2025年1月17日金曜日

一緒に走る仲間

 


白く染まった道が、どこまでも続いている。冷たい空気が頬を刺すけれど、空は澄み渡り、遠くの橋が朝陽を浴びて輝いている。僕は今日も走る。この道を、そして自分自身の人生を。

 


僕にはいつも一緒に走る仲間がいる。それは僕の影だ。時には右側で、時には前を走り、まるで「頑張れ」と励ましてくれるように寄り添ってくれる。影は僕の分身のような存在だ。たとえ姿が見えなくても、そこにいることを僕は知っている。決して一人ではない。影がいる限り、僕は走り続けることができる。

 


今日のランニングは26キロ完走。少し疲れを感じるが心は満たされている。影とともに走るこの時間は、ただの運動ではない。自分と向き合い、そして自分を超えていくための旅だ。影は僕に教えてくれる。「君は一人じゃない」と。そして、「君はもっと強く(?)なれる」と。

 


昨夜、ノアちゃんと散歩をした。ノアちゃんは片方の目が見えなくなっているようだ。それでも彼は歩く。迷うことなく、まっすぐに。犬の本能の力だろうか。彼の姿を見ていると、僕は思う。どんな状況でも、前に進む力を持っているのは、僕たち人間も同じだと。ノアちゃんが教えてくれる。「大丈夫だよ」と。僕がしっかりしていれば、彼もまた安心して生きていけるのだ。

 


今日という日は、昨日とは違う。すべてが新しい。道も、空も、そして出会う人々も。僕たちは毎日、新しい命を与えられている。昨日の自分ではなく、今日の自分として生きることができる。それはとても尊いことだ。だからこそ、僕は今日も走る。影とともに、ノアちゃんとともに、そして新しい自分とともに。

 


この雪道を走りながら、僕は思う。人生もまた、こんな風に続いていくのだと。時には滑りやすく、時には冷たく、でもその先には必ず光がある。影が僕を支えてくれるように、僕もまた誰かの影になれるだろうか。誰かの背中を押し、「頑張れ」と声をかけられる存在になれるだろうか。

 


今日も生きる。それぞれの居場所で、それぞれの命を抱えて。僕たちは一人ではない。影が教えてくれる。ノアちゃんが教えてくれる。白鳥たちも教えてくれる。そして、この新しい一日が教えてくれる。

 


白い道の先に広がる未来を信じて、僕はまた走り出す。影とともに、今日という新しい命を抱きしめながら。主に感謝して。

 

身代金0円

 


"The Priceless Gospel - Missionaries and the True Value of Faith"

『計り知れない福音の価値 - 宣教師たちが示す信仰の真価』

 

銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。(創世記37:28)/ 「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。(マタイ26:15)

 

世界の危険地域で活動する救援要員や宣教師たちの身代金が「0円」という事実は、深い象徴的な意味を持っています。この一見矛盾する状況命を危険にさらしながら、その命に世俗的な価値を置かないという姿勢は、キリストの福音の本質を鮮やかに表しています。

 

主イエスの大宣教命令「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」は、

今日も世界中の宣教師たちを動かし続けています。彼らは見知らぬ土地で、言葉も文化も異なる人々に福音を伝えるという困難な使命に身を投じています。その働きの成果は、言葉による説得ではなく、日々の献身的な愛の実践を通して実を結びます。

 

多くの宣教地で、人々の心が開かれるのは、宣教師たちの語る言葉よりも、その生き方を通して示されるキリストの愛を目撃した時です。この過程には、計り知れない祈りと忍耐が必要とされます。時には命を捧げる覚悟さえ求められ、実際に多くの殉教者を生んできました。

 

しかし、歴史は彼らの犠牲が決して無駄ではなかったことを証明しています。日本を含む世界各地で流された殉教者の血は、福音の種となって、後の世代に実を結んでいます。この世では「価値なし」と見なされる彼らの働きは、神の国においては最も尊い奉仕として認められ、「命の冠」が約束されているのです。

 

詩編の言葉「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる」は、この働きの本質を美しく表現しています。福音の種を蒔くことは、確かに涙と苦労を伴います。しかし、それは永遠の価値を持つ働きであり、必ず喜びの収穫へとつながるのです。

 

真のキリスト者の姿勢は、自分の救いに満足することではありません。他者の救いのために自らを捧げ、福音を伝え続けることこそが、キリストの弟子としての本質的な使命なのです。今日も世界中で続けられている命がけの宣教の業は、この永遠の真理を力強く証ししているのです。

 

2025年1月16日木曜日

気にしない

 


気にしない。

嫌なことを言われたけど、気にしない。

あなたの価値は、誰かの言葉で決まるものじゃないから。

 

仕事がうまく行かなかったけど、気にしない。

失敗は次への学びのチャンス、それだけのこと。

 

ちょっと勉強のことで失敗したけど、気にしない。

一歩一歩の積み重ねが、いつか大きな力になるから。

 

物を間違って買っちゃったけど、気にしない。

完璧な人なんていない、それが人間らしさ。

 

プレゼンテーションに失敗したけど、気にしない。

挑戦する勇気があなたにはある、それだけで誇らしい。

 

発表会でミスをしたけど、気にしない。

次は必ずうまくいく、その経験が財産になる。

 

それで地球が滅びることはないから、気にしない。

小さな失敗は、人生という大きな物語の中の、ほんの一ページ。

 

今日は終わるからだ。

そう、今日の涙は明日の虹になる。

 

明日は、また明日の太陽が昇る。

そして、あなたの中の光も、また輝きを取り戻す。

 

生きよう!!!

あなたには無限の可能性がある。

一歩ずつでいい、

自分のペースで、

自分の道を、

ゆっくりと歩いていこう。

 

だって、あなたは一人じゃない。

同じように頑張っている人がたくさんいる。

同じように悩んでいる人がたくさんいる。

だから、肩の力を抜いて、

深呼吸して、

また前を向こう。

 

あなたの人生は、まだまだ始まったばかり。

今日の終わりは、新しい始まりの予告編。

 

さあ、明日も一緒に、

笑顔で生きていこう!!!

 


希望の日の出

  この温かな朝日のように、新しい一日はいつも、新たな希望とともに始まります。どんな時も、あなたには前に進む力があることを忘れないでください。

今日も頑張って生きました。

 


今日はノアちゃんを病院に連れて行きました。耳の出血が心配でしたが、ひとまず薬と家族の介護で様子を見ることになりました。それでも、歩き方も食欲も、そして表情も少しずつ良くなってきていて、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。出血している耳をタオルで巻いてあげたら、まるで負傷兵のような姿になってしまいましたが、ノアちゃんはじっと辛抱してくれています。その頑張る姿に、私たちも励まされる思いです。しばらくは一緒に辛抱の日々を過ごそうと思います。

 


夕食にはチキン料理を作りました。実習で頑張っている娘が「美味しいものを作って!」とリクエストしてくれたので、少し気合を入れてみました。家族が美味しそうに食べてくれる姿を見ると、それだけで心が満たされます。(普通こういう言葉は母親の言葉だと思いますが、いつの間にか我が家はこういう状況に・・・・でも感謝。)こうして何気ない日常を過ごせることに、改めて感謝の思いが湧いてきます。

 

特別なことは何もいりません。ただ、与えられた一日を愛する家族や大切な人たちと笑顔で過ごせること。それが何よりの幸せだと感じます。そして、何よりもイエス・キリストによる救いが与えられていること。この恵みを思うと、これ以上に求めるものはないはずなのに、自分も含めて人間というのは知らず知らずのうちに欲が出てしまうものです。その欲をどうコントロールするか。それが私たちにとって大きな課題であり、日々の心の訓練が必要だと感じます。

 

こうして、ノアちゃんと過ごした今日も終わろうとしています。耳の痛みを抱えながらも健気に頑張るノアちゃんの姿に、家族も励まされ、学ぶことがたくさんありました。平凡な一日かもしれませんが、感謝に満ちた一日でした。明日もまた、与えられた命を大切に、笑顔で過ごしていきたいと思います。

神様の計画を知って生きる

 


ノアちゃんは元気を取り戻し、再び活発に過ごせるようになりました。今日は久しぶりに普通に散歩に出かけることができました。この4日間、何があったのかは分かりませんが、こうして元気になってくれたことに感謝です。耳血腫の治療のため、今日は久々に動物病院にも行きます。

 

一方、昨日から病院での実習が始まった娘は、帰宅するなり「学校の方が楽だわ!」と叫んでいました。

 

学生時代は、勉強やテスト、さまざまな課題に追われて大変だと感じるものですが、いざ学校を卒業して社会に出ると、厳しい競争の中で生き抜くことの難しさを実感するようになります。そして、時が経つにつれ、新たな課題が次々と目の前に現れます。子どもの結婚や巣立ちを支えたり、退職後には健康を維持しながら充実した老後をどう過ごすかを考えたりするようになります。その後はお墓のことや最期の迎え方についても思いを巡らせるようになるでしょう。

 

このように、人生には次々と扉が現れ、それを一つひとつ開いて進んでいかなければなりません。それが人生というものです。こうした一連のことを考えると、時に人生が虚しく感じられることもあるかもしれません。しかし、人生は決して虚しいものではありません。なぜなら、天地を創造された神様が、私たち一人ひとりに素晴らしい計画を用意してくださっているからです。

 

人が迷い、虚しさを感じるのは、創造主である神様の計画を知らずに生きているからです。もし神様が私たちに用意してくださった素晴らしい計画を知ることができれば、人生がどれほど楽しく、生き甲斐に満ちたものかを実感できるでしょう。だからこそ、神様が与えてくださった「今日」という命を大切にし、楽しみながら過ごすことが大切です。

 

そのためには、神様の計画を知るための人生のマニュアルである聖書の言葉をよく読み、心に刻むことが重要です。今日も感謝の気持ちを忘れず、笑顔で、愛し合い、許し合いながら、精一杯生きていきましょう。

待ち望む

 


"The Red Cord of Promise - Rahab's Faith and Our Waiting"

『約束の赤い紐 - ラハブの信仰と私たちの待望』

 

主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る。(哀歌3:24-26) 

 

エリコの城壁に結ばれた一本の赤い紐は、信仰と希望の象徴として今日も私たちに語りかけています。異邦人の女性ラハブは、周囲の人々が恐れと不安に支配されている中で、驚くべき信仰の告白をしました。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられる」という彼女の言葉は、真実の神への確信に満ちていました。

 

イスラエルの偵察者たちとの約束は、単なる命の保証以上のものでした。窓辺に結ばれた赤い紐は、救いを待ち望む希望のしるしとなりました。しかし、その待機の期間は決して容易なものではなかったはずです。日々色あせていく紐を見つめながら、約束の確かさを疑う思いと、信じ続けようとする決意との間で揺れ動いたことでしょう。

 

特に困難だったのは、イスラエル軍が7日間もの間、城の周りを行進するだけで実際の攻撃を開始しなかった時期だったはずです。自分の選択が正しかったのか、民族への裏切りは許されることなのか、深い葛藤があったに違いありません。しかし、色褪せた赤い紐は、なお神の約束を思い起こさせる確かなしるしとして、彼女の信仰を支え続けました。

 

最後まで信仰を保ち続けたラハブの報いは、想像をはるかに超えるものでした。彼女は単に命を救われただけでなく、メシアの系図に連なる栄誉ある存在となったのです。これは、神の計画の驚くべき深さを示しています。異邦人である彼女がこのような栄誉に与ったのは、約束を信じて最後まで待ち続けた信仰のゆえでした。

 

この物語は、現代を生きる私たちにも深い示唆を与えます。キリストの再臨と最後の審判を待ち望む私たちにとって、ラハブの信仰は模範となります。私たちの待望は、裁きへの恐れではなく、義への希望に基づくものです。それは、神の約束を信じて最後まで忠実に生きることへの招きなのです。

 

時には疑いや不安が私たちを襲うかもしれません。しかし、ラハブの赤い紐のように、私たちには信仰を支える確かなしるしが与えられています。それは、十字架という永遠の約束のしるしです。この約束に信頼して、私たちも最後まで忠実に待ち望む群れとなることが求められているのです。

 

2025年1月15日水曜日

神の計画を知って生きる

 


"Through Light and Darkness - God's Purpose in Life's Seasons"

『昼と夜を通して - 人生の季節における神の目的』

 炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。(申命記8:15-16)

 

昼と夜を創造された神は、私たちの人生にも明暗両面の季節を与えられました。人生には、純粋な幸福という永遠の昼も、絶え間ない苦難という永続的な夜も存在しません。この両方の経験が人生という織物を紡ぎ出すのです。しかし、人間の性質として、私たちは往々にして自分の人生を「永遠の夜」として捉えがちです。それは、私たちが持っているものよりも欠けているものに、喜びよりも苦しみに目を向けやすい傾向があるためです。

 

聖書に登場する信仰者たちの生涯を見ると、彼らもまた様々な苦難を経験しています。しかし、私たちと彼らとの決定的な違いは、その苦難に明確な目的が存在したことです。使徒ヤコブは、この真理について次のように述べています。「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じ...完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」

 

このように、神が私たちの人生における様々な苦難を許されるのは、究極的には私たちの益となるためです。それは私たちを真の幸福へと導き、救いの道から逸れることなく、本物の信仰をもって人生を全うできるようにするためなのです。苦難そのものが目的なのではなく、より深い喜びと信仰を育むための手段として許されているのです。

 

ヨセフの物語は、この真理を見事に例証しています。彼の受けた苦難は、最終的にイスラエルの民の救済という大きな目的のために用いられました。同様に、私たちの経験する試練にも神の深い目的が込められているのです。イエスは「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と約束されました。

 

人生における最も本質的な問いは、救いに関するものです。永遠の命を持っているか、天の御国に導かれるのか―これらが最も重要な課題です。イエス・キリストの十字架の死と復活は、まさにこれらの問いに対する神の決定的な答えとなりました。

 

主は「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」と約束されています。この約束に信頼して、昼も夜も、喜びも試練も、すべてを神の計画の一部として受け止め、歩んでいくことが求められているのです。

 

 

戦い続ける

 


今日は朝5時前にランニングをスタートし、26キロを完走しました。

暗い道を走り続けたものの、路面は凍っておらず比較的走りやすかったです。

 


ロングランは体力だけではなく、精神力も非常に重要です。これはランニングに限らず、人間の営み全般において、より大切で欠かせない要素だと思います。この精神力を鍛えることはとても大事です。ただし、1回や2回で身につくものではありませんし、12ヶ月で完成するものでもありません。人によっては最低でも12年程度の時間と努力が必要になるかもしれません。それほど大きな挑戦です。

 


さらに、この精神力というのは一度身につければ終わり、というものではありません。定着したように感じても、完全に自動化されることはなく、絶えず鍛え続ける必要があります。それはなぜかというと、人間には「怠けたい」という本能的な気持ちが潜んでいるからです。人生とは、そうした自分自身の内なる弱さとの戦いでもあります。生きるというのは、実はそういう戦いの連続なのかもしれません。だからこそ疲れると感じることもありますが、同時に、その戦いを続けることで生き甲斐を感じているのだと思います。

 

さて、ノアちゃんですが、目がだんだん見えづらくなってきているようです。今は耳と鼻の感覚を頼りに過ごしている様子です。ただ、片方の耳に耳血腫ができており、どうやら違和感を感じているようです。明日は病院に連れて行く予定です。加齢による体の衰えは仕方のないことではありますが、少しでも不快感や痛みを軽減してあげたいと思っています。

 

今日は雨や雪が降る予報が出ていますが、それでも「生きる」ということを大事にした一日を過ごしたいものです。そして、娘は今日から実習が始まります。それぞれの持ち場で、与えられた使命のために力を尽くすこと。それが人生を悔いなく生きる秘訣だと思います。今日も一日、しっかりと生き抜きましょう。

2025年1月14日火曜日

自分の幸せ

 


今日は22キロを完走。学校がある日はこの時間帯に走っている人は少ない。白鳥が一日をどのように過ごしているのか詳しくは分からないけれど、ランニング中に観察したところ、だいたい午前7時前後にいくつかの家族が移動し、それぞれお気に入りの場所で過ごしているようだ。そして夕方になると広瀬橋付近に戻ってきて、そこで夜を明かす。そして朝になるとまた自分たちの居場所へ飛んでいく。このサイクルを繰り返している模様。3月になると白鳥たちは北の国へ旅立っていく

 


白鳥が急にいなくなると、少し寂しい気持ちになる。ただ、いつも見かける“広瀬ちゃん”(例の一羽)は一年中ここにいるおかげで、寂しくなりすぎることはない。白鳥は本当に癒し系の鳥だ。

 

ノアちゃん(※ペット?)が少し元気になったかどうかはわからないけれど、食欲があるのでまだ大丈夫そうだ。今は家の中で一緒に過ごしている。今朝は玄関先で娘の登校を見送っていたらしい。

 

今日は久しぶりに仙台へ行き、用事を済ませた後、買い物をしてきた。

ちなみに、今日の夕食メニューはもう決まっているので、あとは作るだけ。娘のために用意する食事ではあるけれど、感謝の思いでやれている。誰かのために何かをしてあげることって、実は自分自身への恵みでもあり感謝につながるものだ。結局それは自分の幸せにもなるんだな、と改めて思う。

 

こうして今日も、私とノアちゃんの一日が終わろうとしている。

ありがとう

 


誰にでも、これまで当たり前にできていたことが少しずつ難しくなってくる瞬間が訪れるものです。そんな時、人は時に憂鬱になり、立ち止まることもあるでしょう。その現実をすぐに受け入れるのは簡単ではありません。素直に受け入れる人もいれば、反発し、自分の中で葛藤を抱える人もいます。受け入れることが大事だと頭では分かっていても、そこに辿り着くには時間が必要です。

 

そんな過程を支えてくれる家族や大切な人の存在が、どれほど有難いことでしょう。愛と忍耐をもって見守ってくれる人がいることは本当に幸せなことです。しかし現実は理想通りにはいきません。互いの思いがぶつかり合い、対立やいらだち、批判や非難に発展することもあります。喧嘩をして、お互いに傷つき、苦しみ、悲しむことも避けられないかもしれません。

 

でも、覚えておきたいことがあります。それは、私たちの人間関係は「1足す12」ではないということです。完璧に理解し合うなんてことは、基本的に不可能なんです。だからこそ、「100%の理解は無理でも、60%くらいなら受け入れてみよう」と考えてみることが大切です。すべてを理解しようと身を削る必要はありません。ある程度のところで「まあ、これでいい」と折り合いをつける。それが自分にも、相手にも良い結果をもたらすことが多いのです。

 

今日はノアちゃん(老犬)が自分の力で階段を降りてきてくれました。小さなことかもしれませんが、私はその頑張りをしっかりとほめてあげました。階段を上るときも、自分で上っていきましたが、やはりその姿には元気がありません。だからこそ私は、ノアちゃんの前で祈りました。

 

「主なる神様。どうか明日のことを心配するのではなく、今日という一日を生きるための力をノアちゃんに与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。」

 

ノアちゃんの姿を見ていて気づくのは、私たちも同じなんだ、ということです。どんなに不安なことがあっても、とにかく「今日を生き抜く」ことが大切なんです。大切な人を失った後で後悔することがないように、今という時間を大事にしたいと思います。愛すること、励まし合うこと、親切にすること。何よりも笑顔を絶やさず、家族や周りの人を大切にして生きる。たったそれだけのことですが、それがどれほど人生を豊かにするか、計り知れません。

 

時には自分の思いが伝わらず、相手の行動に心を乱されることもあるでしょう。それでも、愛し続けることの重要性を忘れないでください。愛こそが、どんな困難をも包み込み、解決へと導く奇跡のような力を持っています。そして感謝の気持ちを忘れないこと。隣にいる相手に、心からこう言えると素晴らしいですね。

 

「一緒にいてくれて、本当にありがとう。」

 


今日もそういう一日になりますように。あなた自身を愛し、周りの人を愛しながら、希望と感謝の心で力強く進んでいきましょう!

愛は真の力です。

 




"Love in Action - The Transformative Power of Divine Love"

『動く愛の力 - 神の愛がもたらす変革』

 

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(ヨハネ一 4:9-10

 

キリスト教の神は、三位一体という独特の概念において、その本質を「愛」として啓示されます。父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊という三位格において、それぞれが完全な愛として現れる唯一の存在です。この神の愛は、単なる感情や理念を超えた、具体的で力強い実在として世界に働きかけます。

 

この愛の最も劇的な現れは、イエス・キリストの十字架という出来事でした。そこで示された犠牲的な愛は、単なる歴史的事実を超えて、人々の間で生きた現実として広がっていきました。一つの場所にとどまらず、世界中で具体的な愛の業として実を結び、個人から家族、共同体、さらには国家レベルにまで及ぶ変革をもたらしています。

 

この愛の力は、人間の常識を超えた奇跡的な和解を生み出します。自分の子どもを殺した加害者を新しい家族として受け入れる赦しや、教会での銃撃事件で家族を失った遺族が示した赦しの姿勢など、通常の人間的な反応を超えた対応を可能にします。

 

現代でも、信仰のために迫害や殉教の危険に直面している地域で、キリスト者たちが持つ唯一の「武器」は、このキリストの愛です。彼らはそれ以外の力を必要としないと確信しています。なぜなら、この愛こそが最も強力で、究極的な勝利をもたらす力だと知っているからです。

 

パウロが述べたように、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」という言葉は、今日も真実です。しかし、この愛は単なる理念や言葉として存在するのではなく、具体的な行動として現れなければなりません。

 

今日の社会や家族が直面している多くの問題の根底には、この動的な愛の欠如があります。教会が一致できない理由も、愛が単なる概念として固定化し、生きた行動として働いていないためです。愛は飾りではなく、絶え間ない行動です。この動く愛によってこそ、社会も、家族も、教会も真の変革を経験することができるのです。

 

私たちは常に意識的にこの愛を実践し、互いに愛し合いながら歩む必要があります。それは単なる理想ではなく、神の愛の具体的な現れとして、日々の生活の中で示されるべきものなのです。

2025年1月13日月曜日

満足する人生を

 


"The Path to True Contentment - Looking Beyond Earthly Desires"

『真の満足を求めて - 地上の欲から天上の価値へ』

 

金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。 神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。(ヘブライ人へ13:5

 

人間の不満足は、逆説的にも豊かさの中で最も顕著に現れます。99%の満足があっても、残りの1%の欠如に執着し、そこから生まれる不平が全体の喜びを覆い隠してしまうのです。この人間の本質的な傾向は、創世記におけるアダムとエバの物語に象徴的に描かれています。彼らは楽園のあらゆる恵みを与えられながら、唯一禁じられた木の実への欲望に屈し、その結果、人類全体に及ぶ深刻な影響をもたらしました。

 

荒野を旅したイスラエルの民も同様の過ちを繰り返しました。日々、神の奇跡的な導きを目の当たりにしながらも、彼らの心は常に欠けているものへの不満で満ちていました。これは現代を生きる私たちにも深く関わる問題です。私たちは与えられている数多くの恵みに感謝して生きているでしょうか、それとも手の届かない一つのものへの執着によって不平不満の人生を送っているでしょうか。

 

パウロはコロサイの信徒への手紙で、「上にあるものを求めなさい。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と勧めています。この言葉は、地上の物事への執着が、より本質的な価値からの目を遮ってしまうことを警告しています。地上のものから得られる満足は一時的であり、それは穴の開いたバケツに水を注ぐようなものです。

 

しかし、多くの人々は依然として地上の物事に満足を求め続けています。テレビやラジオなどの世俗的な娯楽に過度の時間を費やし、より本質的な価値を見失っています。真の満足は、神の国とイエス・キリストに目を向け、上にあるものを求めることから始まります。

 

そのためには、日々の祈りと御言葉による生活が不可欠です。これは単なる宗教的義務ではなく、私たちの視線を天上の価値へと向け直す実践なのです。与えられた恵みに感謝しつつ、永遠の価値に心を留めて生きる時、私たちは真の満足を見出すことができます。それは、この世の一時的な満足を超えた、永続的な喜びと平安をもたらすのです。

 

精一杯に生きるべし。

 


家族の中の誰かが少しでも元気のない姿を見せると、その雰囲気が家全体に影響することがあります。私たちの家でも、ノアちゃんが昨日から少し元気をなくしている様子です。散歩にも短い間しか行かず、食事はなんとかしているものの、以前のような活発な食べ方ではありません。ノアちゃんは11歳、犬としては高齢で、人間でいうと82歳になるそうです。

 


妻は必死にインターネットで症状について情報を調べ、どうやら原因は脳からの影響ではないかと考えています。それでも私たちは、今日を大切に過ごすという生き方を選びました。明日への不安を抱え込みすぎず、今日できることを精一杯やりながら前に進む。それが我が家の決意です。

 


さて、今日は22キロを走り切りました。冷たい空気の中でのランニングでしたが、朝日を浴びる瞬間の爽快感は何にも代えがたいものがあります。川辺では白鳥たちがそれぞれの「今」を懸命に生きていました。その姿に、私たちも負けずに頑張らなければと力をもらいます。

 


娘は水曜日から実習が始まります。妻も明日から新しい場所でのバイトがスタートします。そして私も、午後からは地区牧師会が予定されています。それぞれが、それぞれの場で新しい一歩を踏み出す日々です。

 


命には必ず終わりが訪れます。その時まで、できるだけ後悔の少ない人生を送るために、愛すること、親切であること、そして笑顔でいることを忘れないようにしたいと思います。人生は瞬間の積み重ね。この一瞬一瞬を輝かせることで、生きる意味と喜びが見えてきます。さあ、今日という一日に感謝しながら、みんなで力強く歩んでいきましょう!

2025年1月12日日曜日

新しい葡萄酒は新しい革袋に

 


"The Divine Now - Moving Beyond Sacred Places to Living Faith"

『今を生きる信仰 - 過去の聖地から真の神体験へ』

 

新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」(マタイ9:17

 

信仰生活における変化とは、過去との決別と新しい生き方の受容という、二つの側面を持つ重要な転換点です。多くの信仰者が陥る霊的なジレンマは、この二面性を正しく理解せず、古い自分を保持したまま新しい生き方を求めようとすることから生じます。主イエスが語られた「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という譬えは、まさにこの真理を表しています。

 

アモス書に記された神の言葉は、この問題の本質を鮮明に示しています。ベテル、ギルガル、ベエル・シェバ―これらの場所は、イスラエルの民にとって深い霊的意味を持つ聖地でした。ベテルはヤコブが天の梯子の幻を見た場所であり、ギルガルは約束の地への入り口として、ベエル・シェバはアブラハムとイサクの信仰の記念碑として、それぞれが特別な意味を持っていました。

 

しかし神は、これらの歴史的な聖地に助けを求めることを禁じられました。なぜなら、私たちが礼拝し、祈り、信頼すべき神は、過去の記憶の中にではなく、今この瞬間を生きる現在の神だからです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」という神の自己啓示は、神が過去の遺物ではなく、今を生きる現実の神であることを示しています。

 

今日の私たちの生活においても、この真理は重要な意味を持ちます。新しい時代に向かって歩むためには、過去の罪深い生き方を清算し、神の赦しによって新しくされた存在として生きることが求められます。汚れた古い衣を着たまま新しい時代を語ることは、まさに「裸の王様」のような滑稽さを持ちます。

 

これは単なる政治的な問題ではなく、信仰の本質に関わる深刻な課題です。聖霊を受けることなくキリスト者となった者たちは、依然として過去の感情や生き方に縛られ続けています。赦しも愛も実践できない状態は、まさに聖霊の不在を示すものです。

 

真の解決は、悔い改めて主に立ち返ることにあります。過去の栄光や記憶ではなく、今を生きる神との出会いを通じて、私たちは真に新しい存在として生まれ変わることができるのです。そこにこそ、真の信仰の転換点があるのです。

 

 

2025年1月11日土曜日

お疲れ様

 


今朝は白菜クリームシチューを作り、温かい食事で一日が静かに始まった。こうして、私の第二の朝がのどかに幕を開けたのだ。

 


昼頃には、三日ぶりのランニングを実施した。まだ凍った道も一部残っていたけれど、大部分は溶けて走りやすくなっていた。23キロを完走。ランニングの達成感を胸に帰宅し、その後は久しぶりに雪かきをすることにした。やはり日陰の部分は雪が溶けずに残っているし、凍ってしまった箇所を取り除くのに結構な時間とエネルギーを費やした。しかし、作業後の満足感は格別だ。「これでよし」と思える自分がいる。それだけで十分だ。

 


隣のマンションでは昨日から足場の組み立て作業が行われている。正直、騒々しい。しかし、彼らも寒空の下、一生懸命働いているのだと思うと、文句も言えない。イヤホンをつけて仕事に集中しながら、「楽にお金を稼ぐ方法などないよな」と少し悟った気分だ。世の中には泥棒のように簡単に手に入れようとする者もいるが、そんなものは一時的なものに過ぎない。それに、知恵を使わなければ犯罪ですら成立しない時代になってきている。だからこそ、弱い立場の人々を狙った犯罪には強い怒りを覚える。特に高齢者や弱者を騙す犯罪は決して許されるべきではない。聖書にも、孤児、寡婦、寄留者といった弱い立場の者たちを守れという教えがある。だからこそ、そういう人々への犯罪は重い罪として裁かれるべきだと思うのだ。

 


今日は本当に疲れたので、いつもより更に早く休むことにする。この身体にも「お疲れ様」と声をかけ、今日一日を生き抜いたことに感謝しよう。娘は来週から実習が始まるようだ。きっと緊張もあるだろうけど、私からもこう言いたい。「頑張れ、応援しているよ!」

 

どんな日々であれ、一歩一歩進んでいる自分を誇りに思ってください。誰もが孤独に感じるときや、心が揺れるときがありますが、あなたが心を込めて積み重ねてきた11日の努力は、確実に未来を照らします。「これでよし」と思える毎日を信じ、時には、ただ感謝とともに休むことも大切です。そして、この言葉を送りたい──「あなたは一人ではありません。勇気を持って、顔を上げてください。」

『正義の灯火は決して消えない』

 


闇が深ければ深いほど、小さな光は一層輝きを増します。

今、私たちの時代は、確かに暗い影に覆われているように見えるかもしれません。

しかし、歴史は私たちに教えてくれています。

人類が幾度となく直面した暗闇の中で、正義の灯火は決して消えることなく、むしろ人々の心の中で一層強く燃え続けてきたことを。

 

なぜなら、正義とは単なる理想ではありません。

それは、私たち一人一人の心の中に深く根付いている普遍的な真実なのです。

悪意や不義は、一時的に力を持つように見えても、永続的な基盤を持つことはできません。

 

なぜでしょうか?それは、悪意が常に分断と破壊を生み出すのに対し、正義は人々を結びつけ、より強い絆を作り出すからです。

 

善良な人々の小さな行動の積み重ねは、決して無駄にはなりません。むしろ、それは静かに、しかし確実に、より良い世界への土台を築いているのです。

 

時として、私たちは孤独を感じるかもしれません。自分の信じる正義が理解されず、善意が裏切られる経験をするかもしれません。しかし、覚えていてください。あなたは決して一人ではないことを。

 

世界中には、同じように正義を信じ、善を追求する無数の人々がいます。その一人一人の小さな灯火が、

やがて大きな光となって闇を照らすのです。

 

歴史上の偉大な変革は、常に「不可能だ」と言われることから始まりました。しかし、諦めなかった人々の信念が、不可能を可能に変えてきたのです。

 

正義は必ず勝ちます。なぜなら、それは人間の本質に根ざした最も自然な状態だからです。

善は必ず悪に打ち勝ちます。それは、善が創造と調和をもたらし、悪が最終的に自らを破壊するからです。

 

今、あなたの目の前にある困難は、永遠に続くものではありません。それは、より強く、より賢く、

より思いやりのある存在へとあなたを成長させるための試練なのです。

 

だから、希望を持ち続けてください。あなたの信じる正義のために声を上げ続けてください。善を行う勇気を失わないでください。

 

必ず夜明けは来ます。そして、その時、私たちは理解するでしょう。

この闇もまた、より明るい未来への必要な準備の時間だったのだと。

 

今日も、世界のどこかで、誰かが正義のために立ち上がっています。

誰かが善意の行動を起こしています。その連鎖は、決して途切れることはありません。

 

あなたの心の中の正義の灯火を誇りを持って掲げ続けてください。

それは、必ず誰かの道を照らし、より良い明日への希望となるのですから。

 

私たちは、より良い世界を必ず作り出すことができます。

なぜなら、それこそが人類の進むべき本来の道だからです。

 

決して諦めないでください。

希望を失わないでください。

正義は必ず勝つのです。

それは、天地を造られた主なる神様の摂理なのですから。

 

『心を楽にする生き方 ― 期待から解放される智恵』

 


私たちは時として、自分の物差しで他人を測ってしまいがちです。

「私にできるのだから、あの人にもできるはず」

「なぜ、こんな簡単なことができないのだろう」

そんな思いが、知らず知らずのうちに心の中に棲みついていきます。

でも、立ち止まって考えてみましょう。

一人一人が異なる人生を歩み、

異なる経験を重ね、

異なる価値観を持って生きているのです。

 

相手が物を片付けない理由、

手伝いを申し出ない理由、

自分本位に見える行動の背景には、

私たちには見えない物語があるのかもしれません。

 

すべてを理解することは難しい。

それは、無理もないことなのです。

だからこそ、欲張らないことです。

たった一つの変化、ほんの小さな進歩。

それだけで十分なのです。

 

完璧を求めることは、

自分も相手も苦しめることになります。

少しの前進、わずかな気づかい。

それらを喜べる心の余裕を持ちましょう。

 

他人と比べる習慣は、

いつの間にか私たちの心を蝕んでいきます。

「あの人は」「どうして私だけ」

そんな思考の罠から自由になることで、

心はずっと軽くなっていきます。

 

大切なのは、

相手を変えることではなく、

自分の中の期待値を調整すること。

それは決して妥協ではなく、

より成熟した関係性への第一歩なのです。

 

一日に一つの感謝。

一週間に一つの進歩。

一か月に一つの変化。

それで十分なのです。

 

焦らず、急がず、

でも着実に前を向いて。

そんな穏やかな心持ちで過ごすことで、

家族との関係も、職場での人間関係も、

自然とより良い方向に向かっていくはずです。

 

完璧を求めないことは、

決して諦めることではありません。

むしろ、より現実的で持続可能な

幸せへの道筋なのかもしれません。

 

今日から、少しずつでいい。

期待という重荷を下ろして、

あるがままを受け入れる練習を始めましょう。

それが、自分自身への最高の贈り物となるはずです。

複雑に考えない

 


相手を受け入れるための心構えと、自分自身の平和のために

 

 人はつい、「自分ができるのだから、相手にもできるはずだ」と思い込みがちです。しかし、それは本当でしょうか?私たちはそれぞれ違う人間であって、生まれ持つ能力や得意分野、価値観、置かれた環境も異なります。だから、自分と同じように相手にもできると期待するのは、時に無理なことであり、そこから誤解や不満、さらにはトラブルが生じてしまうことがあります。

 

 たとえば、相手が何かをできないこと、手伝ってくれないこと、片付けが苦手なこと、あるいは自己中心的な態度や、不親切だと感じる言動──それらをすべて理解し、受け入れるのは正直、難しいことです。人間である以上、苛立ちや不満を感じることも避けられません。

 

 けれど、だからこそ大切なことがあります。それは「全てを求めない」という姿勢です。多くのことを願ったり、完璧な対応を要求したりするのではなく、「一つだけ」を求めること。一つさえ叶えられれば、それで充分と思う心の余裕が、自分自身にも、そして相手に対しても優しさをもたらします。

 

 もし何かをお願いするときには、「一度に一つだけ」を求めてみる。そして、その一つのことで満足できるよう努力してみる。相手から得られる完璧さや多くの成果をあきらめ、小さな一歩を喜ぶこと。それは、一見慎ましすぎるように思えても、結果として自分自身の穏やかさを守る最善の道です。

 


「比較する癖」を手放すために

 

 また、どうしても私たちは、自分の能力や行動を他人と比べてしまうことがあります。「自分はこれだけ努力しているのに、なぜこの人は…」「あの人はもっと上手にできているのに、自分は…」と、自分に対しても他人に対しても、比較から不満や劣等感が生まれることが少なくありません。

 

 でも、他人と比べることが習慣になってしまうと、自分を苦しめるだけです。さらに、無意識のうちに相手にも「私はやっているのにどうしてできないの?」という圧力をかけてしまい、結果的に関係にひびが入ってしまうこともあるでしょう。

 

 だから、その「比較する癖」を手放す努力を始めてみましょう。まず、意識して自分と他人を比べない習慣を身につけていくことです。「自分のゴールは自分だけのもの」「相手は相手、自分は自分」と自分に言い聞かせましょう。そして、小さな進歩や些細な成功を一つひとつ認め、喜ぶことを習慣化してみましょう。それは、決して「自分に甘える」ということではなく、自分を大切にすることにつながります。

 


期待を少なくして、感謝を増やす

 

 人と関わる中でトラブルを避けるための鍵は、「期待しすぎないこと」、そして「感謝を忘れないこと」です。期待が小さければ、それだけ満たされた時の喜びが大きくなり、感謝の気持ちも増えるでしょう。たとえば、自分が相手に求めていることが10のうち1でも満たされたら、それを「1しかできなかった」と捉えるのではなく、「1が叶った」と喜べる心を持ちたいものです。

 

 相手に完璧を求めない。自分自身も無理をしない。それでいいのです。ほんの少しの良いこと、些細な進歩に目を向けられた時、心は軽くなり、人間関係もぐっと穏やかになります。もし意見の違いや不満が生じても、まずは深呼吸して「自分は今、何を求めすぎているのだろうか?」と振り返ってみる。そして、自分の想いを整理し、相手に柔らかく向き合うことを心がけてみてください。

 


結びに

 

 私たちは誰しも不完全な存在です。そして、相手もまた同じです。だからこそ、完璧を求めるよりも、小さなことに感謝し、許し合うことが大切です。一つの願いが叶うこと、誰かのささやかな思いやりを感じられること。それに満足し、生きていく中で、「自分もまた相手に対して余裕を持てているか?」と反省する機会を持ちながら、少しずつ成長していけば良いのです。

 

 自分のためにもっと穏やかに生きること、それが結果として自分も周りも幸せにする大きな力になる。そんな心の持ち方を、今日から少しずつ始めてみましょう。

雪道での思案

 


静かな夜歩きながら考える、生きることの意味

 

凍てついた雪道を、ノアちゃん(ゴールデンレトリバー)と静かに歩く。

雪を踏むたびに、キュッキュッと足音が響き、その音が静寂へと溶け込む。

転ばないように慎重に進む私を横目に、ノアちゃんは軽やかに雪の上を歩む。

街を走る車も、この冷えた夜にはゆっくりだ。

 

家へ帰ると、ゴミを出し、温かいどん兵衛うどんとバナナ、珈琲、それにキャロットケーキをひと切れいただく。小さな暮らしのひとコマだが、不思議と満たされる。そして、再び日々の仕事にとりかかる。

 

静寂の中にある墓地の平和と人生の教え

 

ふと思う。この世界で一番平和な場所は、もしかしたら共同墓地なのかもしれない、と。

そこには争う声も、憎しみや妬みもない。自分を誇示する人もおらず、誹謗中傷もデマも聞こえない。ただ静寂だけが広がり、そこに横たわるのは人々の人生の記憶。墓石に彫られた言葉には、「安らぎ」「感謝」「ありがとう」など、穏やかで美しい言葉が並んでいる。

 

ただ、それらの言葉を目にすると、心の中で少し考え込んでしまうのだ。「平安」や「感謝」の文字は、もしかすると、この世ではそれを十分に得られず、叶わぬ願いとして残っていたのかもしれない、と。

 

墓地は、これまで多くの人々が歩んできた道のりを物語る場所だ。そしてそこにある言葉を深く読み取れば、それぞれにとっての「願い」「後悔」「希望」が刻まれているように思う。書かれた言葉が穏やかであればあるほど、そこには、叶わなかった願いが滲んでいるような気もする。

 

だからこそ、生きている「今」をどう生きるか

 

私たちは、こうして今日という一日を歩むことができる。平和で穏やかな人生、感謝に満ちた人生を願うだけでなく、それを「今」から実践してみよう。家族に、友人に、道ですれ違う見知らぬ人に対しても、できる限り親切に、穏やかに接してみる。そして、どんなときも後悔のない一日を過ごすよう努めてみる。

 

一瞬の感情に任せて反応し、誰かを傷つけたり、後悔するようなことをするのではなく、冷静に、先のことを考えながら言葉を選び、行動してほしい。もしかしたら、思わず言いかけた言葉を飲み込むことで、大きなトラブルを防げるかもしれない。それは周りの人々への優しさであると同時に、未来の自分を守る行動にもなる。

 

だから、何か行動するときには三度、四度よく考えてみてほしい。それは、より良い選択をするために必要な行動だ。そして、その積み重ねが、きっと穏やかな人生に繋がるはずだ。

 

今日を、自分の一番の味方にするために

 

私たちが歩いているのは、いつだって今しかない。多くの人が願ってやまなかった「平和な人生」を、今この瞬間から実現させていこう。願いだけではなく、行動に移そう。今日の一歩一歩が、未来の自分を助け、希望に満ちた人生への道を作ってくれる。

 

だから、今日も生きよう。穏やかに、感謝を忘れずに。どんなささやかな瞬間も、命が続いていること自体が奇跡であり、贈り物。そしてその贈り物に心から「ありがとう」を伝えながら、歩み続けよう――未来の自分への最良のプレゼントとなるように。

2025年1月10日金曜日

何気ない日々の中に輝く奇跡

 


だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ6:34

016分、目覚めて始まる一日。

静かな雪道を二人で歩きながら、白く包まれた世界の息遣いを感じる。

帰宅して、どん兵衛うどんにバナナ、珈琲とマリーを食べた。

それは豪華な食卓ではないけれど、確かに生きていることを実感させてくれるひとときだ。

「生きる。」ただそれだけで、こんなにも尊く、価値があることなんだと気づかされる。

 

午前中、買い物に歩くその足取りもまた、自分の命を感じる瞬間。

走ることができない日でも、余ったエネルギーは料理や掃除といった、誰かのため、そして自分のための行動に変わる。

手作りの料理3品とキャロットケーキ、そして娘がバイト先から頂いたラーメンスープで麺とネギと豚肉をトッピングしてランチを食べた。

湯気の立つネギと豚肉の香りが、僕たち二人の心を温めてくれる。

「美味しかった。」その言葉の裏には、きっと感謝が何層にも重なっている。

 

今、それぞれの場所で仕事をし、勉強をし、頑張っている人々がいる。

一方で、この雪に苦しむ人々もいる。

でもどんな状況にあっても、今、命が守られていること。

そのこと自体が、実は大きな奇跡なのだと思う。

 

振り返れば、特別ではないはずの毎日の中に、いくつもの「奇跡」が隠れている。

朝目覚めること。

好きなものを食べられること。

歩けること。

大切な人が傍にいること。

何でもないと思っている小さな幸せが積み上がり、今日という大きな日を支えている。

 

だからこそ、今この瞬間、感謝して生きよう。

どんな厳しい雪の中でも、必ず春はやってくる。

その時には、この積み重ねた一歩一歩が力となり、心を支えてくれるはずだ。

 

守られている命に、敬意を。

与えられた今日に、感謝を。

そして、歩んでいける未来に、希望を。

 

この何気ない日課が、きっと誰かの心に「生きる意味」をもう一度照らし出してくれる――そう信じています。

共に死に、共に生きる信仰

 


"Life, Death, and the Divine Manual - Understanding the Purpose of Human Existence"

『いのちの意味を問いつつ - 人間存在と神の示された生き方』

 

私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(ローマ6:8-11

 

人間という存在の特異性は、「どう生きるべきか」という根源的な問いを持つことにあります。動物が本能のままに生きる一方で、人間は常に自らの生き方を問い続けます。この人間特有の実存的な問いかけは、私たちの存在の本質を理解する鍵となります。

 

事象の本質を理解する上で、時として対極にあるものとの比較が有効な視点を提供します。生きることの意味を深く理解しようとするとき、私たちは必然的に死について考えることになります。例えば80年の生涯を生きるということは、同時に80年分の時を死に向かって歩むということでもあります。この逆説的な真理に気づくとき、私たちは初めて生きることの本質的な意味を理解し始め、創造主である神を求める心が芽生えるのです。

 

神の言葉である聖書は、創造主から与えられた人生の使用説明書と言えます。高価な製品を購入したときに、その説明書を丁寧に読んで使用するように、最も尊い命をどのように生きるべきかについて、私たちは聖書から学ぶ必要があります。多くの人々が正しい人生を願いながらも失敗する主な理由は、不完全な人間を基準としてしまうことにあります。

 

私たちは神によって創造された存在であり、神が与えてくださった人生の指針に従って生きることで、真に意味のある人生を歩むことができます。しかし、死は予告なく訪れることがあります。多くの人は日常的に死を意識せず、また永遠に生きるとも考えていません。この無意識が、突然の死に対する無準備をもたらすのです。

 

しかし、キリストの福音は私たちに希望を与えます。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」という御言葉が示すように、主イエス・キリストによって死の恐れから解放された私たちは、感謝をもって生きることができます。この信仰に立って人生を全うすることこそ、真の意味での「生きる」ということなのです。

 

2025年1月9日木曜日

葬儀

 


前夜式から葬儀、そして火葬まで、全ての式を無事に終えることができました。

 

終わってみると、それまで気づかなかった疲れが一気に押し寄せてきます。しかし同時に、この葬儀が喜びと感謝に満ちた式となったことで、ある種の達成感も感じています。より正確に言えば、与えられた使命を全うできたという充実感とともに、神様への深い感謝の念に包まれています。

 

仏式が主流の日本で、キリスト教式の葬儀は珍しく、ご遺族やご親戚の方々にとって新鮮な経験だったようです。式全体が明るく希望に満ちていたことで、皆様に喜んでいただけたことを大変嬉しく思います。

 

葬儀の場の雰囲気からは、往々にしてご遺族間の関係性が垣間見えるものですが、今回のご家族は皆さん仲が良く、日頃から笑顔の絶えない温かい家族だということが伝わってきました。

 

家族同士が和やかに過ごす姿を目にすると、自然と心が温かくなります。

 

今は心身ともに疲れが出て、ゆっくりと温泉につかりたい気持ちでいっぱいです。夢の中でさえも、温泉で癒されたいと思うほどです。

 

全てのことに感謝の念を抱きながら、この一日を締めくくりたいと思います。


今朝は二人のためにサンドイッチを作りました。もちろん自分のためにも作って美味しく頂きました。感謝。


2025年1月8日水曜日

旅人

 


"Journey Through Life - The Wisdom of Living as a Pilgrim"

『人生という旅路 - 旅人としての生き方に見る知恵』

 

愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。(ペトロ一2:11) 

 

人生を旅人として生きることは、聖書が繰り返し教える重要な真理です。しかし、現代を生きる私たちは、往々にしてこの視点を見失い、そこから様々な苦悩や思い煩いが生じてきます。真の旅人として生きることの意味を理解し、それを実践することで、私たちの人生は大きく変わり得るのです。

 

この真理を具体的に示す一つの経験があります。約100人の村で、週に一度、二人の教会員が住む上洞という町までノアちゃんと共に歩いて訪問する journey がありました。往復50キロという道のりで出会う人々との交わりは、まさに旅人としての生き方を体現するものでした。園バスの運転手、軽トラのおじいさん、畑仕事をするおばあさんこうした出会いは、人と人とのつながりを生み出し、深めていきました。

 

しかし、注目すべきは、これらの出会いや関係性を大切にしながらも、そこに定住することはなかったという点です。なぜなら、私たちはあくまでも旅人であり、最終的な帰るべき場所が別にあるからです。この認識こそが、真の自由をもたらす鍵となります。

 

所有することに執着せず、必要な時に手放すことができる―これが旅人としての生き方の本質です。多くの人々は所有欲によって自由を失い、この世のものに縛られてしまいます。その結果、満足を知らず、感謝の心を失い、分かち合う喜びを味わえなくなります。対照的に、旅人は軽やかに歩み、小さな恵みにも感謝し、日々の出会いを喜びとして受け止めることができるのです。

 

このような生き方は、イエス・キリストによって与えられる真の自由と喜びに根ざしています。しかし、多くの人々は「今持っているものを手放すことができない」という理由で、この生き方を選択することを躊躇します。「もう少し現状を楽しんでから」と先送りにする傾向がありますが、私たちには予測できない死という現実が待ち受けています。

 

主イエスは『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』という言葉を通して、この世的な価値観の空しさを指摘されました。賢明な生き方とは、永遠の視点から今を生きることであり、それは旅人としての自覚を持って歩むことに他なりません。この選択は、最終的に各個人の決断に委ねられているのです。

2025年1月7日火曜日

今を生きる

 


314分、ランニングをスタート。お正月以来、この時間帯に走るのは久しぶりだった。空気は冷たかったが、とても気持ちがいい。まだ汚れていない新鮮な空気をたくさん吸い込みながら走り続けた。

 

23キロを走り切り、家に帰った時にはまだ外は暗いままだった。

 

今日は娘のお弁当を作る当番。鶏肉のおかずを用意した。

こうしてお弁当を作るのも、あと2年ほどのことだろう。

「作りたいけど作れない時」が必ず訪れる。だから、今この瞬間に感謝しながら、楽しんで一緒に過ごしていきたいと思う。

 

今日も一日、仕事を頑張れたことに感謝。

明日は前夜式がある。夕方から雪の予報が出ているが……しっかり準備を整えて臨もう。

一緒に走る仲間

  白く染まった道が、どこまでも続いている。冷たい空気が頬を刺すけれど、空は澄み渡り、遠くの橋が朝陽を浴びて輝いている。僕は今日も走る。この道を、そして自分自身の人生を。   僕にはいつも一緒に走る仲間がいる。それは僕の影だ。時には右側で、時には前を走り、まるで「頑張れ」...