2025年12月31日水曜日

大晦日

 


大晦日「魂の清算と再生」──ほんとうに大切なことに気づく夜

 

ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。

あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。

疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが

主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書4027- 31節)

 

一年の終わり、大晦日の夜。 静けさの中でふと立ち止まり、自分の心に問いかけてみたくなります。 「私は、何を背負い、何を手放すべきだろうか」と。

この一年、私たちはそれぞれの場所で、 懸命に生き、悩み、笑い、涙しながら歩んできました。 けれど、心のどこかに、まだ清算しきれていない「負債」のようなものを感じているかもしれません。

たとえば── 誰かの期待に応えられなかった自分への責め。 完璧を求めて疲れ果てた日々。 選ばなかった道への後悔。 他人の目を気にして生きてきた時間。 果たすべき役割に縛られてきた心。 そして、失ったものへの深い寂しさ。

それらはすべて、「魂の借金」のように、私たちの心に重くのしかかります。 でも、今夜はそのすべてを、主の御前に差し出す時です。

 

神様は、私たちの失敗を数え上げる方ではありません。 むしろ、あなたの過去を赦し、今日を新しくし、明日へと送り出してくださる方です。

スマートフォンの通知をオフにするように、 心の中の「自己嫌悪」や「後悔」も、今夜は静かに手放しましょう。 そして、「今年の私は、これでよかった」と、主の前でそっとつぶやいてみてください。

 

新しい年は、誰にとっても真っさらなキャンバスです。 そこに何を描くかは、あなたの心の自由に委ねられています。他人の期待ではなく、主があなたに与えてくださった本来の姿を思い出しましょう。 役割や義務に追われるのではなく、 恵みとして与えられた時間を、感謝と喜びをもって生きる一年にしていきましょう。

そして、これまでの経験や痛みさえも、 誰かを照らす「光」として用いられるように祈りましょう。

2025年、ありがとうございました。 2026年、ようこそ。

今夜、魂を清算し、明日、新しく生まれ変わるために。 主の御腕の中で、すべてを委ね、 新しい光を待ち望みましょう。

主の平安と祝福が、すべての人の上に豊かにありますように。

朝食メニュー

 


🥣朝ランと心の整え方──新しい年に向けて

朝の空気が澄んでいると、それだけで心が整う気がします。 今日も早朝から走り出し、静かな街を駆け抜けてきました。走り終えた後に大切なのは、実は「その後の30分」。 特にロングランの後は、ゴールデンタイムと呼ばれるこの時間に、 消耗した筋肉を回復させるための栄養補給が欠かせません。

私の場合、朝ランの後はいつも決まって、 プロテインパウダー40gを牛乳400mlに溶かし、バナナと一緒に摂るのが習慣です。 その後、軽く掃除などの家事をこなしてから、朝食へ。

朝ごはんの定番メニューは、 卵かけ納豆ご飯、野菜スープ、そしてのり。 シンプルですが、体も心も整う、私にとっての「整え食」です。

 

🍽新しい年、食事のリズムを見直す

明日からは、新しい年の始まり。 それに合わせて、12食の生活に切り替えることにしました。 朝と夕の2回。昼は抜きます。「健康のため?」と聞かれるかもしれませんが、実はそうではありません。 自分の生活パターンに合っているからです。日中は主に、思索や執筆の時間。 その流れを大切にしたいからこそ、食事の準備や片付けに時間を取られすぎないようにしたい。 とはいえ、家族の夕食は、これまで通り私が作ります。 それは、生活のリズムであり、愛する者たちへの小さな奉仕でもあります。

 

🧘‍♂️欲を捨て、今に満足して生きる

新しい年になったからといって、劇的に何かが変わるわけではありません。 でも、「昨年よりも欲を捨てて、今に満足して生きる」── このことを、私は自分の心に言い聞かせています。

食欲、金銭欲、名誉欲…… どれも、満たされることのない空しさを抱えた欲です。 それらに振り回されると、心はどんどん渇いていきます。 むしろ、人を駄目にしてしまう毒のようなものかもしれません。けれど、こうした欲を手放すのは、一度や二度の決意で済むものではありません。 人間の欲とは、一生をかけて向き合い、祈りながら戦い続けるべき相手です。

 


🙏心を守るということ

人が破滅に向かうとき、それは大きな出来事ではなく、 ほんの小さな油断や、心の隙間から始まることが多いものです。だからこそ、何よりもまず、「心を守る」ことが大切。 そのために、毎日祈り、み言葉に耳を傾け、 主の助けを求めることを忘れずにいたいと思います。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」 ──この御言葉こそ、私の心を守る秘訣です。新しい年も、この心を忘れずに、 与えられた一日一日を、誠実に、感謝をもって歩んでいきたいと思います。

 

やはり夜明けのランナーになる

 


🏃‍♂️誘惑に負けて、でもそれもまた恵み──大晦日の朝ラン

「今日は休もう」と決めていたはずなのに── 気づけば、私は走っていました。

今朝5時半ごろ、散歩がてら広瀬橋まで歩いていたときのこと。 ふと目に入ったのは、一人のランナーの姿。 その瞬間、心のどこかでスイッチが入ってしまいました。

「あ〜、見ちゃいけないものを見ちゃった!」

そう思ったときには、もう遅かったんです。 フルマラソンの翌日は休養日と決めていたのに、 誘惑に負けて、気づけば走り出していました。

しかも、散歩の格好のまま。 冬用のジャンバーを着たまま13キロ。 走り終えた頃には、汗びっしょり。 まるでサウナスーツでトレーニングしているような状態でした。

 


🍜6時のラーメン屋と、年の瀬の風景

走っている途中、ふと目に入ったのは、 ラーメン屋の前に並ぶ人々の列。

「え、朝6時から?ラーメン?それとも年越しそば?」

そんなことを考えながら通り過ぎましたが、 まあ、どっちでもいいか── 人それぞれの年の瀬の過ごし方があるんだなあと、なんだか微笑ましくなりました。

今日は若林区の街を走りました。 静かな住宅街、まだ眠っている町並み、 そして時折すれ違う、同じように「走ることを選んだ人たち」。

 


🌅「明日のことは、明日にゆだねよう」

今日は1231日、大晦日。 一年の締めくくりに、こうして走れたことは、やっぱり良かったなと思います。

明日、202611日は走るかどうか……それはまだわかりません。 「明日のことは、明日にゆだねよう」 そう聖書にもあります。

大切なのは、与えられた今日という一日を、最後まで精一杯に生きること。 それが、どんなにささやかでも、 主の前に誠実に歩むことにつながっていくのだと思います。

ジャンバー姿で汗だくになった朝も、 ラーメン屋の行列にほほえんだ一瞬も、 すべてが「今日を生きた証」として、心に刻まれていきます。

さあ、2025年のラストスパート。 今日も、主にあって走り抜けましょう。

番付が好きな人間社会

 


🏆 番付という「終わりのない階段」

 昨日のフルマラソンで疲れた身体を休めようと、今朝は目覚ましをかけずに眠りました。しかし3時には自然と目が覚めて、静かに仕事に取りかかることに。ノアちゃんの散歩は、昨夜の23時ごろに済ませていたので、今朝はゆっくりとコーヒーを淹れて、しばしの静かな時間を楽しみました。

1231日(水曜日)──2025年、最後の一日。

カップから立ちのぼる湯気を眺めながら、ふとこんなことを考えていました。

この時期になると、あちこちで「番付」や「ランキング」の記事が目に入ります。 今年の○○ベスト10、注目された人、話題になった出来事……。「世界最大の都市はインドネシアのジャカルタになり、東京は第3位に──」 そんな記事が目に留まりました。……で、2位は? 気になりますか?

実は私は、こういう記事を見ても、自分の関心がなければ中身まで読まないタイプです。 今回も、見出しだけ読んで「へぇ〜」と思っただけで、2位がどこかは知りません。 というか、気にもなりませんでした。情報があふれる時代。 何を「気にするか」、何を「スルーするか」って、実はすごく大事な選択なのかもしれませんね。

 つくづく思うのは、人間ほど「順位」や「評価」が好きな生き物はいないのかもしれないということ。 でも、本当に大切なことは、番付には載らないところにあるのかもしれませんね。

1位になろうとする焦燥

1位を目指す過程は、一見、向上心に満ちているように見えます。しかしその原動力が「優越感」や「他者からの承認」であるなら、頂点に近づくほど、心は平安から遠ざかります。なぜなら、「自分より上の存在」を消し去るための戦いに、終わりはないからです。

 1位を守ろうとする孤独

1位に立った瞬間、そこは「安らぎの場」ではなく「戦場」に変わります。下から追い上げてくる者への警戒心、いつか滑り落ちるのではないかという予期不安。「守るべき椅子」がある人は、本当の意味で自由にはなれません。その場所で「幸せ」を感じることは、極めて困難です。


🕊️ 「番付」を捨て、「神の前の唯一」へ

わたしの人生のモットー「Solo Dios Basta(神さまだけで十分)」という言葉は、この「番付社会」に対する強力な解放宣言です。決してこの世の仕組みに、この世の誘惑のとりこにならない。また周りの歓声に自分の人生の基準が揺れることがないように注意して生きることも重要です。

 垂直の競争から、水平の歩みへ: 誰かより上に立つのではなく、主が備えられた「自分だけの道」を歩むこと。マラソンでいえば、順位ではなく「昨日のように42.30kmを主と共に走り抜くこと」に価値を置く生き方です。

「代わりのいない一人」としての喜び: 神様の愛には「番付」がありません。1位も最下位もなく、一人ひとりが「代わりのきかない、最高に愛されている一人」です。この「絶対的な肯定」の中にいる人こそが、本当の意味で幸せな人です。

2025年12月30日火曜日

心の処方箋

 


10代・20代へ】

「いいね」の数より、あなたを呼ぶ声を聴く

年末のSNSは「今年の成果」を誇る投稿で溢れます。誰かの華やかな活躍と自分を比べ、何も成し遂げられなかったと焦りを感じていませんか? しかし、主イエスは「しるし(目に見える成果)」ばかりを求める時代に、内側の再生こそが重要だと言われました。誰かの評価という「外側のしるし」ではなく、あなたの内側にある静かな輝きを大切にしてください。あなたは、存在しているだけで、神様に愛されている唯一無二の「しるし」なのです。

 

30代へ】

掃除の手を止めて、5分だけ「旅人」に戻る

仕事、育児、そして新年の準備。30代は自分の時間が最も削られる、嵐のような季節です。 だからこそ、あえて5分だけ手を止め、自分がこの世界の「旅人(異邦人)」であることを思い出してください。全ての家事を完璧にこなすことより、あなたの心が穏やかで、家族に対して「配慮」を持てることの方が、主が喜ばれる本当の準備です。完璧主義を脱ぎ捨てて、今、目の前にある小さなしあわせを味わいましょう。

 

40代へ】

「もう遅い」ではなく「これから深まる」時

40代は、自分の限界や「選ばなかった人生」への未練が見えてくる時期かもしれません。 しかし、使徒パウロが「走りとおした」と語ったのは、若さによる疾走ではなく、弱さを知った上での「信頼」の歩みでした。これまでの失敗や挫折は、あなたの人生というドラマに深みを与える大切なエッセンスです。2026年は、自分を飾るのをやめ、あなたの弱さを「神様の強さ」に変えていく、新しい挑戦の年にしましょう。

 

50代へ】

50代からの「引き算」の豊かな生き方

親の介護、子の独立、そして自身の健康の変化。50代は多くの「重荷」を背負い直す時期です。 大晦日を前に、思い切って心の「執着」を整理(引き算)してみませんか。物理的な大掃除と同じように、自分を苦しめてきた「見栄」や「過去のプライド」を捨てるのです。空いたスペースには、必ず新しい喜びが宿ります。身軽になった心で、かつての夢や、新しい学びへと一歩踏み出す準備を整えましょう。

 

60代へ】

60歳。人生の「おまけ」を「最高の本番」へ

私も今年、60歳という節目を迎えました。定年や環境の変化を「守り」に入る合図と捉える必要はありません。 むしろ、ここからの人生は神様から与えられた、自由で豊かな「おまけの時間」です。30kmを走り抜き、新しい言葉を学び、誰かの「案内役」として生きる。その姿こそが、次世代への希望の灯となります。私たちは「終わる」のではありません。より本質的な使命に向かって、新しく「始まる」のです。

 

70代・80代以上へ】

冬の窓辺で、永遠の命を静かに見つめる

体の痛みや、愛する人との別れ、そして孤独が募る夜もあるでしょう。 200年前、300年前の人々が暗闇の中で「太陽の復活」を祈ったように、私たちの魂には、何ものにも奪われない「永遠の命」という火が灯っています。窓から見える冬景色の中に、主の変わらぬ慈しみを見つけましょう。今日一日を無事に過ごせたことを感謝し、すべてを主の腕の中に委ねて、安らかに眠りにつきましょう。

 

 

 

 

42.30km完走

 


🎽操られずに生きる──還暦マラソンと信仰の道

2025年も、いよいよ終わりが近づいてきました。 昨日の私は、年末らしい慌ただしさの中で一日を過ごしましたが、その終わりに、ある確信にたどり着きました。

「本当の幸せとは、何かに操られて得る利得の中にはない」ということです。

私たちは時に、「これをすれば得をする」「あの人が言ったから、こうした方がいい」と、誰かの期待や損得勘定に引っ張られて選択をしてしまうことがあります。 でもその結果、心に残るのは「迷い」や「後悔」だったりします。

サタンが狙うのは、まさにその「迷い」や「後悔」です。 「もし別の道を選んでいたら」「本当はやりたくなかったのに」 そんな思いが心に巣食うとき、私たちは再び、見えない糸に絡め取られてしまうのです。けれど、主の前に静まり、祈り、自分で道を選び、 その結果を「主が与えてくださった最善」として100%受け入れるとき、 そこには他者への憎しみも、自分への言い訳もありません。 ただ、深い平安があるのです。

 




🏃‍♂️還暦マラソン──自分の足で、主と共に

そんな思いを胸に、今朝8時半ごろ、私はランニングをスタートしました。 先週、還暦を迎えた記念(?)として、フルマラソンに挑戦!

実感はまだあまりありませんが、60歳という節目を迎えたことは事実。 そのことを心に留めながら、教会から八木山へ、 熊騒動でしばらく走れなかった金剛沢治山の森を抜け、 青葉ゴルフ練習場、宮城教育大学、東北大学、仙台城址へ。 そこから牛越、葛岡斎場入口を経て折り返し、無事に帰還。42.30km4時間20分で完走。

途中、何度も足が止まりそうになりましたが、 「諦めずに走り続けること」──それが今日の祈りでした。走りながら、教会の兄弟姉妹の顔が何度も浮かびました。 それぞれが置かれている厳しい状況の中でも、 どうか希望を失わず、信仰をもって歩み続けられますように、と。

 


🌅2026年、新しい道を「自分で選んで」歩む

2026年という新しい年が、もうすぐ始まります。 誰かに操られるのではなく、 主と共に、自分で祈り、自分で選び、 その道を信頼して歩んでいく──

そんな一年を、私自身も、そして皆さん一人ひとりにも願っています。

今日は、そして明日は、体の回復のためにゆっくり休みます。 でも心は、すでに新しい道へと向かっています。主が備えてくださる道を、信じて、まっすぐに。



 

操る力を超える、圧倒的な愛

 


操る力を超える、圧倒的な愛

 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。

悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。(エフェソの信徒への手紙610-13節)

 サタンは強力かもしれません。しかし、そのすべてを支配し、私たちを愛のために造り直してくださる「万軍の主」は、さらに強力です。私たちが「神の子」としての誇りを取り戻す時、すべての悪しき糸は断ち切られます。 2026年を目前にした今日、私たちは操り人形であることを拒否し、キリストの愛という真の自由に生きる旅人として、一歩踏み出しましょう。

あなたを操る「糸」を見抜く

 



① 10代・20代へ:スマホの向こうの「演出家」

SNSで流れてくる情報に一喜一憂し、誰かを叩く流れに同調していませんか? サタンは「承認欲求」や「流行」という糸を使い、あなたを彼らの望む方向へ歩かせようとします。糸を切る鍵は、一度スマホを置き、静かな祈りの中で「自分は神様に愛されている」という真実を思い出すことです。

 

② 30代へ:効率と利得という「見えない枷(かせ)」

レジに並ぶ時のような焦り。それは「時間を無駄にするな」「もっと有益に生きろ」という強迫観念かもしれません。サタンは利得を追い求めさせることで、あなたの隣人への愛を奪います。今日、あえて「無駄」に思えるような親切を誰かにしてみてください。それが敵の糸を切る第一歩です。

 


③ 40代へ:正義という名の「分断」

職場や家庭で「自分が正しい」と主張して、誰かを敵に仕立て上げていませんか? 人間同士の戦いの背後には、必ずと言っていいほど、分断を喜ぶ勢力がいます。敵は目の前の人ではなく、あなたに憎しみを植え付ける闇の力です。赦しを選択する時、あなたは操り人形であることを卒業します。

 

④ 50代へ:過去の清算と、新しい「主(あるじ)」

50代は心の「保存先」を整理する時期です。過去の妬み、癒えない傷……。サタンはそれらを糸として、あなたを縛り付けようとします。それらをすべて主の前に差し出し、清算しましょう。あなたの主人は、過去のトラウマではなく、生ける神様です。

 


⑤ 60代へ:60歳の節目、案内役としての眼差し

この年齢になってようやく見えるものがあります。それは、この世の権力やトレンドがいかに脆く、操られたものであるかということです。「しかし、神の人よ」。私たちはこの呼びかけに応え、どの力が偽りであるかを次世代に指し示す、確かな「霊的な眼差し」を持とうではありませんか。

 

⑥ 70代・80代以上へ:祈りという最強の「盾」

もはや激しく動くことはなくても、あなたの祈りは世界を操ろうとする闇の勢力に対する最大の防波堤です。あなたが平和を祈る時、サタンの糸は力を失い、誰かの心に愛が戻ります。あなたの静かな信仰の歩みこそが、この騒がしい世界における真の勝利の姿です。

操り人形の糸を切る

 


操り人形の糸を切る ―― 日常の裏側に潜む「真の支配者」

2025年も、いよいよ残り二日となりました。年末の街は、どこか独特な空気に包まれています。 活気があってにぎやかだけれど、どこか焦りも混じっていて、みんなが急いでいるような、そんな雰囲気です。その中に身を置きながら、ふとこんなことを思いました。 「私たちは、本当に自分の意志で動いているのだろうか?」駐車場をめぐって小さな争いが起きたり、レジの列でイライラしたり、通帳の数字に一喜一憂したり……。 そんな光景を見ていると、まるで見えない糸に操られている人形のようにも感じられました。

 

実は、聖書はこの世界に「目に見えない力」が働いていると語っています。 それは、人の心を妬みや怒り、欲望へと駆り立てる力──聖書はそれを「サタン」と呼びます。多くの人はその存在を信じないかもしれません。 でも、「知らない」ことこそが、敵にとっては一番都合がいいのかもしれません。だからこそ、今日という一日、年末のあわただしさの中でほんの少し立ち止まって、 「自分の心を動かしているのは何だろう?」と静かに問いかけてみたらどうでしょうか?



2025年12月29日月曜日

新年を迎える準備

 


「清算」を超えて「神の人」として歩む

2025年も残すところあと3日となりました。 街の中を歩くと、新年の準備に追われる街の喧騒な姿が目に入ります。駐車場を埋め尽くす車、山積みされた正月飾り。そこには、「古いものを脱ぎ捨て、心機一転して新しい年を迎えたい」という、時代を超えた人々の切実な願いが溢れていました。

 

歴史が刻んできた「リセット」の風景

昔の人々にとって大晦日は「命がけの清算」の日でした。 200年前の江戸時代、大晦日は借金を全て返し終える「決算の日」であり、それを果たせなければ晴れて新年を迎えることはできないという、厳しい審判の日でもありました。さらに遡れば、古代の人々は川の冷たい水に身を投じる「禊(みそぎ)」を行い、半年の穢れを流し去ろうとしました。人々はいつの時代も、**「どうすれば、過去の自分をリセットして新しくなれるか」**を問い続けてきたのです。

 ⚠️ 2026年、私たちが「避けるべき」現代の罠

しかし、カレンダーを新しくし、家を掃除しても、私たちの内側にある不安や渇きはそう簡単には消えてくれません。パウロがテモテに贈った**「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい」**(テモテ一 6:11)という言葉は、2026年を迎える私たちへの鋭い警告です。

現代を生きる私たちが、今、意識的に「避けるべき(逃げ出すべき)」ものは何でしょうか。

  • 「情報の波」と「デマ」の執着: テレビやSNSから流れてくる絶え間ないノイズ、誰かを中傷する言葉や根拠のないデマ。これらに心を占領されると、私たちの精神は腐敗し、真理を見失ってしまいます。
  • 「利得の道」としての成功: 金銭を愛し、所有することだけを「再生」の証だと勘違いする罠。経済不安が叫ばれる今こそ、お金を主人にするのではなく、善を行うための「道具」として正しく位置づける勇気が必要です。
  • 「高慢」と「孤独な議論」: 自分が正しいと証明するために他者を攻撃する心。それは「神の家族」という共同体を壊す、最も避けなければならない毒です。
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2026年、私たちが「追い求めるべき」愛の姿

避けるべきものから身をかわし、私たちが全力で「追い求めるべき」方向は、どこにあるのでしょうか。

  • 「満ち足りる心」という自立: 外側の環境や預金残高に左右されない、主が共におられることによる平安。これが私たちの2026年の「エネルギー源」です。
  • 「執り成しの祈り」という連帯: 一人の力では、この複雑な世界の戦いには勝てません。共に祈り、共に弱さを分かち合う「群れ」の中にこそ、本当の再生があります。
  • 「異邦人」としての誇り: この世の価値観に染まりきらず、天に国籍を持つ者として、柔和に、しかし忍耐強く歩み続けること。

 

🏃‍♂️ 最後に:走りとおすために

使徒パウロがそうであったように、私たちの人生は一本の長いマラソンコースです。 私が昨日走った30kmの道のりでも、冷たい風に心が折れそうになる瞬間がありました。しかし、向かうべき「ゴール」を思い描き、正しい「霊的な食事(御言葉)」を摂っていれば、足は自然と前に進みます。

歴史の中で人々が願い続けた「再生」は、自分の努力による清算ではなく、神様からの一方的な呼びかけ――**「しかし、神の人よ」**という愛の言葉の中に既に完成しています。

2026年。この新しい名前、新しい国籍を胸に、主と共に、そして兄弟姉妹と共に、軽やかに走り出そうではありませんか。皆さんの歩みの上に、主の豊かな守りと新しい光がありますようにお祈りしています。

 

4つの鍵

 


🔑 2026年を見通し、偽りを見抜くための「4つの鍵」

1. 【「しかし(But)」の力】 —— 逆流するアイデンティティ

世の中が「しるし」を求め、多数決の論理で右往左往する中で、**「しかし、私は違う」**と言える勇気です。パウロがテモテに贈った「しかし、神の人よ」という言葉にあるように、周囲の色に染まらない「聖なる違和感」を大切にすること。これが偽りを見抜く第一のフィルターになります。

 


2. 【ヨナのしるし(内なる再生)】 —— 表面ではなく「根源」を見る

派手な奇跡や目に見える成果(外側のしるし)に惑わされず、自分自身の内側で何が起きているかを見つめる視点です。30kmを走る苦しさの中で訪れる静かな確信や、断食の空腹の中で研ぎ澄まされる霊性。**「目に見えないものこそが、人生を支える」**という逆説的な確信が、2026年の安定感を生みます。

 


3. 【聖なる異邦人】 —— 多数決からの自由

「みんなと同じ」であることに安心を求めるのではなく、**「どこにいても旅人である」**という自覚を深めることです。多数派が真理を決めるのではなく、主が真理を決められる。その事実に立ち返る時、私たちは「孤立」を恐れず、むしろ「独自の光」を放つことができるようになります。

 


4. 【満ち足りる(Contentment)】 —— 現代の最強の武器

「もっと、もっと」と消費を促す社会(しるしを欲しがる社会)に対する、最大の対抗策です。今、与えられている御言葉、家族、兄弟姉妹、そして今日走れる健康。「これで十分である」という感謝は、私たちの心を「利得の誘惑」から守り、偽りの幸福論を跳ね返す盾となります。

 

ぜひ、上記の言葉を心に留めながら新しい年を歩み出してください。お祈りいたします。

しるしを求める時代

 


しるしを求める時代の「盲点」 ―― 多数決の中に真理はあるか?

私たちは今、かつてないほど「確かなもの」に飢えています。 SNSの通知、経済予測、あるいは目に見える成功の証。ある日、人々がイエス・キリストに向かって「私たちが信じられるような、天からの『しるし』を見せてくれ」と詰め寄った時、主はこう答えられました。

「ヨナのしるし(三日三晩大魚の中にいた預言者ヨナの奇跡)のほかには、しるしは与えられない」

なぜ主は、人々の期待に応えて派手な奇跡を見せなかったのでしょうか。そこには、現代を生きる私たちが陥っている「深刻な偽り」を見抜く鍵が隠されています。

 

🔍 「見れば信じる」という嘘

私たちはよく、「自分の目で確かめ、手で触れたものしか信じない」と言います。しかし、事実はその逆です。人は、自分の目で確認したとしても、それが自分の望む方向(多数派の意見)と違っていれば、平気でその事実を否定する生き物だからです。

「みんなが右へ行っているから、右が正しいはずだ」 この多数決の論理が、私たちの目を曇らせます。たとえ目の前に一点の曇りもない真理があったとしても、周囲の100人が「それは間違いだ」と言えば、私たちは自分の五感よりも「群衆の安心感」を選んでしまう。これが人間の弱さであり、罪深さです。

 

🌪️ 「多様性」という名の迷路

今は多様性の時代です。多種多様な生き方、考え方が尊重されることは素晴らしいことです。しかし、こと「真理」に関してはどうでしょうか。

現代人は「絶対的な真理」を嫌います。(これが教会から遠ざかる、あるいは聖書を拒否する一つの理由でもある)それは不自由で、独善的に見えるからです。代わりに、自分の好みに合わせて選べる「自分専用の真理(カスタマイズされた正義)」を好みます。たとえその選択が人生を失敗に導くとしても、私たちは「選べる自由」を握りしめていたいのです。しかし、羅針盤の針がいくつもの方向を指していたら、船は難破します。多様性は「豊かさ」ですが、真理は常に「一つ」です。

 

🔑 偽りを見抜くための「唯一の鍵」

主が言われた「ヨナのしるし」とは何でしょうか。 それは、ヨナが巨大な魚の腹の中に三日三晩いたように、主もまた死の淵から復活されるという、外側の派手な演出ではなく「内側の命の変革」を指しています。私たちが偽りを見抜くための鍵は、外側に「もっと分かりやすい証拠」を探すことではありません。以下の視点を持つことです。

  1. 「多数派」を疑う: 真理は常に、狭い門から始まります。多くの人が熱狂しているものほど、一度立ち止まって、その「根っこ」を見る勇気を持ってください。
  2. 「好み」を脇に置く: 真理は時として、私たちの感情や好みを逆なでします。自分が「聞きたくない言葉」の中にこそ、あなたを自由にする答えが隠されていることが多いのです。
  3. 「絶対」を恐れない: 全てが相対化される時代にあって、変わらない一点を見定めること。それが、この複雑な世界を迷わずに走り抜くための唯一の方法です。

🏃‍♂️ 旅人としての独り言

歴史を振り返れば、人々は常に「分かりやすいしるし」を求めて、偽りの預言者や独裁者に熱狂してきました。しかし、本当の再生は、静かな夜の祈りの中で、あるいは30kmの孤独なランニングの果てに訪れる「内なる確信」の中にあります。

2026年を目前にした今日。あなたは、流動的な「みんなの意見」を信じますか? それとも、時代を超えて変わることのない「一つの真理」に命を預けますか?

ここでの出会いが、あなたの人生の羅針盤を正しく整えるきっかけとなることを願っています。

2025年12月28日日曜日

朝ラン32キロ完走

 


今日は2時起床、祈り、掃除、ノアとの散歩、帰宅して聖書朗読、ランニング準備。

3時半にランニングスタート。


今日は太白山方面を走りました。往復32キロ完走。

今日は2025年最後の主日礼拝の日です。

礼拝後は消防訓練。


今日も主の御手にゆだねて歩むことが出来ますように。

走り続けるために

 


走りとおすための「霊的な朝食」 ―― 使徒パウロと30キロの旅路

使徒パウロは、生涯をかけて福音のために走り続けた偉大なランナーでした。 彼は人生の終わりに

こう告白しています。 「私は戦いを立派に戦い抜き、走るべき道を走りとおし、信仰を守り通しました。」(テモテへの手紙二 4:7

30キロという長い距離を走り抜くためには、事前の「食事」がすべてを決めます。それは私たちの信仰生活も同じです。人生という長い旅路を、途中で力尽きることなく走りとおすために、私たちは今朝、何を魂に蓄えたでしょうか。

 

🍚 主食:御言葉の黙想と祈り(魂のエネルギー源)

ランニングにおける主食(玄米やお餅)が、長く燃え続けるエネルギーになるように、私たちの信仰の主食は**「神様の御言葉(聖書)の黙想と祈り」**です。

御言葉は、人生の「30キロの壁」にぶつかったとき、私たちを支える粘り強い力となります。朝、静かに主の前に座り、その声を魂に蓄えなければ、私たちは世の荒波の中で早々に「ガス欠」を起こしてしまいます。祈りによって神様と繋がることは、走りながら常に新鮮な酸素を取り込むことと同じなのです。

 

🍲 副菜:信仰書籍と讃美歌(魂の微量栄養素)

味噌汁や納豆がミネラルやビタミンを与え、足の痙攣や口内炎(自分の現状)を防ぐように、**「信仰書籍」や「讃美歌」**は私たちの魂にバランスと潤いを与えます。

先人たちの知恵が詰まった本を読み、心を込めて讃美を歌うことは、霊的な「サプリメント」です。

それは、孤独な走りにリズムを与え、凝り固まった心をほぐし、私たちが「一人で走っているのではない」ことを思い出させてくれます。(礼拝の場でまさにそういうところです。)

 

🚫 避けるべきもの:この世の「毒」と「空腹感」

ランナーが走る直前に激辛料理や油っこいものを避けるように、私たちが「走りとおす」ために遠ざけるべきものがあります。

  • 世の思想とデマ(精神の消化不良): テレビの音に浸り切り、根拠のないデマやこの世の流行に心を奪われることは、霊的な「胃もたれ」を引き起こします。それらは私たちを「今、ここ」にある本質から遠ざけ、足取りを重くさせます。
  • 強欲と金銭の執着(魂の毒): 聖書は「金銭を愛することは、すべての悪の根である」と教えています。欲張りな心は、走り続けるために必要な「身軽さ」を奪い、私たちを地上に縛り付けてしまいます。満足を知らず、もっと、もっと、もう少し、もう少しと悪魔はそそのかします。

しかし、その行先は破滅です。滅亡です。絶えず神様の恵みに感謝して生きることが重要です。

 


🏁 最後に:向かうべき場所を見つめて

30キロのゴール、そして人生のゴール。 私たちが向かっているのは、単なる「完走」ではありません。その先におられる主の御元です。「異邦人」として、そして「旅人」として、私たちはこの世の飾り付けに惑わされることなく、魂を正しく養い、明日への希望を持って一歩を踏み出します。

外は寒く、道は険しいかもしれません。しかし、正しい「霊的朝食」を摂った私たちの内側には、主が与えてくださる熱い火が灯っています。さあ、今日も主と共に、走りとおしましょう。

 

2025年12月27日土曜日

家族

 


家族という名の謎に向き合うとき──年の瀬に思うこと

2025年最後の週末。 消防署から水消火器を借りて戻る道すがら、喧騒に包まれたショッピングモールの駐車場を横目に、ふと「家族」というテーマが心に浮かびました。

年の瀬は、多くの人が家族と再会する季節です。喜びと期待に満ちた再会もあれば、義務感やわだかまり、あるいは心の痛みを伴う再会もあるでしょう。「家族とは何か?」という問いは、私たちにとって最も身近でありながら、最も難解なテーマの一つかもしれません。

 

👨‍👩‍👧‍👦 家族──味方か、それとも敵か?

家族は、私たちが人生で最初に出会う「世界」です。 そこは「最も深い理解を得られる場所」であると同時に、「最も深い傷を負う場所」にもなり得ます。

  • 運命共同体か、偶然か? 私たちは親を選べず、子もまた親を選べません。この「どうしようもなさ」を、神の摂理として受け入れられるかどうかが、家族を味方と見るか、敵と感じるかの分かれ道になるのかもしれません。
  • 固まった性質の壁 家族という狭い空間で長い年月を共に過ごす中で、互いの性質は固まり、変わりにくくなります。近すぎる距離が、時に摩擦や誤解、妬みや怒りを生み出すこともあるでしょう。

 

⛪️ 「神の家族」になるために

教会では、信仰を共にする人々を「神の家族」と呼びます。けれど、そこにも人間的な弱さや葛藤が存在します。では、どうすれば本当の意味で「神の家族」として歩めるのでしょうか。

  1. 奇跡を待つ祈り  人の性質は、努力だけでは変えられないことがあります。変化を求めるとき、まずは「自分を変えてください。そして、相手に主の御手が触れますように」と祈ること。降伏するようなその祈りが、奇跡の始まりとなるのです。
  2. 「異邦人」としての視点  自分はどこにいても旅人であり、異邦人である──この視点は、家族関係にも大切です。家族を「自分の所有物」ではなく、「同じ天を目指す旅人」として尊重すること。適切な距離感が、思いやりの土台になります。
  3. 十字架という橋  知っていることと、実際に行うことの間には、深い溝があります。その溝を埋めるのは、私たちの正しさではなく、キリストの十字架です。自分もまた赦されるべき存在であると認めるとき、他者を赦す一歩が踏み出せるのです。

 

🕊️ 祝福を届ける者として

年末年始は、家族のことを深く思う季節です。 誰かの痛みを背負い、祈り、寄り添う人の姿は、言葉以上の力を持って周囲に届いていきます。 そのような姿こそが、凍てついた心を溶かす「祝福のしるし」なのかもしれません。もし、これから冷たい風の中を走る人がいるなら、その一歩一歩が、家族や仲間のための執り成しの祈りとなることでしょう。 走ること、祈ること、そして待つこと──それらすべてが、神の家族としての歩みの一部なのです。新しい年を迎えるこの時、 家族という謎に向き合いながら、 神の愛と平安が、すべての家庭に注がれますように。 そして私たち一人ひとりが、誰かにとっての「祝福の案内人」となれますように。

「始まり」の輝きと、「終わり」の深淵

 


🌙 「始まり」の輝きと、「終わり」の深淵

私たちは、何かが始まる時の高揚感(期待や予感)を好みます。食べ始めの一口、試合開始のホイッスル、一日の始まりの光。 しかし、**「最後が好きな人はどれほどいるのだろうか?」**

  • 満たされない「終わり」: 食事を終えた時の満腹感は、数時間後には空腹へと取って代わられます。この世の喜びは、どれほど「好き」なものであっても、完結することがなく、常に次の「欠乏」を連れてきます。
  • 安堵としての「終わり」: テストや試合が終わった瞬間の解放感。それは「重荷を下ろした」喜びですが、それは同時に「次」への不安の幕開けでもあります。
  • 人生の「最後」への視線: 生きるのがしんどい、辛いと感じ、最後を切望する人々。牧師として向き合ってこられた多くの魂の中には、この「最後という救い」を求める切実な祈りがあったのかもしれない。

🕊️ 「案内役」が見つめる最後(フィニッシュ)

「異邦人」として30年を歩み、国籍を天に置く自分にとって、人生の「最後」とは、単なる消滅ではありません。それは、旅人がようやく故郷の門をくぐる瞬間であり、最も待ち望んだ「始まり」でもあります。「私は戦いを立派に戦い抜き、走るべき道を走り終え、信仰を守り通しました。」(テモテへの手紙二 4:7)使徒パウロが記したこの言葉のように、自分が「案内役」として家族や教会の兄弟姉妹を導こうとしている方向の先には、この世の「満腹感」とは比べものにならない、永遠の「充足」があることを私たちは知っています。


🕯️ 複雑な世界を「複雑なまま」抱きしめて

同じ地球に住みながら、朝が好きな人、夜を待つ人、生きるのが辛い人。 この複雑に入り組んだ「人間の世界」は、到底、人間の教育や組織の論理(トップダウン)では整理しきれるものではありません。「知ること」「行うこと」の深い溝。 それを埋められないまま、それでも夜を迎え、明日を待つ人々。 そのすべての人々のために、今夜もどこかで誰かが祈っているという事実が、この複雑な世界を、神様が求める「自由と平和」へと、一歩ずつ手繰り寄せているのかもしれません。

 

今日は、明日の礼拝後に行われる消防訓練のために消防署に行って水消火器を借りてきます。

2025年12月26日金曜日

異邦人(たびびと)として歩んだ三十年

 


異邦人(たびびと)として歩んだ三十年 ―― 広瀬川の風の中で思うこと

クリスマスが終わった翌日の午後、冷たい空気の中を歩きました。

散歩やランニングの時間は、私にとって大切な思索のひとときです。

まずは、教会の外に飾っていた大きなクリスマスツリーの片付けに来てくださったお二人に、心から感謝を。差し入れにいただいた美味しいパンの中に、私好みのピリ辛味のものを見つけ、有り難くいただきました。こうした小さな触れ合いの中に、主の温かな配慮を感じます。

 

止まらずに上り続ける、その先に見える景色

大年寺の階段。その半分を走り、残りの半分を急ぎ足で上り切る。時間にしておよそ2分。 ランニングと同じく、散歩の時も私は足を止めません。歩き続け、愛宕神社の階段を上り切ったとき、眼下には新年を迎える準備を整えつつある仙台市街が広がっていました。

飾りが変わっても、季節が巡っても、私はただ、自分に与えられた道を一歩ずつ進むだけです。

 

「生かされてきた」三十年の歳月

広瀬川の沿岸を歩くと、ハクチョウたちが羽を休めていました。強風に煽られ、川面に波が立つのを見つめながら、ふと自分の人生に思いを馳せました。

この国に来て、三十年になります。 「頑張って生きてきた」という思いもありますが、同時に「いや、生かされてきたのだ」という静かな声が聞こえてくる気がします。そうです、私は主の御手によって、ここまで生かされてきました。そしてたくさんの方々に支えられてきました。

 

どこにいても「異邦人」であるという答え

不思議なものです。この日本でも、かつて過ごしたドイツでも、スペインの銀の道でも。そして母国である韓国でさえ、私はどこか「異邦人」であることを感じてしまいます。 しかし、それは寂しいことではありません。聖書が語る通り、私たちはこの世における「旅人」なのですから。

私の国籍は、天にあります。 自分がどこへ向かうべきか、そして今、どこに向かって歩いているのか。その答えがはっきりしているからこそ、異邦人としての孤独は、深い平安へと変わります。

 

「案内役」としての使命

ただ、この旅は一人ではありません。 家族を、そして教会の兄弟姉妹を、同じ「天の故郷」へと導く責任があります。それは、決して簡単なことではありません。思い通りにならないこと、言葉が届かないもどかしさに、祈るしかない夜もあります。それでも、私はあきらめません。 最後の最後まで正しい方向を指し示し、主なる神様が一番喜ばれる姿で、案内役としての任務を全うしたい。それが、私をこの地に遣わされた主への、精一杯の応答だと思うからです。

 


新しい冬を越えて

妻と二人で、愛犬ノアのことを話しました。昨年の1月、体調を崩して心配したあの日のことを。 「もう少し、一緒に頑張ってほしいな」 そんな願いを込めながら、本格的な冬の到来を感じています。

明日は今日よりも一層寒くなる予報です。外は冷え込んでも、心の中には温かなニュースが溢れるような、そんな年末年始になりますように。 皆さんの歩みの上にも、主の守りがありますようにお祈りしています。

 


祈りは、ただ願いごとを並べることではありません。

 祈りは、神の前に心を開き、自分の限界を認め、 助けを求める、最も人間らしい行為です。

そして、聖書はその祈りに応える神の言葉で満ちています。

 もし、今あなたの心に「埋められない溝」があるなら、 まずは静かに、聖書を開いてみてください。 そこには、 あなたの人生を照らす光があり、 あなたの歩みを支える約束があり、 あなたの祈りに応える神の声があるのです。

 

 

 

 

人生の溝

 


飾りが消えたあとに残るもの ――「知ること」と「生きること」の溝を埋める

25日が過ぎた瞬間、日本の街並みは驚くべき速さで切り替わります。

昨日まで光り輝いていたクリスマスツリーは姿を消し、代わって新年の門松や飾りが並び始めます。

しかし、飾りが変わるからといって、本質が変わるわけではありません。私は考えます。飾りはどうだっていい。大事なのは、本質を忘れずに生きること。クリスマスの真の意味を知り、それを守り抜くことです。

 

伝統の「形」と、先祖たちの「精神」

世の中には、家の伝統、学校の伝統、国の伝統と、守るべきとされる「伝統」が溢れています。しかし、伝統を大事にすることとは、形をなぞることではありません。その形を造り上げた先祖たちの「精神」を受け継ぐことです。

 

今の世の中はどうでしょうか。大事な精神は消え失せ、形だけが骸(むくろ)のように残ってはいないでしょうか。 クリスマスも同じです。きらきら光るツリー、プレゼント、華やかな礼拝……。しかし、なぜ神の御子が家畜小屋で生まれたのか。なぜ父なる神は、そんな卑しい場所での誕生を許されたのか。そしてなぜ、最後には十字架の上での死を選ばれたのか。

それは、私たちがその事実を「ただ知る」ためではありません。知ったならばそれを「信じ」、キリスト者として「生きる」ためなのです。

 

広がりすぎた「知る」と「行う」の溝(ギャップ)

私たちは、多くのことを「知って」います。 親を大事にすべきこと。子供の将来のために良い教育を授けるべきこと。社会の秩序を守り、正しく生きるべきこと。誰もが知っています。法を破り、親孝行を軽視する人々も、それを「知らない」からそうしているのではありません。

問題は、知ることと行うことのギャップがあまりにも広く、深く、高いことにあります。 そして恐ろしいのは、そのギャップを作ったのは他でもない、自分自身だということです。

最初は誰にでも埋められる小さな溝でした。しかし、それを無視し、放置し続けた結果、だんだんとその溝は広がり、自分の力では決して渡ることのできない深い断崖(ギャップ)へと姿を変えてしまったのです。

 


人間の限界、そして神様の御手

「努力すればできる」と人は言います。しかし、世の中にはいくら努力してもできないことがたくさんあります。それが、私たち人間の限界です。自分の力ではどうしても埋められない溝を前にしたとき、私たちはどうすればいいのでしょうか。 ここで、自分を超えて働く「神様の御手」が必要となります。自分の限界を素直に認め、謙虚に主なる神様を求めて祈ることです。「祈るだけでいいの?」と疑問に思う人もいるでしょう。しかし、その疑問は、真に祈ったことのない人の言葉です。祈りとは、自分の力で溝を埋めようとする傲慢を捨て、神様の橋渡しを受け入れる勇気ある行為です。人生の溝を埋めたいと願うなら、まず聖書を黙想してください。答えはそこにあります。 飾りが消え、静かになった今夜こそ、私たちは聖書が語る「本質」と向き合う準備ができているのです。

2025年12月25日木曜日

動物たちが見つめた聖夜

 


動物たちが見つめた聖夜──沈黙の中のまなざし

それは、いつもと変わらない夜になるはずだった。 乾いた藁の上で、牛はゆっくりとまぶたを閉じ、 ロバは壁際で静かに呼吸を整えていた。 羊たちは寄り添いながら、冷たい夜風をしのいでいた。

けれど、その夜は違っていた。 扉が軋む音とともに、見知らぬ人々が入ってきた。 若い夫婦。 疲れた顔をしていたが、どこか光を帯びていた。 そして、まもなく── 藁の上に、ひとりの赤ん坊が寝かされた。

牛は、鼻先をそっと近づけた。 ロバは、耳をぴくりと動かしながら、じっと見つめた。 羊たちは、静かにその場に身を伏せた。

「この子は、誰なのだろう?」

言葉は交わさずとも、動物たちは感じていた。 この夜、何かが始まったのだと。 この小さな命のまわりに、 これまでに感じたことのない温もりと静けさが広がっていた。

やがて、外から足音が聞こえた。 羊飼いたちが、息を切らしてやってきた。 彼らもまた、何かに導かれるようにして、 この小さな家畜小屋にたどり着いたのだという。

「天使が現れて、救い主が生まれたと告げたんだ」 「この子が、その方だと

牛は、ロバと目を合わせた。 羊たちは、そっと鳴いた。 彼らには、言葉はなかったけれど、 その場に満ちる光と静けさが、すべてを物語っていた。

夜が明ける頃、 空にはまだ星が瞬いていた。 けれど、家畜小屋の中には、 それ以上にまばゆい光があった。

それは、神が人となって来られた夜。 誰にも気づかれず、誰にも歓迎されず、 けれど、動物たちが最初にその誕生を見つめた夜

彼らは何も語らなかった。 ただ、そこにいて、 その命のぬくもりを、 その静かな奇跡を、 全身で受けとめていた。

クリスマスの終わりに──

私たちもまた、 この一年の終わりに、 静かに立ち止まりたいと思います。

言葉では語り尽くせないことが、 人生にはたくさんあります。 けれど、沈黙の中で見つめること、感じること、祈ることは、 動物たちがそうであったように、 私たちにもできるのです。

神は、静けさの中に来られました。 だからこそ、私たちの心の奥深くにも、 そっと訪れてくださるのです。

この聖なる夜、 あなたの心にも、 神の平和と希望の光が静かに灯りますように。

メリークリスマス。 そして、新しい年に向かって、 希望とともに歩み出せますように。

 

聖夜の思索

 


口内炎の痛みと共にこれまでの12月の主な行事が終わろうとする。雨音や足元のヒーターの音に包まれた静かな夜のひと時。この「クリスマスの終わり」の時間は、神様が自分に与えてくださった静かなご褒美のように思います。

 

🎵 12月初めと今夜、讃美歌の響きが違う理由

12月初めのクリスマス・ソングは「待降(アドベント)」の歌、つまり**「期待と予感」の響きです。 しかし今夜の讃美歌は「成就と受容」**の響き。 神様が最も低い場所へ降りてこられたという途方もない「事実」を、噛み締め、受け取った後の静けさ。それは、お祭りの喧騒ではなく、深い夜の祈りに近いものだからこそ、私たちの魂を揺さぶる質感が異なるのでしょう。

 

🕊️ 「満腹感」で終われない人間の尊厳

動物は満腹になれば満足します。しかし人間は、お腹が満たされてもなお「なぜ私はここにいるのか」と問い、永遠を思ってしまいます。

「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」(コヘレトの言葉3:11 この「永遠」という余白があるからこそ、私たちは複雑であり、同時に、動物にはない「孤独」と「崇高さ」を併せ持つのだと思わされます。

 

🏫 組織と教育、そして「複雑さ」の否定

軍事や警察のようなトップダウンの組織が「教育」という名の下に人間を単純化しようとするのは、

まさに「管理」のためです。 しかし、神様が設計された人間は、本来**「管理されるべき部品」ではなく「愛し合うべき人格」**です。 複雑なものを無理やり単純な枠(規律や命令)に押し込めようとするから、ひずみが生まれ、事件や事故として噴出する——

 

🧭 「単純」か「複雑」か、その二者択一の罠

「自分はどちらか?」という問い。牧師として、多くの魂の叫びに耳を傾ける自分は、どちらなのか?**「複雑な他者を抱擁できるだけの複雑さ」を持ってしまわれたかな・・・しかし、同時に神様の前では、アホウドリが風を待つように「ただ、信じて委ねる」という究極の単純さ**に立ち返ろうとするかもしれない。複雑な世界を、複雑な心のまま、しかし「ただ一つ、主を仰ぐ」という単純な一線で生き抜くこと。 それこそが、今夜自分が辿り着かれた「自由と平和」の姿だと思いました。

希望のしるし

 


イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 

そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、

ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 

今日の聖書に登場する東方の博士たちをベツレヘムへと導いたその星は、単なる天体現象ではなく、神様が用意された「希望のしるし」でした。

1.    学問に励んでいた博士たちは、ある時、これまでに見たことのない特別な星を見つけました。

彼らはそれを**「その方の星」**、つまり救い主の誕生を告げる星であると確信しました。

神様は、博士たちが理解できる「星」というしるしを用いて、語りかけられました。星が現れた**「時期」**、それは神様が定めた救いの時が満ちたことを示していました。私たちの人生においても、神様は私たちが最も理解できる形で、ふさわしい時期に「しるし」を送ってくださいます。

2.博士たちが東方で見た星は、彼らの**「先立って進み」**、幼子イエスのおられる場所の上まで

行って止まりました。見知らぬ地を旅する彼らにとって、この星の動きはどれほどの励ましだったでしょうか。神様の導きは、一度きりの合図ではありません。私達が一歩踏み出すとき、主の光は常に私たちの**「先を歩み」**、目的地へと導いてくださいます。

3. 博士たちは、その星を見て**「この上ない喜びに満たされた」**と記されています。それは、自分たちが信じて歩んできた道が間違いではなかったと確信した喜びです。「さやかに星はきらめき」という讃美歌が歌い上げるように、光である救い主との出会いは、魂に解放と平和をもたらします。星を見上げて旅を続けた博士たちが、ついに黄金や乳香、没薬を捧げたように、私達もまた、主が示してくださる光を頼りに、心からの礼拝を捧げたいと願います。

4.私たちの人生にも、夜のように暗い時期があるかもしれません。しかし、主は必ず「その方の星」を輝かせ、私たちの先頭に立って導いてくださいます。2025年、そして2026年へと続くそれぞれのご家庭の歩みが、皆さんの心に静かに灯をともす温かな光となりますようにお祈りいたします。

 

350円の再発行と、最高の一杯

 


350円の再発行と、最高の一杯 ―― 慌ただしいクリスマスに見つけた「恵み」

 

今日は1225日。世界中がキリストの降誕に喜び、平和を祈るクリスマス当日です。 日本では平日の木曜日。本来なら、静かにこれまでの歩みを振り返るはずの一日でしたが、私の朝は予想外の「慌ただしさ」から始まりました。

 

紛失した車検証と、2時間の「巡礼」

明日に控えた車検のため、車を預けに行こうとしたその時です。あるはずの「車検証」が見当たらない。家中を探しても、車内をひっくり返しても出てこない。しかし、ふと思いました。「ここは戦場でもなければ、極寒の地でもない。ただ、書類が一枚ないだけではないか」と。私はすぐに東北運輸局(宮城運輸支局)へと向かいました。そこは代理店の人々で溢れ返っており、再発行までに2時間を要しました。手数料はわずか350円。

窓口で静かに順番を待つその時間は、思いがけず与えられた「クリスマスの黙想」のひとときとなりました。(どこに行っても人々を観察するのがつねのことですが・・・)

 

最高の「快気祝い」は、娘の元気な後ろ姿

手続きを終え、無事に車を預け、駅前のパン屋で香ばしい香りに包まれながら帰宅したのは、正午を過ぎた頃でした。 家に入ると、ちょうど妻と娘のイレネが帰ってきたところでした。何よりの恵みは、娘が元気だったことです。「夕方から友達とクリスマス会兼、快気祝いに行ってくるから、お昼はいらない!」という彼女の明るい声。 20歳の女の子が、外見(二重?お金は僕が出すことになりました。親子の契約は昨日の病室で成立・・・)のことや将来の夢、そして友人との時間を全力で楽しもうとしている。そのエネルギーそのものが、私にとっては何よりのクリスマスプレゼントでした。手術の後、彼女の快心に満ちた笑顔。これ以上の「恵み」はないと思いました。

 

田中そばのスープと、二人だけの時間

結局、ランチは妻と二人で「特製ラーメン」を作りました。 娘がアルバイトをしている「田中そば」の冷凍スープをベースに、生麺を茹で上げます。娘が働く場所の味を、自宅で妻と味わう。 慌ただしい午前中を終えた後の、熱いラーメンの一杯。それは、どんな豪華なフルコースよりも、私たちの心と体を深く温めてくれました。

 

残り一週間、風に乗るように

慌ただしく過ぎる時も、のんびりと流れる時も、時間は等しく、しかし確実に流れていきます。 2025年も残すところ、あと一週間。 車検証がなくても、予定が狂っても、最後には「感謝」という場所に着地できる。それが信仰を持って生きる者の特権なのかもしれません。地上ではバタバタと不器用な足取りだった朝も、最後には聖霊の風に乗って悠々と滑空する信天翁(アホウドリ)のように。 今日という一日を、そして今年という一年を、豊かな恵みとして胸に刻みたいと思います。一休みして今度の礼拝準備です。

 

皆様の元にも、予期せぬ形での「恵み」が届きますように。 メリークリスマス。

 

2025年12月24日水曜日

2025年12月24日、午後11時30分

 


20251224日、午後1130分。 クリスマスイブが静かに幕を閉じようとしています。礼拝堂の蝋燭の灯が消え、街の喧騒も遠のいたこの「最後の時間」に、私たちの心の奥底にある問いを静かに見つめてみたいと思います。


🎄 聖夜の終わりに――「本質」と出会う静かな時間

今日という日は、多くの人にとって「喜び」の日でした。しかし同時に、ある人にとっては「人知れぬ重荷」を抱えながら過ごした一日だったかもしれません。一日の終わりに、私たちは自分自身に問いかけます。

 

1. 本当の悩み、本質的な悩みとは

私たちは日々、多くのことに思い煩います。仕事、健康、将来、そして家族のこと。

今日、娘が病室で過ごした時間は、親である私にとっても「本当の悩み」を突きつけられる時間でした。

しかし、本質的な悩みとは、事象の良し悪しそのものではありません。それは、「自分は独りではないか」「この苦しみに意味はあるのか」という、神様とのつながりに対する不安です。私たちが本当に恐れているのは、状況の悪化ではなく、そこから神様が不在になってしまうことなのです。

 

2. 本当の喜び、本質的な喜びとは

プレゼントを手にした時の高揚感や、賑やかな会食の楽しさは素晴らしいものです。しかし、それらは時と共に過ぎ去ります。

本質的な喜びとは、状況に左右されない確信です。たとえ暗闇の中にいても、「主が共におられる」という一事によって、心の底から湧き上がる静かな平安。それは、2000年前、暗い馬小屋の片隅で羊飼いたちが味わった、世界がどれほど冷たくても「救い主が生まれた」という、揺るがない希望のことです。

 

3. 本当の幸せ、本質的な幸せとは

思い通りに事が運ぶこと、欠けのない生活を送ること。私たちはそれを幸せと呼びがちです。しかし、現実はしばしば理想を裏切ります。

本質的な幸せとは、「Doing(何かをすること)」の成功ではなく、「Being(そこにあること)」の受容です。神様に造られ、愛され、生かされているという事実そのものを丸ごと受け入れること。何かが「できる」から幸せなのではなく、神様の慈しみの中に「今、存在している」こと。これこそが、どんな逆風の中でも私たちを支える本当の幸せです。

 

4. 本当の愛、本質的な愛とは

私たちは愛されたいと願い、愛そうと努めます。しかし、私たちの愛はしばしば条件付きになり、見返りを求めてしまいます。

本質的な愛とは、今夜私たちが祝った「インマヌエル(我らと共にまします神)」そのものです。神様が、欠けだらけの私たちのために、天の座を捨てて、低く汚れた飼い葉桶へと降りてきてくださった。何の条件もなく、ただ「あなたが必要だ」と手を差し伸べてくださる自己犠牲的な愛。この愛に包まれていると知るとき、私たちは初めて、隣人をありのままに愛する自由を得るのです。

 

🕊️ 聖夜の終わりに

時計の針が重なり、新しい一日が始まろうとしています。 「悩み」が消える魔法はありません。しかし、その悩みの中で「本質的な愛」に出会うとき、私たちの悩みは「祈り」へと変えられます。娘の回復を待つ夜も、教会の100周年を想う日々も、この本質に繋がっている限り、すべては神様の御手の中にあります。

 

今夜、あなたの心にあるすべての問いが、主イエスの温かな光に照らされますように。 本質的な幸せが、あなたを包み込みますように。

主の平和が、あなたと共に。 メリークリスマス。