ。

 


最初の2キロ、3キロ。寒さのカーテンがじわじわと引かれ、辺りに新しい温度が広がる頃、私の呼吸は規則正しくなり、視界に変化が訪れる。東の空がほんのわずかに赤みを帯びはじめ、静かに、しかし確実に命が芽吹こうとしている。それは、夜と昼の交差点。死と生が繋がる微妙な境界線だ。

 


そして、ついにその瞬間が訪れる。画像にも映し出された光景、地平線の向こうから顔を出す太陽。その輝きが、ずっと広がる黒い闇を溶かしていく。凍える大地もまた、この光に包まれ、新たな命の息吹を受け取っているようだ。陽が差し込む道路、家並み、草むら。全てが暖かさと明るさを取り戻す。

 


走る私の身体もまた、太陽と共に目覚めを迎える。それまでの疲れが嘘のように消え、心が軽くなる。朝日を見上げ、澄み渡る空気を吸い込むと今日が始まるのだと強く感じる。あの厳しい寒さや暗闇を越えて、前へ進んできたことの喜びと充実感が全身を包む。

 


写真に収められた河川敷の道は、私の人生そのものかもしれない。時には寒さに襲われ、時には暗闇に包まれる。それでも一歩一歩前進すれば、必ず光にたどり着く。その光は、苦しみや挑戦を乗り越えた者だけが得られる特別な報酬だ。

 


こうして今日も一日が始まる。毎朝のランニングは単なる運動ではなく、自分自身と向き合う大切な時間。静寂と太陽のエネルギーが心を満たし、この地球で生きる喜びを味わわせてくれる。私たちもまた、この朝日のように誰かの世界を照らす光でありたいと願いつつ。

聖なる区別

 


"Sacred Boundaries - Worship and Remembrance in Reformed Tradition"

『聖なる区別 - 改革派伝統における礼拝と追悼の本質』

 

「これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。」

(ルカ22:19)/だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、(マタイ28:19

ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。私もただの人間です。」(使徒10:26

 

改革派長老教会の信仰は、五つのソラ(のみ)という根本原則に基づいています。信仰のみ、恵みのみ、聖書のみ、キリストのみ、そして神の栄光のみ―これらの原則は、純粋な信仰の実践における指針となっています。この伝統において、主イエスが直接制定された洗礼と聖餐のみを聖礼典として守ることには、深い神学的な意味があります。

 

この文脈で、葬儀に関する実践を考えることは重要です。キリスト教の葬儀の本質は礼拝にあり、その目的は三重です:神を礼拝すること、故人の魂を神の御手に委ねること、そして遺族を慰めることです。しかし、時として記念会という名の下で行われる追加の式典は、この本質的な目的から逸れる危険性をはらんでいます。

 

特に懸念されるのは、記念会が礼拝の形式を取りながら、実質的に故人崇拝に近い性質を帯びてしまう可能性です。これは、カトリック教会の聖人崇拝に対する改革派の批判と同様の theological な問題を提起します。使徒ペトロの「お立ちください。私もただの人間です」という言葉は、この文脈で深い示唆を与えます。

 

家族葬を選択した遺族の意思は、十分に尊重されるべきです。その後に教会で記念会を開催することは、時として遺族に不要な負担を強いることになりかねません。より成熟した教会共同体として、遺族の意思に寄り添い、不必要な自己主張を避けることが求められます。

 

重要な点は、主の日の礼拝において、私たちはすでに天にある兄弟姉妹たちと共に神を礼拝しているという認識です。これは特別な記念会をはるかに超える霊的な意味を持っています。毎週の礼拝こそが、永遠の命における交わりの最も適切な表現なのです。

 

このような理解に立つとき、教会における葬儀の実践は、より明確な方向性を持つことができます。それは神の栄光のみを求め、遺族の必要に適切に応答する、バランスの取れたものとなるのです。

 

 

2025年1月26日日曜日

羊飼いの杖



"The Shepherd's Staff - From Simple Wood to Divine Power"

『羊飼いの杖 - 普通の木から神の力へ』

 

私は、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア1:9)

 

神がモーセに「手に持っているものは何か」と問いかけた場面は、平凡な道具が神の力によって変容する可能性を示す象徴的な瞬間です。モーセの手にあったのは、中東の羊飼いたちが日常的に使用する

1メートルにも満たない普通の杖でした。映画で描かれるような豪華な杖ではなく、ごく普通の乾いた木の棒に過ぎませんでした。

 

しかし、この平凡な杖は、生命の源である神の手に委ねられることで、驚くべき力の道具へと変えられました。紅海を分け、岩から水を湧き出させるという奇跡を通じて、それはもはやモーセの杖ではなく、神の杖として機能するようになったのです。

 

この変容は、神の約束「わたしは必ずあなたと共にいる」の具体的な証しとなりました。荒野での困難な旅路において、この杖は神の臨在の可視的なしるしとなり、モーセに確信と励ましを与え続けたのです。

 

しかし、カナンへの道のりは決して平坦ではありませんでした。モーセは反抗的な民との葛藤の中で、幾度となく試練に直面します。それでも神は「わたしは必ずあなたと共にいる」という約束を守り続けられました。

 

この物語が私たちに教えることは、神が選ばれた民を決して見捨てないという真理です。私たちが神から離れることはあっても、神は決して私たちを裏切ることはありません。私たちが苦難の中で不安になるのは、この真理を十分に信頼していないからです。

 

詩編の詩人が歌うように、「わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」という確信は、私たちの信仰の核心です。無から有を創造し、死者を甦らせる神を信頼することは、最も確かな希望の土台となります。

 

この神を「アバ、父よ」と呼べることは、私たちの特権です。聖霊は、この世の旅路の終わりまで、そして天の御国へと私たちを導く保証者です。私たちに求められているのは、日々の歩みの中で、絶えず聖霊の助けと導きを求め続けることなのです。

  

2025年1月24日金曜日

今日も無事に終わり感謝

 


無事に葬儀を終えることができました。感謝いたします。

 

今回も、故人の人柄を偲ぶような温かい葬儀でした。初めて訪れた名取斎場は、しんとした静寂に包まれた、少し寂しい雰囲気の場所でした。外壁工事の最中だったことも、その印象を強めたかもしれません。仙台の斎場とはだいぶ趣が違っていました。

 


ただ、名取市斎場では私たちだけの利用だったため、ご遺族の皆さんと落ち着いてお話しすることができました。これは本当にありがたかったです。食堂はありませんでしたが、皆さんに持ってきていただいたサンドイッチなどを囲みながら、ゆっくりと語り合うことができました。普段はなかなか集まる機会のない兄弟や親族同士が、こうして顔を合わせ、言葉を交わすことができたのは、故人のおかげかもしれません。ご遺族の方も、「こんな機会でもなければ、兄弟家族が揃うことはほとんどない」とおっしゃっていました。

 

今回、ご遺族が家族葬を選ばれた理由の一つには、こうした親族同士の繋がりを大切にしたいという思いもあったそうです。確かに、参列者が多いと、どうしても個々の家族や親戚同士でゆっくり話す時間は限られてしまいます。その点、家族葬は、故人を偲びながら、家族の絆を改めて確認する貴重な時間となるのかもしれませんね。大切なのは今回の葬儀を通して改めて主なる神様に対する信仰を考えさせられたとのことです。こうした信仰を持ち、共に讃美歌を歌い、最後の別れをすることはとてもよかったと言われました。

 

ご遺族の皆さんは葬儀社のマイクロバスで移動されたので、名取斎場では私が最後のお見送りをして、自分の車で帰路につきました。さすがに空腹を感じ、4号線沿いには飲食店がたくさんありましたが、結局家で食べることにしました。帰宅後、一人、少し遅めのランチと夕食を兼ねた食事をとりました。それから洗濯物を取り込み、夕食用の鶏肉料理を二人分作って、一日を終えました。今回も味見はせずに、想像で味付けしましたが、きっと美味しく出来ているでしょう。いつも「美味しい」と褒めてもらえますから。

 

少し疲れましたが、無事に全てを終えることができて、感謝の気持ちでいっぱいです。

 

天に上った狐

 




朝ラン21キロ完走。

夜明け前の静寂を切り裂くように、アスファルトを叩く足音が響いた。吐く息は白く、辺りはまだ薄暗く、街の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。いつもの朝のランニングコース。今日は少しだけ違う景色を求めて、いつもより遠くまで足を伸ばしてみた。

 


道路脇の草むらに、何かが動いた。目を凝らすと、それは狐だった。赤褐色の毛並み、ピンと立った耳、そしてこちらをじっと見つめる、知的な瞳。街の喧騒から逃れたように、静かに佇むその姿は、まるで神話の生き物かのように神秘的だった。

 


息を呑み、スマートフォンを取り出した。この美しい瞬間を記録に残したい。シャッターボタンを押した瞬間、信じられないことが起こった。閃光が走り、狐の姿が光に包まれた。そして、その光は、まるで夜空に描かれた一筆書きのように、流れるような軌跡を描きながら天高く昇っていき、やがて星々の間に溶けるように消えていった。

 


残されたのは、狐が立っていた場所の静寂と、胸に広がる不思議な温かさ。まるで、自然からの贈り物を受け取ったような、そんな感覚だった。その日から、私の朝のランニングは、特別な意味を持つようになった。それは、日常の中に潜む奇跡を、そして自然の神秘に触れた瞬間を、思い出させてくれる時間となったのだ。

真の幸福

 


"Beyond Material Success - The Parable of True Wealth"

『富の真意を問う - 物質的成功を超えた豊かさ』

 

こう自分に言ってやるのだ。さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめと。しかし神は、愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか、と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。(ルカ12:19-21

 

今日の経済優先社会において、成功の指標として富の蓄積が重視される中、イエスの語った金持ちのたとえ話は鋭い問いを投げかけています。この金持ちは、当時のイスラエルという農業に適さない環境の中で、卓越した経営能力を発揮し、成功を収めた人物でした。

 

彼の成功は三つの優れた知恵に基づいていました。経営の知恵による豊作、管理の知恵による財産の保全、そして消費と享楽の知恵による人生の享受です。世俗的な観点からすれば、これらは賞賛に値する成功の要素と言えるでしょう。

 

しかし、主はなぜこの「成功者」を「愚かな者」と呼ばれたのでしょうか。その理由は、彼の人生における二つの決定的な欠落にありました。第一に、全ての恵みの源である神への感謝の欠如です。イスラエルの厳しい自然環境下での農業の成功は、適切な雨という神の恩寵なしには考えられません。しかし、彼はこの根本的な事実を認識していませんでした。

 

第二の欠落は、隣人への視点の欠如です。当時の社会には多くの貧困者が存在していたにもかかわらず、彼の視野には入っていませんでした。豊かな財産を持ちながら、それを分かち合う意識を持たなかったのです。

 

この金持ちの根本的な問題は、魂の本質的な価値を見失っていたことにあります。お金は生活の必需品ですが、神から離れると、それは手段から目的へと変質し、偶像となります。彼は富が人生の全てを保障すると考え、それを偶像としたのです。

 

この姿勢は、現代社会にも深く浸透している価値観と重なります。物質的な富を全ての価値基準とする考え方は、利己主義、過度な競争、人間関係の破壊、快楽主義、そして究極的には神との関係の喪失をもたらします。

 

彼は一時的な快楽と真の幸福を取り違えました。この二つは似て非なるものです。快楽は一時的な満足をもたらすかもしれませんが、真の幸福は神との関係の中にこそ存在するのです。命の与え主である神を忘れることが、最大の不幸の原因となったのです。この物語は、現代を生きる私たちに、真の豊かさとは何かを問いかけています。最も大切な命を与えられた存在として、私たちは神を覚え、その恵みに感謝しつつ生きることが求められているのです。

2025年1月23日木曜日

 


冬の明け方、23キロのランニングに身を委ねる。暗闇を進むうちに、世界が少しずつ目を覚ましていく。冷たい空気が頬を撫で、肺の中まで澄んだ空気で満たされていく。

 


夜の帳が薄れゆく中、生き物たちが静かに活動を始める。枝々のざわめきに、小鳥たちの目覚めの歌声が重なる。雲間から差し込む朝日が、新しい一日の幕開けを告げている。

 


川面には薄霧が漂い、まるで夢と現実の境目のような幻想的な風景を作り出す。遠くには雪を頂いた山々が、永遠の時を刻むように凛として佇んでいる。その足元では、白鳥たちが優雅に羽を広げ、朝の挨拶を交わしている。

 


街が目覚めるにつれ、人々の営みが始まる。通勤の車が行き交い、制服姿の学生たちが自転車をこぐ姿が目に入る。それぞれが、それぞれの場所へと向かう。皆が懸命に、今日という日を生きようとしている。

 


走りながら、明日の葬儀のことを想う。今月二度目の永遠の別れ。命には限りがあるけれど、その一瞬一瞬が愛おしい。だからこそ、最後の別れの時まで、祈りと希望の言葉を紡ぎ続けたい。

 


夜明けの空気の中を走りながら、生と死が織りなす壮大な営みに想いを馳せる。新しい命が芽吹き、ある命が終わりを迎える。そんな永遠の循環の中で、私たちは今を生きている。

 


朝もやの向こうから差し込む光が、希望の象徴のように輝いている。今日も、命の尊さを胸に刻みながら、与えられた使命を全うしていこう。

 

生きとし生けるものへの祈りを胸に、新しい一日が始まる。

信頼して生きる

 


中国で宣教師として働いていたイギリスのハドソン・テーラーは、中国内陸での宣教活動中に多くの仕事に圧倒され、誰か助けてくれる人を求めていました。しかし、しばらくの間は一人でその重荷を担わなければなりませんでした。肉体的な疲労と精神的なストレスが重なり、神経症になるほどでした。「なぜ自分一人でこの多くの働きをやらなければならないのか」とつぶやく日々が続きました。

 

そんな中、ある日、彼は御言葉を黙想していると、重要な真理に気づきました。彼が黙想していたのは、ヨハネによる福音書155節の言葉です。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」彼はその場で膝をつき、自分の信仰の弱さや不平不満に満ちた態度を悔い改めました。

 

枝は木の根から供給される水分と栄養を受けるだけで十分なのに、彼はこれまで自ら悩み、つぶやいていたことを心から懺悔しました。人生の中でのあらゆる苦しみや悩み、将来への不安をすべて神様に委ねる信仰が求められています。神様は私たちが100%委ねるときに働いてくださいますが、自分の力で行おうとしたり、自分の経験や知識で問題を解決しようとすると、神様からの助けはなかなか得られません。神様は、私たちがすべてを委ねるのを待っておられるのです。

 

神様は、様々な問題や悩み、苦しみを父である御自分に話し、委ねる子どもを喜ばれます。私たちの父である神様は、独り子イエス・キリストを私たちのために惜しまず十字架に引き渡し、永遠の命を与えてくださった方です。使徒パウロも言っています。ローマの信徒への手紙832節には、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」とあります。

 

神様は私たちのために良いものを与えてくださる方ですが、それを得るためには100%神様を信頼し、その御言葉に従って生きる必要があります。赤ちゃんが完全に母親に自分を委ねるように、私たちも神様に完全に委ねる人生を生きるべきです。赤ちゃんが母親に自分を委ねる理由は、生きるためにそれしか方法がないからです。完全に委ねるとき、母親は必要なものを与え、元気に育ててくれます。私たち信仰者も同様に、父である神様にすべてを委ねて生きるとき、真の平和と喜びを得ることができます。神様に全てを委ねる人生を歩んでいきましょう。疑わずに完全に信頼し、本気で神様に全てを委ねて、残りの人生を賭けてみましょう!

2025年1月22日水曜日

聖なる時を生きる

 




"Sacred Moments - Reflections on Ministry Through Translation and Loss"

『聖なる時を生きる - 通訳奉仕と葬儀における牧会の思索』

 

牧会者の日々は、予期せぬ出来事と計画された責務が交錯する中で展開していきます。バッハの音楽理論に関する学術的な講演の通訳準備と、突然の葬儀執行という二つの重要な務めが重なった二週間の経験は、教会における奉仕の多面性を鮮やかに映し出しています。

 

「レトリックとJ.S.バッハのトッカータニ短調BWV565における音型理論」という専門性の高い講演の翻訳作業は、大泉姉妹の助力を得ながらも、一週間以上の集中的な取り組みを必要としました。その最中に訪れたMさんの召天は、牧会者としての柔軟な対応を求める出来事でした。しかし、これらの務めは決して単なる仕事の重なりではなく、むしろ教会共同体の豊かさを示す機会となりました。

 

特筆すべきは、佐藤長老による葬儀プログラムの担当という新しい展開です。これは単に業務負担の軽減以上の意味を持ちます。長老たちによる牧会支援は、教会の成熟と協働の証しとなったのです。

 

Mさんの信仰の歩みは、神の導きの不思議さを示しています。配偶者の勧めによって始まった教会との関わりは、最後には家族全員での教会訪問へと導かれ、キリスト教葬儀という形で結実しました。特に、入院中に命の御言葉を伝える役割を担われたことは、深い意味を持っています。

 

キリスト教葬儀の本質は礼拝にあります。これは故人を祭るためではなく、神を礼拝し、遺族を慰め、故人の霊を神に委ねる聖なる機会です。礼拝後の交わりの時は、遺族の心の癒しに寄与する重要な要素となりますが、それは状況に応じて柔軟に対応されるべきものです。

 


この経験は、教会における様々な奉仕が、互いに支え合いながら神の栄光を現す機会となることを教えています。そして何より、遺族に寄り添い、彼らの必要に応える柔軟さを持ちながら、信仰の本質を保持することの重要性を示唆しているのです。

 

静寂の朝、始まりの光

今日は24キロ完走。


 

太陽が昇る瞬間ほど、心に染みわたる光景は他にないかもしれません。この写真に映る朝焼けの景色は、自然が描いた一枚の油絵のようです。凍てつく空気の中、澄み渡る空に浮かぶオレンジ色の光。それはまるで眠れる世界に命を吹き込む一筆のように、ゆっくりと水面を染めていきます。

 


日の出を見つめていると、不思議と胸の奥が静かになります。光が広がるたびに「今日も新しい一日が始まる」というエネルギーが、大地全体にじわじわと浸透している気がします。それまで静寂に包まれていたこの場所も、太陽の温もりとともに少しずつ目覚めていくようです。

 


川辺に佇む小さな船たちは、昨夜の眠りから目を覚まし、その瞳に朝日を映しています。穏やかな水面には木々の影がさざ波のように揺れ、光と影が交わる場所には、私たちが辿り着きたい「平和」の姿が映し出されているかのようです。

 


乾いた木の枝越しに見える太陽は、冬の寒い朝であってもじんわりと心を温めてくれます。この時期、木々は葉を落とし、裸の姿で風雪に耐えていますが、その姿にも不思議な美しさがあります。一見すると寂しげなその姿は、実は新しい芽吹きの準備をしているのです。命の循環は目に見える形だけでなく、その奥深くでしっかりと続いている——そんな不思議な力を感じさせてくれるのが、この一枚に写る風景です。

 


日の出の瞬間は、人生における「始まり」を象徴しているようにも感じます。昨日までの出来事や苦労も、この光の中でゆっくりと溶けていきそうです。新しい日が与えてくれるのは、また新しく挑戦するためのチャンス。どんな些細なことでも、この朝のように黄金色に輝かせることができるはずです。

 


草むらや土手の上には霜が降り、ひんやりとしているけれど、陽の光が触れるたびにその白い衣もゆっくりと解けていくでしょう。まるで、私たちの心にある冷たさや疲れが、希望の光で少しずつ温められていくように感じます。今日という日が、昨日以上の温かさをきっと運んできてくれる——そんな根拠のない信じる気持ちが、この写真から湧いてくるのです。

 


朝の静かな光景は、私たちに何かを「する」前にただ「ある」という大切さを教えてくれます。動き出す前の静けさ。その中で少しだけ深呼吸して、新しい自分を迎えてみる。一日が始まるとき、太陽が教えてくれる「静寂の力」こそが、これから先の一歩を優しく後押ししてくれるのではないでしょうか。

 


この写真を見て、私は改めて思いました。美しい景色というのは、そこに命があり、時間が流れ、その場所が「生きている」と感じさせてくれるものです。そして、それを真っ直ぐに見つめる心こそが、本当の豊かさを私たちに運んでくれるのかもしれません。

 


静かな朝の光、川のさざ波、そして新しい一日の始まり。それらが私たちにそっと語りかけています——「今日」というプレゼントを、大切に受け取って、優しく開いていきなさい、と。 

新しい命、新しい道、新しい人生

  今朝は 32 キロのランニングを完走しました。普通ならその距離を走り切るだけでも自分を褒めたいところですが、今回は少し特別な気持ちでこの道を駆け抜けました。初めて挑戦したコースは、若林区の太平洋を目指すランニングルート。以前走った名取の太平洋とはまた違う表情の海と風景に心を動...